短編


ビールとドーパミンとファーストキス



 全ては私の迂闊な言動から始まった。

 始令前の朝の教室。早めに来る生徒も居れば、遅刻ギリギリに入ってくる生徒も居る、今日もそんなありきたりな一日が始まる───はずだった。私は前述のどちらでもなく、いつものように少し読書に時間を割ける程度の無難な時間帯に教室へ入り、昨日終盤まで読み進めたが途中で寝落ちしてしまって非常に良いところでお預け状態になっている小説の続きを読んでいた。集中して周囲の喧騒も聴こえないほど物語に入り込んでいた私はとあるキスシーンに辿り着いたところでふと、自分と想い人を頭の中で登場人物に入れ替えて想像してみた。───それが間違いの始まりだったのかもしれない。
 経験が無いというのは、想像の宝庫である。親族を除けばファーストキス未経験。年頃の恋する女性にとってそれを好きな男性と交わすことはどうしてこうも胸躍るものなのだろうか。まったくもって人間の神秘である。ついに重なる薄い唇。触れ合わずとも互いの熱で埋まりそうな距離の肌と肌。凍結する思考回路。熱い吐息。痺れる下腹部。呼吸機能の限界を迎えたところでようやく離れた唇の先にある獰猛を秘めた控えめな眼差し。

「あー、倉持とチューしたい」

 読書に集中力を発揮していた脳が、そこから無意識に徐ろに緩んでいく。注意力とともに。此処が知人ばかりの公共の場であることをすっかり忘れ、恍惚のまま思わず漏らした願望は、あまりにも場にそぐわなかった。私という存在はその瞬間、この学業の施設における異端者と成り果てた。恥辱に塗れた吐露がその空間に霧散して数秒経ち、あわれな私がようやくそのことに気付くのとほぼ同時、虚をつかれたというような声が私の耳にいやに鮮明に届いた。

「え」

 たった一文字分のその声。だけれども私にはその音の短さでも充分に判別することが出来た。その声の主がどこの誰であるのかを。何故ならそれは私が今しがた脳内で接吻を交わした相手だからである。つまり私の好きな人、同じクラスの野球部、倉持洋一その人の声に違いないと。
 私というあわれな存在は、まず愚かにも自分で導き出した答えを否定してみるのだが、勿論それは最良ではなかった。なにせそれでは何も状況が一変しない。私は次に、自分の真後ろで発された声の主とその様子を確認するべく首を回し始める。ところがこれが驚くほど回らない。まるで錆びたブリキのように愉快かつ狂気的な音が聴こえそうな動きで、日も暮れそうな速さで私はようやっと首を回した。

「……」
「……」

 私と目が合ったその人物はいやはや私の予想通りの人物であった。昨日までと同じ様相で私の席の真後ろを通過しようとして、“何か”聞き捨てならないものを聴いて思わず立ち止まった風であった。哀しいことに、何もかも私の脳内の情報処理結果と状況が一致してしまう。自分で撒いた種なのだが、我ながら不憫でならなかった。どこかに救いの手は落ちていないだろうかと期待してしまうが、人生はそう都合の良いことばかりではないことも分かっている。
 さて、好きな人と見つめ合い始めて何秒経っただろうか。現実逃避をやめようにも、なかなか良い打開策が思い浮かばない。かくなる上は選択肢はもはや一つしか残されていなかった。現場逃亡である。

「あっ、お、い…」

 教室を後にするその背後でらしくないか細い声が響いたが、そんなことにさえ気を配れないほど私は自分のことでいっぱいいっぱいだった。現実を振りほどくように、願わくば時間を超越するようにと無我夢中で校舎を走り回り、最終的には教師に止められてチャイムと同時に教室へ戻るのだった。穴があったら入りたいとは正にこのことだろう。


 あの事件から数日が経過した。あの日から、私は倉持のことを視界に入れることが出来ないでいる。しかしあれから何度か不意に声をかけられることもあったが、その度に私は「ごめん」と礼を欠いた謝罪を残して脱兎の如く逃亡を繰り返した。私が一方的に倉持を避けている形になってしまっている現状。こんなに長い期間、倉持とまともな会話を交わさないのは初めてかもしれない。こんなに長い期間、倉持のことを見ることが出来ないのも冬休みと春休み以来だ。目下、現状を必死こいて維持し続ける日々。私はいつまでこの滑稽な真似を続ければ良いのだろうかと考えてあの日の後悔に苛まれ、更に自身の意気地の無さに呆れ返ったのも、かれこれ一度や二度では無い。

