短編


タイム


「倉持くんのことが、好きです」
「…あー、わりぃ」

 この恋が実るイメージなんてちっともなかった。だって、私は同じクラスの倉持くんと話したこともなかったのだから。フラれるなんて分かりきっていたこと。なのに、いざそうなると自分の脳は現実を拒んで逃避しようとしている。

「気持ちは嬉しいけどよ、付き合うとかは…」

 そうやって自分の中だけで戦っている間に、柔らかい拒絶の言葉が畳み掛けられる。フラれた事実を脳が拒んでいる以上、今辛いのは好きな人に気を使わせているという現状だった。それだけは上手に理解出来たので、これ以上気を使わせないように声を絞り出す。

「うん、分かった」

 まるでそこまで真剣な想いじゃなかったみたいに振る舞おうとしてしまう私はきっと笑顔も態度も中途半端だ。ただ、未練だけは途方もないほど内在して発散の仕方も分からなくて。只管ひたすら倉持くんの小さくなっていく背中を見えなくなるまで見つめた。

 つまり私は、好きな人に告白をして、フラれたのだ。もうそれは清々しいくらいの失恋。それなのにフラれた今もまだこの恋心を消化出来ないでいる。付き合えるかもしれないだなんて小さな希望は確かにどこかに捨てきれず存在していたけれど、とにかくこの持て余す想いを伝えたいとか、フラれてスッキリキッパリ諦めて心機一転したいとか、何かしら前へ進めるんじゃないかって、そういう目的の方が大きかった。しかし私はそのどれも達成出来なかった。せっかく勇気を出したのに肝心なところで素直になれず強がって振舞ってしまい、“好き”の十分の一も伝えきれていない気がするし、それ故に不完全燃焼で燻った想いはまだまだ私の中から出ていこうとしない。実に情けない有り様だ。
 そもそも同じクラスとはいえ会話もほとんどしたことが無かったのだからフラれるのは当然といえば当然。でも私は残念なことに、片想いの数ばかりが増えていく割にまだ恋愛経験がほとんど無くて、告白する前にお互いの理解を深めてそれなりの関係を築き上げ好感度を稼いでおくなんていう上等な発想は全く持ち合わせていなかったのだ。告白する勇気だけはあっても、相手の気持ちや周りのことが見えていない。そんな風に遠目から望遠鏡で眺めてばかりいるような後ろ向きな片想いばかり積み重ねてきた。


 だけど、いや、だからか、私は立ち直りだけは早かった。今回だけ違ったのは、好きな人への関心が全く無くならなかったことだ。

「おはよう、倉持くん」
「…お、おう」

 いざフラれてみれば、私は倉持洋一という人物のことを大して知らないということに気付けたのだ。ほとんど話したこともなかったのだから、当然といえば当然のこと。そして私は、もっと知りたいと思えた。とても、新鮮な気持ちで。この清々しい気持ちは何だろう。この気持ちはなんだろうの歌詞がまさに今の心境なのである。勇気みたいなものが腹の底から無限生産出来そうな、今なら何も怖くないと思えてしまう無敵モード。昨日フラれたばかりの好きな人にも余裕の笑顔で話しかけることが出来る。私は生まれ変わった。人が変わるのに時間は必要無いのだ。
 フラれはしたものの、まるでそんなこと無かったかのように毎日私の視線は厚かましくもまだ倉持くんを追ってしまう。更に厚かましいことに、視線が交わっても尚私は視線を逸らさなくなった。私が視線を逸らそうとしないことを悟った倉持くんは、色んな反応を見せてくれる。心底嫌そうな顔をしたり、舌打ちをしたり、怖い顔で睨んだり、視線を逸らしたり。こんなに愉快なリアクションをしてくれるのなら、告白して正解だったとさえ思えた。次は一体どんなリアクションを取ってくれるのかなと、ワクワクしながら見つめ返している自分がいることにいつしか気付く。やっぱり私は、倉持くんのことがどうしようもなく好きみたいだ。

 そしてフラれた次の週のある日、席替えがあって、私は倉持くんの隣の席になった。やったー!

「倉持くん、よろしくね」
「…あぁ」

 なんだこいつ、みたいな目で見られて失礼だなとは思いつつもあんまり気にならない。嬉しさが勝って顔面の緩みを引き締めることさえ難しい。なんたって、これからは授業中も倉持くんを眺め放題であるからして!


