萩原研二
その日は、いつも通りに出動して。いつも通りに対応して、いつも通りに警視庁に戻って松田と旭ちゃんを誘ってご飯でも食べに行こうなんて思っていた。タイマーの止まった爆弾を同僚たちと確認しながら、ふうと息を吐いて。そんな時。すみませーんと間延びした声が聞こえてきて振り返った。高くも低くも無い声は、なんだか聞き覚えがあるなあと思いながら。
「すみません、警察の方ですか?」
こてりと首を傾げたのは、胸までのゆるふわな黒髪に大きな瞳の美少女。度々上がる目撃証言のせいで密かに警視庁で有名になりつつある可愛い女の子を見て、同僚たちがざわりとする。久し振りに見た!と顔を輝かせる奴も居れば、ようやくお目にかかれた!と飛び上がる奴すら居て。ただ、感動するのは良いけどむさ苦しい野郎どもが両手で口を覆ってはわわする光景は何ていうか、見ていて辛いものがある。というか、そんなことよりも!
「旭ちゃん⁉何で⁉避難してなかったの⁉」
「あはは……えっと、実はこんな状態で……。」
ドアから肩までしか見えなかった姿が、よいしょと言いながら揺れる。部屋に入ってきて見えたのは、松葉杖で体を支え片足にギプスをした姿。
「え⁉どうしたの⁉」
「先週、自転車とぶつかって転んだんです…。」
「え、そいつちゃんと殴った⁇」
「あー、ふふふ、駆けつけてくれた陣平くんが殴りそうになってました。」
でもその人、ぶつかってなかったらすぐ後に突っ込んで来た車と衝突しちゃう所だったんですよ。苦笑する旭ちゃんに困惑しながらどういうこと?と首を傾げる。
「ブレーキが壊れてたみたいで。だから、良かったですよね。」
にこりと笑う顔を見て、そのまま両手で顔を覆う。はあ〜〜、全くこの子は。俺の後ろでそわそわする同僚たちは敢えて無視をして、ぽふりと丸い頭を撫でた。
「それで?さっき避難指示は出てたでしょう?」
「あ、えっと、エレベーターが止まっちゃってて…。」
「え、ほんと?」
「一人だと階段が辛かったので、人が居たら手伝ってもらえないかなあと。」
「ああ〜〜〜。」
これか。これが噂に聞いていた万年不幸体質か。こんな時に本領発揮しちゃったわけか。まじか〜〜。仕方ないなあ。でも確かに、ここはかなり階数もあるし松葉杖で階段を降りるのは辛いよねえ。
「よしよし、じゃあすぐに解体するから一緒に降りようね。」
「すみません、助かります。」
「良いよ、任せて。」
「あの、萩原さんはちゃんと防護服着ないとダメですよ?」
こてりと首を傾げながら微笑む顔はやっぱり最高に可愛いのに。どこか無言の圧力のようなものを感じる。
「あはは〜、今ちょっと休憩中だったんだよお。」
「へえ?まだ爆弾解体してないのに休憩するんですか?」
にこにこの笑顔を初めて怖いと思った。瞬時に防護服を着込み、よおーしやるぞー!なんて大袈裟に声を出しながら。パチン、パチンと一本一本のコードを切り、最後の一本まで来たところで。これで終わりっと。パチンと音が鳴るほんの一瞬。沈黙していたはずのタイマーが息を吹き返すのを脳が認識したと同時に、表示は消えた。………………は?ドッと汗が一気に噴き出して、バクバクと鳴る心臓の音がやたら近く感じる。萩原?どうした?後ろから掛けられる同僚の不思議そうな声に、忘れていた呼吸を思い出して。はは…何でも無い。どうにか声を絞り出したものの、喉がカラカラに乾いていた。向き合う爆弾から目が離せない。小刻みに震え続ける体が酷く冷たくて、力が入らなくなっていた。
「萩原さん?」
いつの間に居たのか、穏やかな声が頭上から降ってくる。座り込む俺の隣に片足で器用にしゃがみ込んだ旭ちゃんが、小さな掌で柔らかく頭を撫でてくれた。
「お疲れ様でした。もしかして、具合悪いですか?すごい汗かいてますよ。」
眉を下げながら目を細める顔を見て、ようやくまともに呼吸が出来たように思える。何度か深呼吸を繰り返し、最後に思い切り息を吐き出した。
「ありがとね、旭ちゃん。」
「え?……こちらこそ、この街を守ってくれてありがとうございます。」