「苗字、倉持と何かあった?」

 そう声をかけてきたのは御幸一也。倉持と同じ野球部で同じく私のクラスメイトだが、倉持ほどよく話すわけではない。その男がわざわざ私に話しかけてきた。珍しいこともあるものだと現実逃避してしまいたいのは、その話題から逃れたいから。しかしなかなかどうしてこの男は性格が悪かった。若干齢十七にして、自他ともに認める歪んだ性格の持ち主である。顔は良いのに性格が悪いというフレーズがぴったりと付き纏うのがこの男、御幸一也なのである。この場で誤魔化せたとしてもまたしつこく詰問してきそうだ。困ったことには、この男と私の想い人は女子から見たら唯一無二の親友と言っても過言ではないほどによく行動をともにしている。互い以外に友達がいないのではないかと疑うほどのニコイチっぷりだ。倉持洋一に恋をしておいて、御幸一也の存在を無視するというのはもはや不可能に近い。よって、私はこれから始まる難儀であろう会話に内心溜め息を吐いて、営業スマイルを貼り付けつつ受け答えに努めることを選んだ。

「何かって?」
「いや、何かが分かんねぇから訊いてんじゃん」
「……」
「ここ最近お前やたらよそよそしいし、倉持はやたらお前のこと見てるし、」
「え?」
「え?」

 御幸には悪いが黙秘で貫き通すつもりだったのに、思いもよらない情報が飛び込んできて思わず聞き返してしまった。御幸は話の途中だったらしく、私に遮られたことに驚いてオウム返しを繰り出してきた。まあそれは置いておいていい。問題は、倉持が私のことをやたら見ているという、それも倉持に最も近しい人物から齎された情報だ。なんてことだ。私は無防備にも知らないところで倉持の視線に晒されていたらしい。過去は変えられないと分かっていても、受け入れがたいその情報を事実として向き合うにはそれなりの時間が必要だった。そして丁度良くかはたまた追い討ちをかけるようにか、トイレかどこかから戻ってきた倉持が教室へ入ってきて私達二人をその目に映した。倉持とこうして目が合う度に私の心は嵐の様に荒れ狂い、あの日のあの最悪の失態がフラッシュバックする。

「わっ、私トイレ行ってくるから」

 息を詰まらせながら倉持が御幸に話しかけにこちらへ近付いてくる可能性に怯え、慌てて席を立って倉持が入ってきた扉とは反対側から教室を出た。廊下を早歩きしながら、冷や汗をかいている自分に気付いて立ち止まる。肩が上下するほど呼吸も少し乱れている。なんと情けないことだろう。

「はぁ。なんでこんなことに…」


 倉持とは、まあまあ話す方だったと思う。御幸が倉持の友達だと仮定するなら、私は倉持にとってクラスメイト以上友達未満のような関係。倉持が野球部の後輩や部員に対して蹴ったり乱暴──といっても殴っているところは見たこと無いしおそらくじゃれ合いの範疇である──している場面とかよく見るけれど、私には身体的接触をしてくることはほとんど無い。私達の会話の内容もそれこそ取るに足らないことばかり。それでも、それなのに、私はいつの間にか倉持に魅力を感じ、惹かれていた。その感情は次第に成長し、やがて自分では抑えられないほどの立派な恋慕に成り果てた。抑えられないほどとはいえ、恋愛自体が初めてというわけではないし、倉持が私に気が無いことなどその頃にはとっくに思い知っていた。それでも成長を続けようとするのだから、恋とは恐ろしいものだと痛感する日々。不幸中の幸いなのは、現状、倉持に意中の相手らしい女子が私の知る限りは居ないことだ。共学の学び舎に通う思春期の学生故に多少の嫉妬は随所で発生するものの、特定の激しい嫉妬と憎悪に苛まれずに済むというのは、大きな安心材料となる。そしてライバルが居ない以上、私が無理に早まって当たって砕ける必要は無い。たとえこの先彼が私を好きになる可能性が限り無くゼロに近いとしても、自ら死期を早める行動など誰が取るものか。
 この想いがバレれば倉持は私を避けるに違いない。そう思っていたからこそ秘め続けていた。しかし実際はバレた今、私が倉持を避けている。こんなことになるなどと神さえも予想だにしなかったのではないだろうか。いや、あのタイミングで私の声を至近距離で当人が聞いたのは神の悪戯だったのかもしれない。とにかく、アレを今からでも無効にしてしまいたい。悪戯を働いた神様が存在するならば後始末の責任を取って欲しいものだ。