「……」
「……はぁ〜」

 おっと。今度は溜め息を吐かれてしまった。なかなか倉持くんの視線がこっちに戻ってこない。もしかして本気で嫌がられてしまったのだろうか。

「倉持。俺の授業に何か不満があるのか?」
「いっいえ、不満なんてこれっぽっちも無いっス! 失礼しました!」
「他の授業でも溜め息は吐くなよ」
「はいっ」

 溜め息を耳ざとく聞きつけた先生に注意されて背筋を伸ばす倉持くんは普段教室では見せないような軍隊みたいなキビキビした挙動で受け答えするので物珍しくて目を見張った。そういえば現国の片岡先生は野球部の監督だって友達から聞いたことがあるのを思い出した。なるほど、倉持くんは監督には頭が上がらないのか。また新たな一面を知って私は優越感を覚えつつ、クラス中のクスクス笑いに紛れてニヤニヤと顔だけで倉持くんを笑ってやった。悔しそうな表情を一心にこちらに向けてくる彼を見て、初めて可愛いという感想を抱いた。


 現国の授業以外は、倉持くんは時々寝ていることがある。最初は私とは反対側に顔を向けていたり伏せていたりだったが、そのうち油断したのかついに初めてこちらに顔を向けて目を瞑った倉持くんのその寝顔を目撃した時の私の心境を想像して頂きたい。そう、それは懐かない野良猫がゴロニャ〜ンと鳴いた時のような、噛み付いてきていた近所の犬が腹を見せた時のような。未開の地を開拓したような啓蒙感が私を貫いたのである。許されるならば今すぐにスマホを取り出してシャッターを切りたい。そんな衝動を抑えることだけに集中してその授業の残り時間を過ごした。写真に残せないのならばと、必死に網膜に焼き付けたのは言うまでもないだろう。

「ふぁ…あ〜」

 授業終了のチャイムが鳴り響いて先生が退室すると、一斉に目を覚まし欠伸をするクラスの野球部員たち。寮で生活を共にすると、欠伸のタイミングまでシンクロするのだろうか。

「おはよう、倉持くん」

 授業中寝ていた彼に対して「おはよう」なんてちょっと皮肉が効いた台詞を揶揄い半分で投げかければ、倉持くんは寝起きの呆けた顔でこちらを振り向きしばし目を合わせた後ようやく口を開いた。

「お前、鼻毛出てんぞ」
「…嘘!?」
「ヒャッハッハッハ」

 万が一そんなことがあればもう立ち直れない。腹を抱えて笑い続ける倉持くんを無視して手鏡を取り出した所で、「冗談だっつーの」と隣から悪びれもなく聞こえてきた。思わず立ち上がって拳をかざしつつも結局殴らなかった私を誰か褒めてそして慰めて欲しい。男子の悪ノリだっていうのは分かっているけど、「悪かったって」と言われるまでは本気で殴るつもりだった。さすがに鼻毛は酷いよ。この男、私に告白されたことを忘れたのではあるまいな。仮にも告白した女子にする仕打ちではない。まあ、そんなことをされても不思議なことに倉持くんに幻滅することはなかった。むしろ知らなかった一面を新たに知る度に、気持ちが膨らんでいるような気さえするくらいだ。自分でもたまに、こんな男のどこが良いのだと疑うような瞬間──まさに今のような時だ──もある。でも、隣の席になって彼を観察する機会が増えてからは尚更美点を発見することも多くなった。自分でも自覚がある。もうこれはヤバいとこまできていると。

「なぁ倉持、お前らのクラスさっき現国あったろ? プリント見せてくんね? 御幸でもいーけど」

 私は廊下際の席で、倉持くんはその隣だ。廊下側の窓を開けていると、「よぉ倉持」なんて言いながら色んな男子が顔を覗かせてくることがある。倉持くんは人望があるようだ。なんか分かる。野球部は寮制だから部員同士の距離が近いのかもしれない。今日は麻生くんと関くんと小野くんか。

「へー、こいつが苗字か」

 奥の席の御幸くんにはあっさり断られ、プリント見せる見せないで倉持くんと押し問答していた麻生くんが不意にチラとこちらを見てそう言った。不意打ちで名前を出された私は思わず身構えて問い返す。

