怒声、銃声、爆発音、マキシム機関銃の轟音、悲鳴。
それらがそこかしこに上がり続けるこの地は、まさしく地獄であった。

二〇三高地。
日露戦争の激戦地だ。


「…」

そんな地獄を背に、塹壕内で三十年式歩兵銃を抱く男は静かにその時を待っていた。
カチャッとボルトを操作し薬室へ弾を送り込む。
そしてマキシム機関銃の音が途絶えたその一瞬のうちに身を翻し、凡そあたりを付けていた遥か前方の敵へと照準を合わせ引き金を引く。
そして再度ボルトを操作して排莢し、続け様にまた引き金を引く。
その動作を繰り返し行い、計五発の弾を全弾敵であるロシア兵に命中させた男はサッと塹壕内へと身を隠し、塹壕の壁に背を預ける。
仕留めたのはマキシム機関銃を撃っていた一名と歩兵四名だ。

「今だ!突撃せよーー!!」

男の狙撃によってマキシム機関銃が止まったこの瞬間を逃すものかと、兵士たちはおおおお!と鬨の声を上げて突撃する。
それを背にしても特に表情を変えぬまま、男は撃ち終えたばかりの小銃のボルトを操作し、また五発の弾を込めた。



────…




日が沈み暗闇に包まれた辺りは昼間の阿鼻叫喚とは打って代わり、シンと静寂に包まれていた。
だが月明かりに照らされて浮かび上がるそこら中に転がる何百、何千、何万もの物言わぬ骸たちがここはまだ地獄であると生者へと訴えていた。
それでもこの静寂は銃を撃ち続けていた男にとっては少しだけ心地良かった。

相も変わらず小銃を腕に抱いたまま、塹壕の壁に背を預けて座り、束の間であろう休息を取っているとザッザと固い砂を踏む音が近付いて来た。

「春臣」
「ん?ああ、尾形か」

低い声に名を呼ばれ、ゆっくりと目を開けると小銃を背負った一人の兵が男を見下ろしていた。
そのまるで猫のような大きな黒目にじっと見つめられた男──…白野 春臣は今日もお互い無事なようで何よりだな、と柔く笑んで立ち上がる。

尾形 百之助。
春臣と同じ上等兵で、自他ともに認める狙撃の腕はまさに百発百中。
春臣とて狙撃手の中ではかなり優秀であるが、この尾形 百之助の腕前にはいつも舌を巻いていた。

「相当仕留めたようだな。マキシム機関銃が止まっていた」
「なんだ見てたのか」
「見てた。相変わらず腕は良いな」
「腕“は”?俺は顔も良いんだが?」
「だがまあそれでも俺の次にだが」
「それこそ腕“は”な?」
「寝言は寝て言え」
「寝言じゃねぇよ」

とは言いつつ、別に尾形の容姿が整っていないとか、そんなことは思っていない。
むしろ軍人の中でも随分な男前だと春臣は思っているのだが、どこか悔しく腹立たしいから言わないのだ。


「ま、尾形のことだ今日も相当仕留めたんだろう」
「当然だな」

そう言ってフンと鼻で笑い、尾形は軍帽を撫で付ける。
それに対し春臣は慣れたように「さすがは尾形上等兵殿」と控えめな拍手を送った。


上等兵という階級に狙撃が得手と共通している二人は出征のずっと前から兵営で共に過ごす時間が多く、戦場でも軽口を言い合う程仲が良かった。

今でこそ少し慣れたようだが、当時はそんな二人の組み合わせに第七師団の兵営はよくざわついていた。
彼らからすると二人はあまりにも異色の組み合わせだったのだ。

春臣はすれ違うことがあれば誰もが皆振り向く程、容姿が整っていた。
軍帽から覗く切れ長な目がニコリとでも微笑んでみれば街の女性たちからは黄色い声が上がった。
更に春臣は軍の規律を重んじ、与えられる命令にも忠実で上官にも気に入られ、訓練も常に真剣に取り組む、兵士の鏡のような男だった。
だが優秀故に近寄りがたいらしく、兵営の中では少し浮いている。
それでも流れる噂はどれも良いものばかりで、それはあまりにも退屈でつまらない男だなと噂を耳にした春臣本人は言った。

対して尾形は悪い噂が尽きなかった。
その大部分は尾形の出自がそうさせていた。
春臣と尾形が所属する第七師団その師団長である花沢幸次郎が尾形の父だ。
それだけ聞けば素晴らしい出自だと思うが、しかし尾形は花沢幸次郎の正妻の子でなく妾の子だった。
規律を重んじ、上官にも忠実に従い、他の追随を許さぬ程射撃が優秀であるのに。
父、花沢幸次郎は尾形に見向きもしなかった。
ヒソヒソと囁かれる噂には尾ひれが付き、尾形は生まれを暗喩する山猫と呼ばれ兵士の大半が尾形を避けた。
尾形自身も人付き合いがあまり好きでないのか極力周りと関わろうとはせず、ただ淡々と毎日を過ごしていた。


そんな二人が関わるきっかけを作ったのは意外にも尾形の方だった。


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