 トイレから戻ってきた教室には人っ子一人居なかった。

「あれ、次って移動教室……あ、…ああーーーーーっ!」

 まさにもぬけの殻なその光景を見て次が移動教室だったことに気付く。更にその移動教室で、私と倉持は隣同士だということに思い当たり悲鳴を上げた。保健室へサボりに行こうかという妙案を真っ先に思い付くほど逃げ腰になってしまう。しかし残念ながら重要科目であり、テスト期間まで間もない。私は腹を括って移動教室先へ泣き出したい思いで走ったのだった。


「はい、今配ったプリントを見て下さい。この英文には、───」

 巨乳で若い女性教師の朗々とした声が特別教室に響く。週に一度か二度の数少ないこの教科だが、曲がりなりにも英語科目の一つであり期末テストもある為テスト期間直前の今はみんな必死に耳を傾ける。最も、教師の第一声と同時にギリギリで教室へ駆け込んだ私が目下必死になっているのは、隣の倉持から意識を外すことであった。この授業では隣同士ペアで組んで活動することも多いのだが幸いテスト期間直前のおかげで今日は無さそうだ。しかし先程の御幸からの情報がどうしても頭をチラついて離れない。倉持が今も私を凝視しているのではないかと自意識過剰になってしまうのを止めたくて仕方がないのだ。自意識過剰になっている自分が我ながら恥ずかしくて軽く自己嫌悪に陥りながらも視界に倉持を入れないように細心の注意を払っている私は一体どれほど間抜けであろうか。
 これほど授業が長く感じたのはかつて空腹の音が鳴り止まない四時限目の時以来だと、またもや思考が現実逃避しかけたその時。

──コンコン、

 集中力が途切れ意識が朦朧としかけた頃、自分が使っている机が控えめな軽快音を立てた。条件反射で視線を向けると、私の領域であるはずのそこには見覚えのない白い紙切れと日焼けした誰かの手があって。疑問点が生じた人間の心理か、私は何の躊躇も無く馬鹿みたいにその離れていく腕を目で追い、この数十分間必死に視界に映さないように苦心してきた存在を呆気なく網膜に刻んだ。
 随分、久しぶりかのように思えた彼がこの目に映るその光景を半ば懐かしむように呆けて眺めていると、彼の口元が動いた。口パクのそれが示す言葉は「それ」だろうか。そして“それ゛とは机上の端に置き去りにされたこの白い紙切れのことだろう。しばらくぶりの好きな人成分の供給にさながらサラリーマンが仕事帰りに待ち望んだ一杯のビールを豪快にあおったかのように妙に満たされてしまっている私の脳はドーパミンを出すだけで思考を忘れ、その結果私は考え無しにその紙切れをめくった。

──『これ終わったら話がある』
──『逃げんなよ』

 ぶっきらぼうな文体も、優しい筆圧も、率直な行間も、どれを取っても彼の為人ひととなりの証左を成しているようで、粗末な紙切れさえも愛おしく思えてならない。私は本当に骨の髄まで倉持洋一という男に惚れてしまっているようだと改めて思い知らされるひと時だった。
 一度逸らしてしまった視線をもう一度──それも今度は無意識にとはいかない──好きな人へ向けることはスカイダイビングするより勇気を必要とする気もしたが、それでも欲望と衝動が圧倒的に勝り、私は再度労働後のビールを味わうべく視線を隣の席へと向けた。

「……」

 彼は前方を向き、巨乳の女性教師を視界に捉えて真面目な顔をしていた。教師は先程の倉持の青春っぽい行動にも、今私が余所見をしていることにも気付いていないようで、授業が始まった時から一貫して淡々と解説を続けている。その声を遠くに聞きながら、私はビールを味わい続ける。ビールどころかお酒なんて勿論飲んだことは無いが、彼の横顔はきっとどんなお酒よりも甘美でどんなお酒より私を酔わせた。こんなに横顔がカッコ良い人を他に知らない。他の誰にも見せたくない。今この時が永遠になればいいのに───。思考の渦に呑み込まれて目に涙が滲んできた。泣きじゃくるのを一歩手前で堪えながら、こんなみっともない顔を倉持に見られるわけにはいかないという考えに至ってそっと首を戻す。そういえば、さっき顔を見合せた時私は間抜けな表情をしていなかっただろうか。今更ながら、見慣れたはずのクラスメイトの顔にうっとり見惚れただなんて恥ずかしくて堪らない。恋は盲目とはこういうことも言うのだろうか。どうやら好きな人を見つめるという行為は、恋する乙女にとって至高の喜びであるらしい。