「えっ? 何?」
「おいっ麻生、」
「なぁ、倉持のどこがいいの?」

 倉持くんはなにかを察して慌てて止めようとしたのかもしれない。しかし倉持くんの健闘虚しく麻生くんはとんでもないことをいけしゃあしゃあと尋ねてきた。歯に衣着せぬそんな訊き方では、私が倉持くんのことを好きだと周囲の人間にも丸聞こえである。冗談じゃないぞ。倉持くんに対しては開き直っているけれど、告白したことはごく一部の友達にしか話していないのに。

「ちょっ…、っ…」

 なんとなくそういうことを訊かれるような予感はあった。なのでポカンとする周りの席の人達の誰よりも早く私は反応することが出来た。しかし反応できただけで、出来ることは極少ない。私はただ開けっ放しの口を動かすだけで言葉が思い付かなかった。とうとう私は無力感に打ちひしがれ、顔を手で覆って沈黙に座した。羞恥の度合いは変わらなくとも顔面に突き刺さる視線の暴力は半減したと思う。

「あーーわりぃ。つい出来心でよ」
「なっ。こいつ後のこと何も考えてねーんだ」
「るっせっ。…やっぱ足速ぇとモテんのかー?」
「悪いな、苗字。後でシメとくから」

 そんな言葉を交わして三人は去っていった。小野くん良い人……。ちなみに倉持くんは結局現国のプリントを貸さなかった。まああの空気ではそりゃあ貸せないだろうけど。

「倉持くん…」

 顔を覆ったまま、背後に死神を召喚するほどのオーラを携えて名前を呼べば、倉持くんはかすかに喉を鳴らした。ユルサナイ。

「(私が倉持くんに告白したこと)言いふらしたの?」
「言ってねぇよ。言うわけねぇだろ!」
「じゃあなんで…」
「お前が分かりやすいんだよ!」
「はああ!? なにそれ! 意味分かんない! もぉぉぉぉサイアク〜」

 その日はそれからずっと沈んで過ごした。事の顛末を近くの席で見ていた仲の良い友達が慰めてくれたけれど、一体どれだけの人が私の恋愛事情を知っているだろうと考えると落ち込むばかりだ。


「苗字」
「っ…! な、…なに?」

 放課後のチャイムが鳴って、席を立とうとしたときに倉持くんに呼ばれてビックリした。そういえば倉持くんの方から話し掛けられるのは初めてだ。今日は金曜日。クラスメイトは次々に下校していき、あっという間に教室には人もまばらになった。

「俺らの野球見たことあるか?」
「ううん、無いよ」
「だよな」
「うん」

 野球部ってことは知ってるけど、倉持くんが野球をしているところはそういえば見たことがない。今まで野球なんて接点の無い人生だった。でも、今は違う。好きな人が野球部なのに、私は好きな人の好きなことを深く理解しようともしてこなかったんだ。その事にようやく気付いて、私は人知れず頭をガツンと殴られたような衝撃を受けていた。

「お前さ、俺のどこを見て好きになったわけ?」

 いつもと少し様子が違う倉持くんの口からとうとう核心的な質問が飛び出してきて、思わずゴクリと嚥下した。どこを、と問われると回答に迷う。私が人を好きになる時は大抵一目惚れで、その人の見た目とか雰囲気とか、他の誰かと会話している様子や物腰とかを遠目に見て、気づいたらほの字になってしまっているのだから。倉持くんの場合も、同じようなものだ。教室で御幸くんと喧嘩ばかりしているかと思ったら、廊下で後輩を虐めたりしていて、かと思えばクラスメイトにこまめな声かけやさり気ない気遣いが出来る一面を見せられて……ていうか、私ってば本当に倉持くんのことばっかり見過ぎじゃないか? それにしても、未だに想いを捨てきれない……というか捨てる気がないことは彼にも気付かれているのかもしれない。彼が意外と察しが良いことは既に理解している。
 私が思考の沼にハマってしまいなかなか答えを返せないでいると、「明日」と先に倉持くんが口火を切った。顔を向ければ倉持くんは机上を凝視していて、何を考えているのか読み取れない顔でこう続ける。