ゆるりと微笑む旭ちゃんに、思わず泣きそうになってしまったのは誰にも内緒だ。それじゃあ、ブツを回収して降りましょうかね。ようやく立ち上がっていつも通りに笑う。
「申し訳ないですが、一緒にお願いします。」
「いーよいーよ。気にしないで。」
片足で立ち上がる旭ちゃんはとんでもなく体幹が良いな、なんて思いながら華奢な体を背負うことにして。
「エレベーター止まってるから、刑事部は復旧次第来るってさ。」
「おー。規制線は分かりやすくバリケードテープ貼っておくだけで良いかね。」
「そうだな。貼っておく。萩原、その子背負ってるし先に降りとけよ。」
「んー、じゃあお言葉に甘えて。」
「おー。」
撤収準備をしつつ同僚と会話する。回収したブツや道具、防具類を運ぶ奴らに混じって、松葉杖を持たせた同僚と旭ちゃんを背負った俺が先行して降りる。刑事部との連絡班とバリケードテープを貼る奴らもすぐに後を追ってきたようだった。
「重いですよね、すみません。」
「いやあー。旭ちゃん軽すぎだから萩原さんはとても心配だよお。」
心底申し訳なさそうな声が耳元で聞こえて、くすぐったい。だから、今日はご飯行こうねえ。そんな風に返すと、くすくす笑う柔らかな空気に鼻の奥がツンとした。偶然とはいえこの子が居なかったら、俺は死んでいたのだろう。ダメだなあ。気を引き締めないと。小さく呟いた声はバッチリ聞かれていて、慢心はダメですよ。なんていうちょっと怒った声に眉を下げた。
「反省します。」
「はい、お願いします。」
首に回った細い腕にほんの少し力がこもったことに気づいて、宥めるように一回だけ手を添えて撫でた。
「そういえば、何でこんなところに居たの?」
「ここの建物、マナちゃんのお家があるんです。」
「なるほど。一般住居階と企業が使ってる階があるもんね。」
「はい。それで、バイト前のマナちゃんにレポートで使う本を借りに来てて。」
「え、吉田さんは大丈夫なの?」
「はい、避難勧告が出るもっと前に先に出てもらってました。」
「おお、ファインプレーだったんだ。」
「ふふ、バイトの時間が迫っていたみたいで強引に行かせたんですけどね。」
はあー。本当に、疑うまでもなくただの偶然だったようだ。からりと微笑むこの子が、この場に居る全ての人間を救ったことを誰も知らない。背中に感じる華奢な体から伝わる温もりが、俺が今生きていることを実感させてくれた。少し、いや大分かな。爆処のダブルエースなんて呼ばれて、調子に乗っていたんだ。松田や他の同僚たちから何度注意されてもヘラヘラ笑ってつけなくなった防護服も。にこりと笑う旭ちゃんに言われた言葉だけで簡単につけてしまったのだから、全くアホくさい。慢心と言われたのは、耳が痛かった。
ようやく辿り着いた地上は、とても明るくて目を細める。何台もの警視庁の車が並ぶそこに、サングラスを掛けた松田が立っていた。俺の姿を見つけて、ほんの一瞬安堵したように口元を緩めたのが分かる。背中におぶった旭ちゃんが間延びした声で松田の名前を呼んだ。
「はあ⁉旭‼なんでこんな所に居るんだ⁉」
物凄い勢いで走ってくる松田を見て、笑った。ああ、俺は生きている。生きてここに立っている。そう思ってほんの少し溢れた涙は、俺から奪い取った旭ちゃんを抱き締め直した松田に思い切り殴られたことでガチ泣きに変わったんだけど。
***
松田が刑事課へ所属替えになったことは、爆処にかなりの衝撃を与えた。なんでだよ、と同僚たちから詰め寄られても頑なに話さなかったくせに。松田の家で宅飲みしながら、ほろ酔いでふにゃふにゃになった旭ちゃんを大事そうに膝の上で寝かしつけた後に松田は笑っていた。俺は、旭を守るために警察官になったんだと。小さな頃から根拠のない万年不幸体質を持った旭を守るために、街ごと守ろうと思ったと話す顔は見たことがないほど柔らかいものだった。そんな松田にだけは、俺はお前の従兄弟に救われたんだと話していた。そうかと眉を下げて笑いながら、きっと心の中だけで正義の炎を燃やしていたんだろうと思う。松田は刑事部へと所属を変え、持ち前のキレの良さを駆使して検挙数を上げながら虎視眈眈と件の爆弾魔である犯人を探し続けていたことを知っている。