「最後の問題が解けた人は来週の───」

 教師が来週の話を始めた。あと数分足らずで授業が終わる。倉持からのいじらしいお便りによると、私は逃げることは許されないらしい。……だが断る!!! 現状このタイミングで切り出される話など、私を奈落の底へ突き落とす話題に決まっている。ならば問答無用、逃げるは恥だが役に立つのだ。私に迷いは……無いと云えば嘘になるが、フラれるにしても私の安寧な未来の為に心の準備というものが必要不可欠であり、私にはまだそれが不充分である。よって、今は逃亡を選択させてもらうことにしよう。私は倉持のノートの一部だったであろう例の白い紙切れのメモを宝物認定し丁寧に折り畳んで胸ポケットに仕舞い込み、チャイムまで数分あるにも拘わらず早々に机上の整理に取り掛かった。勿論教師から見えないようにさりげなく徐々に、である。
 しかし隣の倉持からは丸見えだったようで、私が片付け終えて椅子を静かに引き片足を机からそっと出した途端隣から舌打ちが聴こえてきた。

「(こいつ…! この俺から逃げられるとでも思ってやがんのか)」

 ああ、舌打ち一つで心の声が聞こえてくるようだ。隣をわざわざ見なくてもひしひしと突き刺さる視線を感じる。これは間違いなく睨まれている。きっとあの人相悪い凄まじい形相で私を睨み付けているのだろう。これは一歩分のフライングアドバンテージを用意したところで油断は出来そうにないな。私だって倉持の足が速いことくらい知ってるよ。盗塁に必要な技術としてスタートの切り方が重要なことも知ってる。でもね、私が持ち得るアドバンテージを最大限活かせば、そして運良く彼処へ逃げ込むことが出来れば勝負は分からない。つまり、こうして座っている間にも私の逃走経路は完成されていくのだ。フフフ、既に勝負は始まっている。私だってこう見えても廊下を走ることにかけては右に出る者は居ないんだからね(危ないので廊下を走ってはいけません)。

「(あと三秒、に、いち…!)」

──ガタッ、

 私が椅子を勢い良く引いた音に続いてチャイムが鳴った。フライング加減も絶妙、見事成功である。私はイメージトレーニング通りに、予め抱き込んでいた筆記道具と教科書とノートと電子辞書を抱きしめたまますかさず立ち上がり脇目を振らず最短距離で机を掻い潜り廊下へ飛び出た。

「待ちやがれ! 苗字!」

 やはり倉持は激昂した様子で追ってきた。スタートダッシュは申し分無かったおかげで遙か後方から響く私を呼ぶ声。だが盗み見た限りでは教科書類を持っていない。そんなの反則だ。心の中でそう叫んだ私は落とさないように荷物を抱えて走っているのが馬鹿らしくなり、階段を登る時に──電子辞書もあるのでそっと踊り場に置いて──手放した。

「待てっつってんだろ!」

 それでも尚、引き離すどころかどんどん背中に差し迫ってくる怒声。最初にあった何十メートルかのアドバンテージが今や何センチ残っているのかと確かめるのも怖くて振り向けない。流石はチーター様と呼ばれるだけはある。とすると私はさながら肉食動物に捕食される獲物か。そんなことを頭の隅で考えながらも私は何度もすくみそうになる足を動かして目的の階へ到着した。
 背後から与えられる圧力が半端ないのだ。言葉遣いの悪さも相俟って、ヤクザにでも追われているような気分さえ味わったことに笑いが込み上げてくる。そしてその余裕が微かに生まれたのは、遠からず見えたある男の姿故に。その人物とは───。

「結城先輩…!」

 そう、野球部を統率する親玉、もとい主将である。そして此処は三年生の階。いくらキレて手がつけられなくなった倉持とはいえ、先輩、それも部長には逆らえないという私の一縷の望みをかけた読みであった。最後の力を振り絞って結城先輩の背後に駆け込んだ。周囲には結城先輩より体格の大きい増子先輩やエースの丹波先輩も居て、偶然にもいい感じに城壁の役割を担ってくれている。降って湧いたトラブルに巻き込まれ少なからず動揺している先輩達には申し訳ないが、あの倉持の表情を見て察して頂きたい。