「ウチで練習試合があんだよ。暇なら見に来るか?」
「…え? …いいの?」

 野球のルールなんてほとんど知らない私が見に行っても失礼じゃないんだろうか。そう思ったけど、倉持くんはそんな私の杞憂さえ知らず知らずのうちに一笑に付した。

「ヒャハ、いいに決まってんだろ。見るのは自由だろーが」
「そっか。じゃあ行く! 朝イチで行く!」
「ヒャハッ。惚れ直すなよ」

 心底楽しそうに倉持くんはそう言った。不意打ちでカッコイイ。しかも私と話しててこんなに楽しそうな倉持くんを見ると胸が一杯になる。だけどそれよりも、やっぱり私が未練タラタラな事実がバレバレだったことがついに確定して、恥ずかしくて吃ってしまう。

「っ…ほ……て、な…なに言ってんの!?」
「ヒャハハ、お前分かりやす過ぎなんだよ。バレてねーと思ってたのか?」

 そんなに分かりやすいのかな、私の好意って。そりゃあ倉持くんにはバレてるかもと思ってたけど、まさか他のクラスの人にまで筒抜けなほど噂になってるだなんて思わないじゃん。

「……そんなことはないけど」
「ふーん」

 縮こまって正直に答えれば、ニヤニヤといやらしい笑みで見られて居た堪れない。完全にマウントを取られた。悔しい。言い返す言葉も見付からなくて私は鞄を掴んで席を立った。そんな挙動にも反応したように倉持くんの「ヒャハ」という笑い声が背中越しに聴こえてまた更に悔しさと恥ずかしさが募ってくる。昇降口で鉢合わせた友達に「名前、顔赤いよ? どうした?」と言われてとうとう泣き出したくなった。


 夜遅くまでかけて出来るだけ野球のルールを頭に詰め込み、翌朝電車に乗り込んだところでハッと我に返った私。こんなに早い時間帯に行ってもまだ誰も居ないのではないか? ずっと舞い上がっていて気付かなかったけど、そういえば試合の詳細を訊いていなかった。そもそも倉持くんと連絡先を交換していないので連絡手段も原始的な方法──伝言か訪問──しかない。よし、今日は連絡先の交換を申し出よう。そう決意して朝日を浴びながら駅のホームを踏みしめた。


「おー! さすが倉持先輩! 足だけは天下一品!」
「っるせぇ! 褒める気あんのか!」

 知らなかった。倉持くんがこんなにカッコ良かったなんて。私は今まで倉持くんのどこを好きだったんだろうって疑問に思えるほど、目線の先で野球を楽しむ倉持くんはとにかくカッコ良くて、誰よりもカッコ良くて。「惚れ直すなよ」そう言った倉持くんの言葉に反して──いや、恐らく彼の予想通りに──、まんまと私は彼を惚れ直してしまっていた。教室に居る倉持くんとは何か……上手く言えないけれど解き放たれたような、とにかく何かが全く違っていて、これが倉持洋一だ! って、大きな声で叫ばれているような強烈な証明力が野球の中にはあった。つまり野球場ここが、彼の大好きな居場所なのだろう。

「ヒャッハァ」

 次々に盗塁を決めて観客を沸かせ、あっという間にホームを踏んでガッツポーズしたかと思ったら今度は守備で魅せるプレーをする倉持くん。

「なんてことだ…」

 私はなんて人を好きになってしまったんだ。こんなカッコ良い人、私なんかに靡くはずがないじゃないか。青道ウチの野球部は強豪だと聞くし、そんなところでこんなに目立つ選手なら野球界じゃ有名に違いない。あそこで固まって応援している女子の中にだって、倉持くんのことを好きな子がいるかもしれない。私は、好きになってはいけない人を好きになってしまったのかもしれない。だって、そんな競争率の高い恋愛を勝ち取る自信なんて無いし、女子同士でネチネチした牽制をし合いたくもない。失礼だけど倉持くんはそんなにモテる方じゃないと思っていたし、恋敵なんて居ないと思い込んでいた。私だけが彼を好きだと。私はなんて大馬鹿者なんだろう。私が好きになるぐらいカッコイイ人なんだから、他の女子も好きになるに決まっているじゃないか。

「もうおしまいだ…」

 教室での倉持くんは、私に心を開いてくれるようになった。笑顔や色んな表情を見せてくれるようになったし、打ち解けた会話が出来るようになったのも確かだ。だから、いつの間にか勘違いしてしまっていたのかもしれない。優越感さえ持っていたと思う。彼のことを好きな女子は私だけで、彼に一番近いところに居るのは私なんだと。そんなのはただの独りよがりな思い上がりでしかないのに。