そして、迷うことなく遊園地の観覧車に単身で乗り込んだ。突然掛かってきた電話で告げられる状況の悪さに歯嚙みする。もう一つの爆弾なら探せば良い。とにかく解体しろと何度言っても色良い言葉は返ってこなくて。お前、旭ちゃんはどうするんだ!お前が死んで旭ちゃん泣かせるのかよ!爆処の居室に居たのに、つい大声で怒鳴っていた。目を丸くした同僚たちがおろおろとしているが、そんなことを気にかけている余裕も無くて。沈黙の中、何とか言えよと促せばブツリと終話した。らしくも無く、舌打ちをしながらデスクを思い切り叩く。からりと朗らかに笑うあの子を。ゆるりと目を細めながらお前の名前を呼ぶあの子を、誰よりも大事にしてきたくせに。自分でその手を離すのかと思ったら居ても立っても居られなくて。どうしたら良い、と考えながらとにかく同僚たちに出動準備しとけと声を掛ける。戸惑いながらも頷いてくれる奴らに悪かったなと眉を下げて笑った。何度考えたところで、あいにく俺は何も情報を持っていない。とはいえ何もしないわけにはいかなくて、松田に電話を掛け直すも通話中だった。こんな時に、と思ったもののとにかく深呼吸を繰り返す。今度は伊達に連絡した。状況を話せば伊達も動いてくれると言う。悪い、助かるよ。いいや、これ以上同期の姿を見かけなくなるのはさすがに堪えるからなあ。きっと、今の俺たちは同じような表情をしているんだろう。
『こっちはこっちで動いてみるから、分かったらそっちで頼むぞ。』
「ああ、もちろん。」
そうして終話する。出動準備をしながら、頭では悪い方に悪い方に考えてしまって。そして、見たこともない松田の従兄弟の泣き顔を何度も想像した。想像でしかないのに、どうしたってあの子の泣き顔は見たくないなあとぼんやり思う。何度か掛けてみたものの、松田はずっと通話中だった。一瞬。本当に一瞬だ。もしかしたらと思った。俺の時みたいに松田のことも、なんて随分虫の良い話かもしれないけれど。でも、まさか嘘みたいに虫の良い話が本当にその通りになるとは思ってもみなかったんだ。手持ち無沙汰でイライラしながらも、刻一刻と過ぎる時間を知らせてくる時計を睨み続ける。もう、そんなに時間が無いと思ったその時。デスクに置いた端末が表示した名前に目を見開いたのだった。
松田に言われるままに米花中央病院へ行くと、その入り口には本当に旭ちゃんが居た。俺の顔を見て懸命に笑いながらも大きな瞳にはうっすらと涙の膜を張っていて。警視庁を出る前に伊達と落ち合って同行していたから、俺たちの後ろには刑事部と爆処の人間たちが控えている。同僚たちには一言謝り、先に行って爆弾を探すよう頼むとどいつもこいつも悲痛な顔で旭ちゃんを横目に頷いてくれた。視線を合わせた伊達が旭ちゃんの傍で気を失っている男へと近づく。
「旭ちゃん、お待たせ。」
「……萩原さん。」
「そいつ、君が捕まえてくれた人?」
「捕まえたというか、追い掛けられて抵抗したというか…。」
「災難だったねえ。」
「強めに殴ってしまったので、ちょっと心配になって来ました。」
男の状態を確認した伊達が、これぐらいなら大丈夫だろうと苦笑している。そのまま、伊達の手で男に手錠が掛けられた。その様子を見てほんの少し深い息を吐き出しながら。いまいち状況が理解出来ておらず、困惑顔の旭ちゃんに向き直る。
「……あの?えっと、これ。」
「ん?端末?壊れてるねえ。」
「あとから思い出したんですけど。今日、その人とぶつかったんです。」
差し出された一台の端末は強い衝撃を受けたのか、画面がひび割れ一方の角が潰れていた。試しに電源ボタンを押すと、辛うじて見えるタイマーのような数字の列と何かのキーワード。話を聞いてみれば、旭ちゃんは道の角を曲がろうとした時に前方から急に飛び出して来た男と派手にぶつかり、持っていたトートバックの中身をぶちまけたらしい。やたらと相手が急いでいる雰囲気を感じて、慌てて散らばった荷物を掻き集めてバックへ詰め込んだとか。