「っ! 哲さん…! チッ…苗字、てめぇ…!」

 まさか私が結城先輩を盾にするとは予想外だったようで、勝ちを確信していた倉持が先輩達を見た途端目を見開いて面白いほど怯み奥歯を噛み締める様子に逆に可哀相になってしまった。野球部にとって先輩とはそんなに恐い存在なのだろうか。

「お前は確か倉持の…」
「あ、はい、クラスメイトの、苗字です」

 状況を掴んだのか否か判断がつかないマイペースさで結城先輩に話しかけられ、息を整えながら自己紹介していると、廊下で騒ぎ過ぎたのか教室から次々と野球部の見たことあるレギュラーメンバーが顔を出してきた。

「廊下で騒ぎ過ぎ。何やってんの?」
「おー、倉持じゃねぇか。何しに……ん? なんだ、この状況?」
「亮さん…純さん…。哲さんも、迷惑かけてすんません! そいつに話があるんですけど、こっちに引き渡してもらえませんか?」
「ハハ、なんかその言い方だと人攫いみてぇだな」

──グギュルルル

「腹の音で同意すんな増子!」

 三年の先輩達を前に畏まる倉持の言い回しにツッコむ伊佐敷先輩。確かにこれで敬語を遣っていなかったら完全に悪役の台詞だ。増子先輩も腹の虫で返事(?)をしたらしく、同じく鋭いツッコミを受けていた。

「だそうだが、苗字?」
「結城先輩……、でも私、私…その話を聞いたら明日から生きていけません…」

 結城先輩が優しい声音で促してくれたけれど、私はまだ倉持と話をしたくないのだ。その一心でこの数日間避けまくってきたのに。でも、そんな悪足掻きもここまでなのだろうか。こんな、衆目に晒されながら公開処刑の如く好きな人にフラれなければならないのだろうか。それは流石にちょっと人生ハードモード過ぎやしないでしょうか。

「生きてけねぇって…、倉持お前何の話するつもりだコラァ!」
「っ、それは…、」

 私の苦し紛れの言葉を伊佐敷先輩が拾ってくれて、見当違いだけど倉持に言及までしてくれた。それに対して倉持は口ごもる。それはそうだろう。女子から告白まがいのことを言われて今からすっぱりはっきりフるところですだなんて、とても言いづらいに違いない。

「…へぇ、女の子にあんな顔させるような話なんだ?」

 私は、一体今どんな顔をしているんだろうか。結城先輩の影に隠れていた私の様子の変化にいち早く気付いたのはどうやら小湊先輩のようで、彼の発言でその場に居る全員が私に注目した。

「っ…、」

 勘弁してよ。女の子は見世物じゃないんだよ。こんな情けない顔で大勢の無関係な人達に奇異の目を向けられているところを好きな人に見られたくなんてなかったのに。あーあ、もう、ここまでくれば無様もいいとこ、格好なんてつけようがないな。そう思考回路が開き直ったところで私は憂いや鬱憤を吐き出すように叫んでいた。

「分かったよもう! その話とやらで倉持が訊きたいであろう質問に答えてあげる! 覚悟はいーい? 知らないからね! 私、もうやけくそなんだからね!?」
「お、おい、お前まさか…」

 私の気が触れたとでも思ったのか、そんな私の奇行妄言を制止しようとでも試みたのか、倉持は危険物でも見るかのような目で私に片手を中途半端に伸ばした。しかしそんなのもう知ったことではない。もはや止められないし止めるつもりもない。

「私は、倉持のことがすっごく、めちゃくちゃ、この上なく、とてつもなく、超猛烈に、すこぶる、…大好き!!」
「……」

 もう人目があることなんて気にせず、この想いが丸ごと伝わってしまえと、思い付く限りの修飾語を駆使して告白をした。やりきった、と思い目を開くとこの人集ひとだかりが嘘みたいに辺りはしんと静まり返った。

「な…、の!! そんで、返事は受け付けてないから!」

 あまりに居たたまれなくてそのままの勢いで不格好に締め括り、捨て台詞宜しく私は再度逃亡。


 さっきと同じように校舎を走り回る。あの日と同じように。現実から目を背けるように。知らない。あの空気の後始末なんて知らない。本当に、今日は人生で最悪の日に違いない。やってらんないよ。ちょっとくらい良いことがあったっていいじゃないか。