「苗字」

 試合が終わって、周りのギャラリーに倣って帰ろうと踵を返したら、倉持くんに呼び止められた。まさか声をかけられるとは思わなくてびっくりして肩が上下したけれど、内心はそれ以上にしっちゃかめっちゃかだ。うわあ、顔見れないや。

「はっ、はい」
「あぁ? んだよその反応。ちゃんと試合見たのかよ?」

 さっきまでグラウンドで野球をしていた倉持くんが、私の目の前まで走ってきてくれた。席が隣同士の椅子と椅子の距離。いつもの距離だ。それなのにいつもと違う倉持くんをあれだけ見せつけられて、とてもじゃないけど直視なんて出来なかった。自分の中で倉持くんを別次元の人だと持ち上げてしまってもいるせいで、つい敬語で受け答えをしてしまう。

「みっ、見ました!」
「つかなんで急に畏まって…おい、こっち見ろって!」
「っ…!」

 目を合わせない私が気に食わなかったらしく、倉持くんは私の腕を掴んで強引に私の体を自分の方へ向けた。確かに話しかけられても聞く態度を取らない私は失礼だった。そう反省するけれど、ここまでされても私は倉持くんの目を見ることが出来ずに俯いていた。

「……なんかあったか?」

 優しい声だ。私はとても失礼な態度をとっているのに、倉持くんは怒りを収めるにとどまらずあまつさえ私の心配すらしてくれている。ああ、もう、限界だ。誰かを好きでいることが、こんなに苦しいなんて知らなかった。知りたくなかった。私の想いは制御しきれないほどにどんどん大きくなっていくのに、倉持くんはどんどん手の届かないところへ離れていく。いや、違う。もともと倉持くんは私に釣り合わない。私は倉持くんに相応しくない。あーあ、倉持くんなんて──。

「…ければよかった」
「あ? なんだって?」
「倉持くんなんか、好きにならなければよかった!」
「…!」

 しがらみ抜きで、ただ自分勝手に鬱憤を吐き出すような最低な言動だった。仮にも好きな人にそんな態度をとってしまっては、後から盛大に後悔することは分かりきったことなのに、この瞬間の私にはそれを考える余裕さえなかった。無意識に勢いで口走り、何を口走ったのかも深く考えずに言うだけ言って踵を返して走り去った。踵を返す直前に網膜に焼き付いた倉持くんの表情が脳裏から消えない。そうか、最後の最後で目を合わせられたってことか。

「っおい!」

 走り去る背後で倉持くんが私を呼び止めるべく怒声をあげた。だけどこっちは止まるわけにはいかない心境だ。もう頭の中がごちゃごちゃになっていて、これ以上情報を増やされたくないからだ。特に倉持くんのことをこれ以上好きになるような情報は困るからだ。
 長い土手を駅とは反対方向に無我夢中で駆け抜けながら、「チッ」と倉持くんがよくやる舌打ちが近くで聴こえた。……え、近く? 自分の聴覚に疑問を抱きながら振り向けば、倉持くんがすぐ後ろで私を追いかけて走っていた。

「ええええええ!? なんでぇええええっ」
「てめぇふざけんな! 待ちやがれ!」
「きゃあああああ顔、顔こわいからぁああああ」

 捕まったら殺される。彼の全身から殺気がダダ漏れで、もはや半泣き状態でそう確信した。だから死にものぐるいで全力疾走したのに、ついさっき見せつけられたばかりの瞬足を私は勘定に入れ忘れていた。逃げ切れるわけがなかったのだ。他を置いてもこの青道の切り込み隊長からだけは。


「はぁ、はぁ──」

 さっきと同じように腕を掴まれたことでとうとう観念して地面に座り込み、肩で息をし続ける私を立って見下ろす倉持くんは息切れ一つ無く平気な顔だ。結構な距離走ったのに。やっぱり体力が全然違うのだろう。

「お前、まじ意味分かんねぇ」

 怖い形相で追いかけてくるから必死こいて走って逃げたのに、殺される素振りは勿論なくて、彼の吐露は思いのほか落ち着いた声音で切り出された。

「え?」
「フった次の日から普通に声かけてくるしすげぇガン見してくるし好きって言うわりに部活や試合は見に来ねぇし? んで見に来た途端わけ分かんねぇこと叫んで逃げ出すしよ」
「それは…」
「そうだ、お前の連絡先教えろよ」
「…はいい!?」

 藪から棒に、何言い出すんだこの男。意味分かんないのそっちの方だし。そもそもなんで追いかけてきたんだ。普通は追いかけてこないんじゃない?

