短編
世界最速の失恋
※倉持長編の番外編(一年生冬)
※モブ視点
──キーンコーンカーンコーン
四時限目終了のチャイムが鳴り終わると、俺は借りた教科書を忘れないうちに返しに行こうと隣のクラスへ足を向けた。隣のクラスは移動教室だったらしく、俺が来てからしばらくして教室の人口がぼちぼち増えてくる。教科書を貸してくれた奴と廊下側の窓を挟んで話し込んでいたところ、女子が一人で教室の敷居を跨ぎながら独り言を呟いた。
「にゃ〜、お腹空いたぁ。何食べようかなぁ」
暢気で力無いその声は、しかしやけにはっきりと俺の耳に届き、腹の中を擽るような愉快な心地にさせてくる力があった。この感覚とは付き合いが長い。これは任意のそれを揶揄いたくなる前兆だ。俺はいつものようにその衝動に忠実に行動した。
「にゃ〜、お腹空いたぁ。何食べようかなぁ」
彼女の声真似である。似ているかはともかくとして、俺が思わず揶揄いたくなった要素を大袈裟に表現した。そう、俺は高校生にもなってまだこういうことをする、女子からはウザがられがちな男だ。分かっていても揶揄いたくなるのだからなかなかやめられないし、あまり自重しようと思ったことはない。TPOは弁えるが、今は昼休みで厳かな空気は無いのだ。
さて、先程間抜けな声を出した彼女はこれを聞いてどんな反応をするだろうか。俺は好奇心を沸き立たせて彼女に注目した。しかし、彼女は俺の期待を裏切り、特段何の反応も見せないまま自席らしき場所へと歩みを進めて着席した。まるで俺の声が全く聞こえていなかったかのように、見事なスルーだった。聞こえていないはずはない。俺の声量はこの程度の喧騒なら教室中に聞こえたはずだ。彼女は難聴なのか? いや、同級生にそんな奴が居たら噂で知っているはずだ。じゃあ聞こえていて敢えての無視? あまりに見事な無視だ。俺の心が逆に少し傷付けられたほどの。もう俺はわけが分からなくなって、今の今まで話し込んでいた友人と目を合わせる。そいつは苦笑いをして若干の困惑を見せた。
一体、彼女はどういう人物なんだ? 何も知らないくせに揶揄うような言動をした俺も俺だけど、彼女の本心が無性に気になって目で追い観察する。彼女はのそのそと窓際の席──後ろから二番目という一等地だ──に座り、のろのろと教科書類一式を机に仕舞い、俺やクラスメイトほぼ全員が見守る中、窓の桟に両腕を横たえて伏せるようにして体重を預けた。──そう、付近に居る一連の目撃者は勿論、俺の揶揄う声を聞いて振り向いたこのクラスの奴らが一度は俺に注目し、そして俺の視線を辿って彼女を見ていた。そんな大勢に見守られながら、彼女は窓の外をぼーっと眺めている。教室はさっきに比べて静まり返っていた。
やがて彼女の後ろの席の女子が彼女の肩をポンポンと叩き、こちら──恐らく俺──を指差した。ぼーっとしていた為か、肩を叩かれて上体を起こしきる前に振り向いた彼女は窓に頭をぶつけ、咄嗟に患部を手で押さえて身悶える。そして後ろの席の女子といくつか言葉を交わしてから、ようやくこちらを向いた。その表情は真顔というよりキョトンといった風。僅かに首が横にコテンと傾いた。次いで、やや大きめに開かれたその目の中の瞳が横へ滑り出し、ようやく自分が注目の的になっていることに気付いた彼女が「え?」と声を発し、更に教室中を見渡し終えた彼女が驚いたように体を弾ませて再度「えっ?」と叫んだ。
ここで俺は五感から得た彼女の情報を元に頭の片隅で推測し始める。歯に衣着せぬ物言いをすれば、彼女からは少々アホっぽい印象を受けたことは否定出来ない。
彼女は取り乱した様子で後ろの席の女子とひそひそ話を始めた。教室が静まり返っていても流石に声ははっきり聞こえないが、話の内容はなんとなく想像はつく。「私ぃっ?」と大きめのひそひそ声が聞こえた時は、そうお前だよ、と心の中で答えてやった。
「何これ? 私、何かした?」
「苗字さん、考え事していて気付かなかったのかもしれないけど、話しかけられてたんだよ」
ついに膠着していた事態が動いた。この場にいる全員に対して語りかけられた彼女の疑問に答えたのは、俺ではない。ピンク色の髪の奴だ。そのすぐ傍に居るこれまたアホそうな奴が「はるっち、何を……」と狼狽えている。彼女はというと、頭がついてこないのかまだ固まったままだ。ピンク色の髪の奴が言うことは一理ある。彼女が何か考え事をしていたとすれば、俺の声が彼女にだけ聞こえていなかったことにも納得がいく。そしてピンク頭の奴は更にこう続けた。
「また洋さんのことでも考えてたんじゃない?」
洋さんとは誰だ、そう思うのとほぼ同時に、彼女の顔色が見る見るうちに変わった。ピンク頭の奴の言い分を口では取り繕うように否定しつつも、血色が良過ぎる顔ではその意味を成さない。成さないどころかその反応は明らかに、誰が見ても、その洋さんとやらを意識している証左だった。つまり彼女には意中の相手がいるということだ。その相手は俺ではない誰か。俺は彼女の赤く染まる顔を見た瞬間、ガンと頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
いや、待て。おかしい。なんで俺はこんなにショックを受けているんだ。俺はただ、彼女の言動を揶揄おうとしただけなのに。それだけだったはずだ。あの時点では。このたった数分の間で俺はショックを受けるほど彼女に入れ込んでしまっていたというのか?