「はぁ、はぁ、」

 気力と体力の限界がとうとうやってきたのか、足を止めると同時に涙腺が弛んできた。今日は何度も泣きたいのを我慢して頑張った。それにいっぱい走った。なんで走ったんだっけ。倉持から逃げてた。そういえば今日、私、逃げ出してばっかりだ。

──トタトタトタ、

「っ、」

 後方から聴こえてくる足音にハッとして周囲を見回すとそこは特別棟──大講義室や理科実験室や美術室や調理室などで構成される普段は人気ひとけの無い校舎──だった。人目を避けたかった深層心理が働いたのかもしれない。そして私を追ってくる足音は一人分。十中八九、倉持だろう。
 悪足掻きしようと足を踏み出そうとしたところで私は驚いた。足音が近づいてくる速さが尋常ではないことに。もしかするとさっきの鬼ごっこは彼の本気ではなかったのかもしれないと思わせられるほどの接近速度だった。今から加速したところでもう捕まるのは分かりきっていたけれど、それでも往生際悪く数歩進めたところでチーター様に追い抜かれてたたらを踏んだ。

「……」

 とことん往生際の悪い私は今にも涙腺崩壊しそうな情けない顔を見せたくなくて回れ右をして倉持を背にダメ元で前進を試みる。

「待てって。勘弁しろ。お前、どんだけ俺に走らせる気だ」

 しかしやはり呆気なく腕を掴まれてしまった。とうとう鬼ごっこはお終いのようだ。タイミング良くも次限開始を告げるチャイムが鳴り響いて無言の時間を演出した。二人とも動かない。私は授業なんてもはやサボるつもりだった。でも倉持はどうなんだろう。返事は要らないと言い残したのに追ってきたということは、私はそれでもフラれる覚悟をしなければならないのだろうか。嫌だな。フラれたくない。倉持にフラれたくない。ヤバい、泣きそう。だって誰だってフラれたくないでしょ? 気持ちだけ伝えたんだからそれで勘弁してよ。返事なんて望まない。今までの関係で充分なんだよ私は。あ、もうだめだ、溢れる……。

「手ぇ離して」
「…離したらまた逃げんだろーが」
「てゆーかなんで追ってくんの!? 返事要らないって言ったじゃん! 私はまだ今のままでいたいの! 倉持に迷惑かけないから、好きでいさせてよ! まだ私、フラれたくない…! だから離して!」
「おい、なんでフラれる前提なんだよ? フラねーよ!」
「………へ?」

 視線を合わせないまま倉持の腕を振りほどこうと本音を吐露した拍子に軽く暴れると、思いもよらない返答が聴こえて一瞬耳を疑った。思わず動きを止めて硬直してしまう。聞き間違いだろうか。最近現実逃避ばかりしていたから幻聴が聴こえるようになってしまったのかもしれない。

「フラ…え、今なんて?」
「フラねーっつったんだよ」

 久しぶりにいつもみたいに会話出来ている気がする。でも倉持の様子がいつもと違う。顔もちょっと赤い気がする。私は倉持を凝視しているのに目がなかなか合わないのは私の泣き顔を見るのが忍びないからだろうか。でも私はそんなこと気にしていられないよ。それより、フラないってどういうこと? 倉持が私をフラないの? フラないならどうするの? このまま倉持と今の関係でいてもいいってこと?

「なんで…?」
「なんでって…。そんなの理由一つしかねーだろ。…俺もついこないだ気付いたばっかだし、信じてもらえねーかもしれねぇけどよ、お前のこと、好きになっちまったんだからフるわけねーだろ」
「なにそれ…、嘘だぁ〜」

 好きな人の口から夢のような台詞が聞けて、自分でもわけが分からないまま身体中の緊張が途切れ、驚きで一瞬だけ引っ込んでいた涙は再び決壊し、私は泣き出しながら膝をついた。倉持の主張は証拠も何もなくて意味不明なのに、照れて視線を逸らして唇を尖らせる様子とか、私の腕を掴んでいる手の下がっていく温度とか、ああ緊張しているんだなぁって妙に真実味があって。私に都合が良過ぎて信じられないと頭では否定しているのに、どうしてか心が納得して信じてしまっていた。
 嗚咽を続ける私の涙を拭おうと倉持もしゃがんでくれて、今度は真っ直ぐに見つめ合う。