「開始時刻伝える前にお前昨日帰っちまうし、今日早く来過ぎてずっと待ってただろ。色々不便だから、交換しとこーぜ」
「え、でも、私…」
「いーから貸せって!」

 そう怒鳴られてつい反射的に「はいっ」とスマホを渡してしまった。うわぁ、これから諦めようっていう好きな人となに連絡先なんて交換してるんだろう、私。待つ間手持ち無沙汰で辺りを見回すと道行く人が私達を見ていて私は座り込んだままでいるのが恥ずかしくて立ち上がった。それと同時に「ほら」と他人様の精密機器を投げ渡す倉持くん。慌ててキャッチして、その様をヒャハハと笑われる。なんだこれ。どういう状況?

「あの…」
「あ?」

 話しかければ、倉持くんは私の方を振り向いてくれる。距離も近い。こんなに近いのに、こんなに好きなのに、私は倉持くんに手を伸ばしてもいいのかどうか分からなくなっていた。もっと単純なことなのかもしれない。でもとにかくこのカオスな頭の中を単純明快に結論付けるにはあと一つ何かが足りなかった。

「今日の試合見て、どう思った?」

 またも俯いてしまった私にそう問いかけた倉持くんを思わず見上げた。今日は首が忙しい日だ。もう俯かないと決意して、口を開く。

「あんなのズルいよ、倉持くん。どうにかなっちゃいそうなくらい、カッコ良かった」
「ヒャハッ、だろ! お前にはカッコ悪ぃとこばっか見られてる気がしてたからよ…」
「倉持くんは、全部カッコ良いよ…」
「…お前、やっぱまだ俺のこと好きか?」

 さっきからカッコイイしか言ってない気がする私に、倉持くんはニッと笑って確信を持ったように自信ありげにそう言ってきた。なんかムカつく。好きだけどムカつく。

「好き…。だけど、迷惑なら、もう、諦める…よ」

 尻すぼみになってしまった言葉は、責任が持てないから。たとえ迷惑だと言われても好きなものは好きで変えられないだろうと心の奥底で分かっていた。すぐに諦められるわけ、ない。だけど予想を裏切って彼は吃りながら迷惑という言葉を否定した。

「いや、迷惑じゃ…ねぇ…」

 なに。なにその顔。もしかしたら、もしかするかもって、淡い希望に期待してしまうから、そうじゃないならやめてほしい。

「なぁ、俺と…付き合──」
「っ待って!」

 思わず倉持くんの告白を遮った。告白、そう判断出来た瞬間に。期待が現実になった途端、それは重い事実として私にのしかかる。今の私には、支えきる自信が無い。

「おま…、んで泣くんだよ」

 そんなの自分でも分からないよ。ひとの告白文句を遮っておいて勝手に泣き出すなんて我ながらはた迷惑な女だと思う。だからこそ尚更、こんな女じゃ倉持くんにつり合わないと思う。

「私じゃ、つり合わ、ない…」
「はぁ?」
「倉持くんのこと…好きな子なら、いっぱい、いるで…しょう?」

 嗚咽をこらえながらそう言うと、もはや聞き慣れた舌打ちが聴こえた。

「ったく、お前は何も分かってねーな」
「っな…にを」
「いつもの図々しさはどこいったんだよ?」
「ずうずうしい…?」
「おー、フラれても問答無用で俺に気持ち押し付けてきやがる図々しい奴」
「…う、辛辣」
「…けどよ、その図々しいのなかったら、俺は今お前のこと好きになってなかったと思う」
「……?」

 んん? ちょっと何言ってるか分かんないな。ただでさえ今頭の中ごちゃごちゃなのに、難しい話しないでほしいな。

「…もう一度言うぞ。お前のことが好きだ!」
「……?」

 首を傾げた私を見て倉持くんが額に血管の筋を浮き立たせてキレてるのか抑えてるのか分からない勢いで改めて告白してきた。そして私はまた更に首を傾げる。私のことが好き? そんな、端折って結論だけ言われても納得出来ないんだけど。例えば「よって答えは]=α」とか言われてもわけ分かんないでしょ。そうなった過程を説明してほしい。

