短編


転んでもただでは起きぬ



 休日の野球部の試合に、部活をサボってでも応援しに行くようになったのは、いつからだっただろうか。秋大も、春大も、なるべく全試合応援に行っている。「お前ってほんとに野球好きなんだな」なんて嬉しそうに彼は言うけれど、私も否定しないのでそういうことになってはいるけれど、私が好きなのは本当は、野球じゃなくて貴方なんだよ。そう伝える日が来るのか、自分でも分からない。来るにしても、来ないにしても、私はこの恋を精一杯がんばろうと思っていた。最後の日というものを漠然と捉えたまま、最後の日に向かって走っていた。

 違うクラスにも拘わらずGWが来る頃にはすっかりゾッコンで、初めて会話したのは偶然ぶつかって謝り合った全校集会。夏、勇気を出して友達を誘って試合応援に行くと、大勢居るスタンドの応援団の中に彼の姿は見当たらず下のベンチと呼ばれる中に見付けた時は驚いたものだ。うちの野球部は強豪なのに彼は一年生のうちから控えの選手に選ばれていたなんて。

 バレンタインチョコを渡す勇気は無かったが、進級して同じクラスになって前後の席になった時は、一生分の運を使い果たしたかと本気で心配した。朝練を頑張っているらしいけれど汗臭いと思ったことは殆どない。朝礼前にシャワーでも浴びているのだろうか。休み時間思いきって話しかけてから、だんだんとお互いよく喋るようになった。ぶっきらぼうな喋り方の裏に彼なりの優しさが隠れていることか多いことに気付いてきたのはつい最近だ。

 これから時間をかければ、もっと好きになっていくのだと当たり前のように信じていた。
 恋に終わりが来るなんて当たり前のことは、恋に落ちている時は違う世界の理かのように隔絶している。

 最後の日という奴は、急に霧が晴れたように目の前に出現した。よりにもよって、現れたのは崖だった。今まで頑張って走り続けて来た私が慣性の法則も手伝って急停止出来るはずもなく、私は見事に踏み外して崖下に真っ逆さま。
 これは、そういうお話。


 甲子園予選。野球部の公式試合はこれだけではないが、この大会だけは学校総出で応援に励む。野球のルールを知らない文化部の女子も、普段は屋根の下で汗を流しているバドミントン部の男子も、みんなみんな今日一日で一段と日に焼けるだろう。
 かくいう私は既に文化部でありながら既にけっこう日焼けしてしまっている。体育に日焼け止めを塗り忘れたせいではない。野球部の試合はなるべく観戦しに行っているからだ。そう、甲子園予選に限らず、秋季大会も、春の大会も、青道のグラウンドで行われる練習試合も。学校が無い日は必ず足を運んで、その度に試合後、震える足を叱咤しながら倉持に声をかけに行った。「すごかった」「カッコよかったよ」「おめでとう」って。

 そんな私でも、差し入れなんて小洒落た物を用意したことは無かった。その現場を偶然見た時、色んな感情が一斉に湧き上がった。ズルい、抜け駆けだ。誰よその女。差し入れなんて発想無かった、悔しい。次からは私も渡そう。何がいいかな、あれより倉持が喜びそうな物にしよう。

「え」

 そんな怒涛の思考は、倉持の赤い顔と真ん丸に見開かれた目を見た瞬間に霧散した。


 彼らの会話の内容は聞き取れなかった。手ぶらになった彼女がやがてそそくさと走り去ると、私はまるで自分の番が来たかのように当たり前に足を踏み出していた。今なら黒魔術でも呪術でも使えそうなほどの神聖で黒い感情をひと握りの冷静さで賄っていた。他はもはや感情とは呼べないものが散乱している。だけどそれは決して危険なものではなく、少なくとも今のうちは安全なものだ。

 間2メートルほどまで近寄ったところでようやく私に気付いたらしい倉持と相対した。

「苗字……」
「今の子、好きなの?」

 驚くほど簡単にその質問が口をついた。声音は怖いほど明るい。自分が次に何を言い出すのか、自分でも分からない。
 倉持は気まずそうに目を逸らして黙り込んだ。無言は肯定、かな。そっか。日頃からずっと倉持のこと目で追ってたのに、全然気付かなかったや。