頭を抱えたい一心で思考に没頭していたらしく、気が付けば教室の喧騒は日常の水準に持ち直していた。反射的に見回したが彼女は教室のどこにも見当たらない。
周囲の流れに沿って俺も昼飯を摂る為自分の教室に戻ろうとして友人に一言言ってから踵を返した。とぼとぼという表現がしっくりくるような歩調で廊下を歩き、自分の教室に入る直前に一度顔を上げたその時だった。
視界の奥に彼女の姿を見付けた。一瞬で彼女だと判断出来てしまった。俺はもう、完全に彼女のことを、つまり、そういうことらしい。軽い絶望を感じながらそんなことを考察してぼんやり眺めていると、どうやら彼女は誰か数人と話し込んでいるらしい。相手は、男だ。よく見ると二人居る。あ、彼女が男の一人に抱きつこうとして頭を掴まれた。こんな廊下で軽率に男に抱きつこうとする彼女の神経も疑うが、それにしたって彼女の扱いも酷いもんだ。なんか揉め合ってる。喧嘩ップルかよ。……そうか、彼女は彼氏持ちか。俺は、失恋したんだな。たった数分の間に俺は恋に落ちて更に失恋したわけだ。ギネス記録じゃなかろうか。正確に測ってはないけどさ。
無意識に時計を見ようと顔を上げた。彼女達を眺めていたつもりでいたが、あまりに思考が落ち込んだせいかいつの間にか俯いていたらしい。顔を上げると視界の奥、廊下の先にはもう彼女の姿はなかった。その代わりに、彼女と一緒に居た男二人がこちらに近付いてくる。否、俺に向かって近寄って来ているわけではなく、あくまで俺の後方へ向けて廊下を歩いているだけだ。それでも無駄に緊張してしまった。俺は、立ち尽くしたまま一歩も動けなかった。
近付いてきて分かったことだが、どうやらその二人は一個上の先輩だった。一人は背が高く眼鏡をかけていて、もう一人の背は俺と同じくらいの背丈で前髪を整髪料かなんかで持ち上げていた。後者はどう見てもヤンキーだ。すれ違う直前にヤンキーの方と目が合う。すると何故かメンチを切られた。
「ひっ」
思わず情けない声が自分の喉から出てしまった。情けねぇと思いつつ、こういうおっかない先輩には絡まれたくない。俺は全身を硬直させて彼らが通り過ぎるのを待った。
「倉持、顔」
「ちっ。ついでに
「苗字は?」
「んなもん待たせとけ。どうせ好き勝手やんだからよ」
徐々に遠ざかっていく中、聞こえた会話の意味はよく分からなかったけど、どうやら彼女が彼らをどこかで待っているらしいことは分かった。なんだそれ、逢い引きか? “彼ら“というか、俺にメンチ切ってきたあのヤンキーの方が彼女の彼氏だよな。さっき抱き着こうとしてたし──阻止されてたけど──。いや、なんだよあの人、怖いって普通に。目が合っただけでメンチ切ってくるようなヤンキーが彼女の好きな男なのか。なんか意外だった。
そして俺の恋はたったの数分で終わったわけだが、数週間後にテレビでこの時のヤンキーが活躍しているのを目撃して唖然とすることになる。そしてそのテレビ中継の向こうの甲子園会場でマネージャーとしてインタビューを受けている彼女が映った頃にはもう放心状態である。
我が校青道高校は優勝出来なかったが、俺はその後、心の中で野球部に対して複雑な感情を抱くようになった。
彼女への気持ちは恋だったかどうかすら疑わしい儚い興味だったけれど、俺はこの出来事を一生忘れないような気がした。
そして高校二年生に進級した俺は、女子を揶揄う行為を金輪際やめた。
─end.
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