「お前の顔見てるだけで何考えてんのか手に取るように分かるわ。くそっ、腹立つからいい加減ハテナ浮かべんのやめろ! 好きだっつってんだろ!」

 血管が切れた音はしなかったけど、とうとう倉持くんがキレて、しかもやけくそ気味にまた告白してきた。

「なんでキレてんの? 好きな子に対する態度じゃなくない? 泣いてる好きな子にはもっとこうさ、優しくするくない?」
「うぜぇ。なんで俺はこんな奴を好きになっちまったんだ」
「ひっどーい! 私だって、鼻毛出てるとか悪ふざけで言うような人好きになりたくなかった」
「お前それさっき観戦の時もずっと考えてたのかよ?」
「え? どゆこと?」
「だから、さっき俺のこと好きにならなきゃ良かったっつってただろ」
「あ…」

──倉持くんなんか、好きにならなければよかった!

 思い出した。さっき無我夢中で叫んだ自分の言葉を。

「あれは…」
「あれはなんだよ?」
「倉持くんのせい!」
「だからなんでだよ!?」
「だって倉持くんがカッコ良すぎるから、私とはつり合わないって思って…」
「あー、そこで繋がってんのかよ。ほんとめんどくせぇ奴」
「むっ。なにさ。私のこと好きになったくせに」
「そうだ、悪ぃかよ」
「っ…!」

 今度は私の方がやけくそになって自爆発言をしたら、あろうことか肯定されて、しかも同時に抱き寄せられた。もう一度言う。倉持くんに、抱き寄せられた。そう状況を脳内で整理してみても、体温だけは馬鹿みたいに急上昇を続けていく。動くこともままならず、紡ぐ言葉も思い浮かばず、もはや私に為す術は無かった。

「ヒャハ、大人しいな」
「……」
「お…?」

 せめてもの反撃にと、頑張って左右の腕を彼の背中の腰辺りに回してユニフォームを掴んだ。こんなことをしていても、頭の隅にまだ訳が分からないと首を傾げている自分がいる。だって倉持くんが私を好きになったなんて、自分に都合が良過ぎて夢オチなのではないかと疑ってしまう。

「倉持くん」
「なんだよ」
「私、倉持くんのことが大好きみたいです」
「ヒャハッ、知ってる。つか『大好き』って、グレードアップしてんじゃん」
「…返事は?」

 存外「知ってる」という台詞が嬉しくて声が弾んだ。私は多分今調子に乗っているかもしれない。でも調子に乗れる時に乗っておかないと、後で後悔しそうだから自重するつもりはない。

「おま…この期に及んでまだ言わせる気かよ」
「あと一回だけ」

 より強く抱き締めてそう強請れば倉持くんも仕方なさそうに腕の力を強めてくれる。

「……名前、好きだ」

 倉持くん、私の下の名前知ってたんだ。それをここでしれっと呼んでくるのだからいよいよ倉持くんはズルい。だけど耳をすませば風に溶けて耳朶を撫でるその声があまりに心地良くて文句も引っ込んだ。幸福感で満たされて、笑みがこぼれる。この瞬間、私は脳内カオスを払拭するのに必要な最後のピースを手に入れたのだ。そして今のこの幸せは、あの日倉持くんにフラれたからこそのものだ。勇気を出して告白して良かった。


タイムの花言葉『勇気』『活動力』




 おまけ

「ヒューヒュー」
「お熱いねぇお二人さん」
「っ…! げ、先輩達いつから…!?」
「聞きたいー? 『あんなのズルいよ、倉持くん。どうにかなっちゃいそうなくらいカッ───』」
「きゃあああああ! やめてぇーーーっ! ひええ、恥ずか死ぬぅ…」
「亮介違うぞ、連絡先交換したところからだろ」
「そーだっけー?」
「亮介お前さっきの台詞言いたかっただけだろ」
「ははははは! 良かったですねぇ倉持先輩! ついに春が来て!」
「沢村! テメェだけは殺す!」
「えぇっ!? 何故!?」


─end.




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