「知ってる?  私が倉持のこと好きなの」

 あれ? 何を口走ってるの、私? 正気? 口は災いの元っていうけど、このタイミングで告白とか自爆にもほどがあるでしょ。
 なんとか冗談路線に持っていく術がないものかと知恵を巡らせている間に倉持からの返答がきてしまった。

「……知ってる。……わりぃ」

 ……え。
 私、フラれた……? まさか、そんな。今まであんなにがんばってきたのに、これで、こんなあっさり、終わりなの? あれ? これ、巻き戻しとか出来ない? だって、ねぇ、こんなはずじゃなかったのよ。魔が差したのよ。こんな、────。

 現状を改めて見据えると、目の前の倉持は依然として気まずそうに眉を歪めていた。早く私にこの場を去ってほしそうな眼差し、そう捉えることもできる。私だって居た堪れない心地を感じるまともさがある。なんなら今すぐ立ち去っても構わない。だけど、無性にやり残したことが此処にある気がしてならない。

 不意に倉持が上目遣いで私を見て、目が合った。そうか、倉持は私の恋の終わりを気遣っているんだ。
 でも、“終わり”を決めるのは本当に倉持だろうか? 私の恋が今ここで終わりの日を迎えたとして、また新たに始めればいいんじゃないか?
 だって、それを咎める権利なんて、きっと誰にも無いでしょ?


 ◇◇◇


 隣の芝生は青いなんて云うが、恋路においても同じようなことが言えるかもしれない。──いや、俺がそれを言うのはズルいか。ただ、羨ましかった。俺を好きな彼女は俺と縁があるのに、俺は俺の好きな奴とあまり縁が無かったから。俺にアプローチする苗字を見て、ズルいと思ったことがある。苗字がしているのは叶わない恋だと、それを唯一知っている俺にズルいなんて思う資格は無いのにな。

 案の定、苗字の恋路は──俺が言うのも何だが──過酷だった。苗字は自ら崖を飛び降りた。
 これは、そういう話だ。


 甲子園予選初戦。吹奏楽部や応援団や学校の奴らがこの大会だけは沢山来場して派手に応援してくれる。それは、この大会だけはあいつも俺のことを見てくれるということ。俺の好きな奴。

 そいつが今、俺に差し入れを差し出していた。一瞬だけ苗字の残像と被ったのは気のせいだと思いたい。うわ、夢みてぇだ。これ脈あんじゃね?
 心臓がバクバク暴れる中、なんとかそれを受け取った。照れた様子で彼女は足早に去って行った。え、これ、まじで脈ある?
 球場の裏手にぽつんと取り残される俺。顔がまだ熱い。

 余韻に浸っている俺の前に、苗字が現れた。どうやら野球好きらしく、一年の頃から試合の日はいつも応援に来てくれるが、今はこいつに会いたくなかったな。合わせる顔がねーっつーか。
 差し入れをくれるってことは、あいつもこいつみたいに野球好きになるってことももしかしたらあるんじゃねぇか?

「今の子、好きなの?」

 ──そう、こいつみてぇに。休み時間、野球の話ができるような奴に。
 いや、前から薄々感じてはいたけど、今確信した。こいつは俺目当てで試合を観に来てて、野球は後からついてきただけなのだろう。笑顔で隠してるつもりだろうが、不安そうな顔が証拠だ。告白の気配なんて今まで微塵も無かったのに、なんで急にそんな踏み込んだこと訊いてきやがるんだ、こいつ。肯定も出来ねぇが、否定もしたくねぇ。

「知ってる?  私が倉持のこと好きなの」

 前々から苗字からの好意は感じていたからやっぱりか、と思うも、内心テンパる。
 え、こいつ、まじか? 本気で今ここで告白タイム始めんのか? 青天の霹靂にもほどがあるだろ。
 声音はいつも通りに聞こえるが、横顔から感情を推し量ろうにも先程とは違い今はまるで鉄仮面のようだ。いつもとはどこか違うはずなのに、いつも通りにしか見えない。苗字はどこか遠くを見つめ、横顔で俺の返答を待っている。ああそうか、もう腹括ってんだな、お前は。

「……知ってる」

 確信したのは今さっきだけど。
 あ、告白されたんだから返事しなきゃいけねーのか。告白……だよな? いや、まあ、遠回しだったけどされたよな、うん。返事……は、くそ、人生でこれほど言いにくい台詞が他にあるか?