「嘘じゃねぇし、あの日お前が呟いてたこともちゃんと覚えてるぜ」
「あの日…?」

 イキイキとした意地悪そうな表情の倉持が言った言葉を反芻する。相変わらず倉持は表情豊かだなぁ、なんて呆けつつ同時に記憶を辿ると、すぐに該当する最近のトラウマに思い当たった。それは何を隠そう事の全ての原因であり私の不注意な発言である。

──「あー、倉持とチューしたい」

 数日経った今思い出しても穴に入りたくなる恥ずかしい願望である。

「う…、お願いだからアレだけは忘れてよ」
「やなこった。ヒャハッ」
「っ…、」

 毎日バットと硬球ばかり扱うような男の手が、初めて私のこめかみに触れてきて息を呑んだ。その手は私の前髪を申し訳程度にかき分けて離れていった。時間にしてみればたったの一〜二秒。それだけのこと。しかし惚れた弱みというものはどこまでも付き纏うものらしい。久しぶりに見る倉持の愉快そうな顔も笑い声も、そして女に触れるみたいなその初めて見る手付きも、今の私には刺激があまりに強かった。本能的に心の平穏をいかばかりか求めた私の取った行動は後退りだった。しかしそれは紛れもない悪手。その証拠に、倉持は間を詰めてきてついには私を廊下の壁へと追いやり覆いかぶさってきた。ちょっと待ってくれ、ここまで積極的な男だとは聞いていない。野球部って女に飢えてるものの、もっと初心うぶなものなんじゃないの? 心の平穏どころか追い討ちをかけられてしまった私は絶体絶命の図。チーター様にいつ美味しく頂かれてもおかしくない獲物に成り戻った。その上、視線を逸らして羞恥心と鼓動の高鳴りが治まる時間を稼ごうとしても倉持は待ってはくれないようで。

「…するか?」

 徐々に顔を近づけてきて、途端に低音ボイスを奏でてくる目の前の男を二度見してやりたい衝動に駆られる。お前正気か? と。本気なのか冗談なのか、思わず見つめ返すが、どうやらこの男は本気らしい。本気で此処で接吻をする気だ。それが分かった時点で私は懲りずにお得意のトンズラをこきたくなるのだが、今日逃げっぱなしの自分に辟易したのは記憶に新しい。今度こそ、今度こそ逃げてたまるものかと私は人知れず腹を括る。どの道倉持に覆いかぶさられているので逃げ道も無かった。
 私の是非を急かしているように不意に顎に触れられ、いつの間にか間近に迫っていた倉持の顔がどことなく色っぽくて呼吸が乱れる。どうもおかしい。まるで魔法にかけられたように私の理性が飛んでいっているような気がする。私は今倉持に欲情でもしているのだろうか。そうだ、そもそもチューがしたいと言ったのは他でもない私ではないか。待ちきれないとでも言うように私の顎に添えられている倉持の手にほんの少し力が入った。今か今かと私の合図を待っている。つまり、倉持も私とそれをしたいということか。穴が空きそうなほどその熱のこもった眼差しに射抜かれている私は彼の刺激的なまでのフェロモンに屈してか、それに触発されて自らの欲望に忠実に従ったのか、それともお預けしている状況にとうとう居たたまれなくなったのか、ついにその合図を告げた。

「したい」

 微かに口角が上がった唇がそれを待ち望んでいたらしい私の唇に触れ、まるで求めるように感触を貪り合った。これが、私の願ったファーストキス。数日前の私が妄想した倉持とのそれは、実際してみると想像以上に現実的で、それでいて恐るべき溺惑を秘めていて、労働後のビールなんかとは比べ物にならないほど依存性が高く、きっとドーパミンを馬鹿みたいに増産しながら私は没頭した。

 こうして今日という日は、めでたく私の人生最高の日になった。


「倉持、チューして」
「お前な、節操って言葉知ってるか?」
「おーいお前ら、発情するにしても場所を考えろよ。此処は学校なんだぜ」
「げっ御幸! いつの間に…」
「最悪な奴に弱み握られた…」

 その後、私が倉持と顔を合わせる度に所構わず物陰に連れ込んでせがむほど接吻にハマっていることが野球部の面々に知れ渡ってしまうのは、また別の話。


─end.




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