「……わりぃ」

 やっとのことで絞り出した、謝罪という名の拒絶。
 長い沈黙。
 恐る恐る苗字の顔を盗み見れば、こちらが驚くほど憑き物が取れたような顔をしていた。フラれた直後の表情とは到底思えない。やべー、こいつが今何を考えているのかまるで分からねぇ。
 
「おい、今何考えてる?」

 心配になって思わず声をかけると、苗字は弾かれたように我に返って「あ、えっとね」と普段と寸分違わぬ声音で俺の質問に答えていく。しかしその内容は首を傾げるものだった。

「私は今、俗に当たって砕けたわけだけどさ、失恋したって言われるとなんか違う気がするんだよね」

 苗字が言うには、こうだ。告白する前は苗字は俺を好きで俺はあいつのことが好きで、告白した後はフラれたからといって苗字は俺への気持ちは変わらず好きで俺は心変わりするなんてこともなくやっぱりあいつのことが好きで苗字のことを嫌いになるわけでもない。つまりどういうことかというと、告白前と後とで何も変わってはいないと言いたいらしい。

「何もってことはねーだろ。俺はお前の気持ちを知っちまったし、お前は俺にその気が無ぇってことを知ったわけだろ」
「私の気持ちは前から知ってたんでしょ? それに、倉持があの子のこと好きなのは今であって未来までは決まってないじゃん。今の私が拒絶されたからって、未来の私も諦めるのは違うと思うの」
「お前……、ぜってーフラれた直後のメンタルじゃねぇよそれ」
「えへ、そうかも。だって倉持が申し訳なさそうに思い詰めてそうだったから、私もつい色々考えちゃって」

 へらへら笑う苗字には、やっぱりフラれたショックは見えない。強がりだとしたら完璧だ。だが、こいつはそんなに完璧な奴じゃなかったはずだ。つまり、強がっているわけじゃないのか?
 そもそもこのおかしな空気は何だ? 普通は告白直後にこういう空気にはならねーだろ。もっと気まずい沈黙とか、ぎくしゃくした感じになるはずだ。経験は無いが、そうに決まってる。
 多分、あの時だ。苗字が妙にスッキリした表情しだした時からなんかおかしい。そんな不自然な空気をものともせず苗字が語り出す。

「恋を失うって書いて失恋って云うけどさ、フラれたことで失うものなんて、実際何も無いよ」

 人は普通、フラれたら大なり小なりショックを受けて落ち込むものだ。俺だってきっとあいつにフラれたら傷つくし立ち直るのに時間もかかるだろう。だから何かしら、その、自信とか、そういうものは失うもんじゃねぇの?
 俺はそう反論しようとして一度開いた口を閉じた。自信なんてものは心の持ちようだ。現に苗字は今、色々考えながら自分の中で必死に折り合いを付けている最中なのではないだろうか。そういう対処はまだあまりにも早過ぎるとは思うものの、こうなった以上はいずれ必要なものだ。
 不本意だが、なんかこいつが妙にカッコよく見えてくる。知らなかったな、こいつのこんな一面。


 ◇◇◇


「なあ、聞いてもいいか? 俺のどこが好きだったのか」

 我ながら名言っぽいことを言ったと浸りかけたものの、引き続き失恋という言葉に抗うべく脳細胞を総動員させていると、倉持が話題を変えた。控えめに問いかけてきた内容は、私に言わせれば的外れ。

「うーん、内緒」
「なんで?」
「だって私が好きな人を好きって思う瞬間は全部私のものであって、誰かと共有するようなものじゃないもん。それがたとえ好きな人本人でもね」
「ふーん。つかお前やっぱいつも通り過ぎんだろ。俺のこと本気だったのかよ?」
「……本気だよ」

 今度は真顔で真っ直ぐ目を見て言ったからか、きっとさっきの“それとなく”な告白よりも私の気持ちが伝わった実感があった。
 それを証明するように、さっきまでの他愛ない雰囲気は一転して最初の空気へと舞い戻る。
 私の気持ちを疑うようなことを聞いてしまって悪いという意味合いの謝罪だと思うけど、倉持が暗い声音で短く「わり」と呟いた。

 私はというと、なんだかしゃくな気分で、腹いせにキスでもしてやろうかと今逡巡しているところだ。


─end.




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