「多分、その時にその人の端末を間違えて持って来てしまったんでしょうね。」
「それで、端末が無いことに気づき慌てて旭ちゃんを追いかけた、と。」
「随分間抜けな奴だなあ。」
「もう一台端末をいじってましたし、注意力が散漫になっていたのかなあと。」首を傾げる
伊達に、旭ちゃんは言葉を返している。あまり良く分からないですが、きっと証拠品ですよね?この状況のことを言っているのだろう。優しく目を細めた伊達が、大きな手で旭ちゃんのゆるふわな黒髪を撫でた。
「お嬢ちゃんには本当に助けられてばかりだなあ。」
証拠品を受け取りながら笑う伊達の隣で、俺も眉を下げて笑った。ありがとね。思わず漏れた言葉に、旭ちゃんは首を傾げる。
「俺のことだけじゃなくて、松田のことも救ってくれたんだよ。」
「え?どういうことですか?陣平くん、今どこに居るんですか?」
ああ、松田。お前言ってなかったのか。教えてください!と俺に詰め寄る旭ちゃんの顔は今にも泣きそうだった。どうしようか悩んだけど、俺の時みたいに松田も怒られれば良いと思って出来るだけ手短に話したのだった。
はあ、と大きな溜息を吐きながら首を回す。爆弾を解体し、現場を伊達に引き継いでようやく肩の荷が下りた。解体中に松田から電話があったから、今頃は旭ちゃんにこってり絞られて反省中だろうか。かいつまんで話したものの、きっとあの子は物凄く怒ってくれるんじゃないかなあ、なんて思いながら。それで終わると思うなよ、松田。次は俺の番だ。俺の時だって思いっ切り殴って来たんだ。容赦なんてしないからな!絶対だ!固く拳を握りつつもじわりと広がる安堵に頰が緩む。爆弾の近くに旭ちゃんを座らせるわけにもいかないからと、連絡班などの同僚たちと共に安全な場所へ置いて来た。様子見でもしてやるか、とそちらの方へ向かえば先に戻ったはずの同僚が真っ赤な顔で俺の名前を呼んでいることに気づく。
「は、萩原〜〜〜‼」
「んー?どうしたー?」
「早く!俺たちじゃ対応できねえよ〜〜〜‼」
「はあ?何?」
早く早くと急かされるがままに駆け足で近づくと、同僚たちが顔を覆って崩れ落ちている。はあ?何?思わず怪訝な顔を浮かべれば、あれだよお〜〜と俺を呼んだ同僚がはわわしながら指差した。その先を良く見たら、旭ちゃんを座らせていたベンチ。ん?んん⁇ここから見えるのは角度的に、松田と旭ちゃんの横顔なんだけど!なんだけど‼ベンチに座った松田の膝の上には、横向きに座っている旭ちゃん。どこからどう見ても松田が旭ちゃんの後頭部抑えてキスしてる⁉
「えええええええちょ、待って?え?ちょおおおおおおおお⁉」
「もう……三十分前…から……。」
「は?え?三十分前からキスしてんの⁉アレどう見ても舌入ってるよ⁉」
「それは、十分前くらい……。」
「え?それずっと黙って見てたの⁉何やってんのお前ら⁉」
「いや、その、……無理だ………。恥ずかしくて……無理だ…………。」
「ンン〜〜!そうだね!分かるわ!旭ちゃんの顔ヤバいもんね⁉」
「そうだろ……無理だろ……。」
「なんかとろっとろに溶け切ってるもんね⁉分かる!分かるよ‼」
あれ完全にベッドの中でしかしちゃいけない顔だもんね⁉あああ〜〜〜〜〜‼顔を覆って俺がパニックになっている間に、虫の息で状況説明してくれた同僚が轟沈した。あとは、頼むぞ…って崩れ落ちてる。おい!ちょおおおおおおお⁉普段の旭ちゃんは目の保養だけど、これはどう足掻いてもただの毒……。同僚たちは既に屍と化している。なんで!なんでっ‼俺だって同期の濡れ場なんて見たくねえわ‼しかもお相手は見た目美少女な男の子‼ああ〜〜〜〜〜〜〜‼
「ま、松田〜〜〜‼お前ええええええばかやろ〜〜〜‼」
「ぐっ、……。」
色々考えることをやめた俺がやることは至ってシンプル。思いっ切り走り寄って、渾身の力を込めて松田の頭を引っ叩いた。はっ、と我に返って目を見開いた松田は、肩で息をする俺を見上げる。
「松田!バカなの⁉何やってんの⁉キスすんなって何回も言ったよね⁉」
「………は?……俺、⁇」
「見て!旭ちゃんの顔!ヤバいから!」
「……っ⁉」
松田は明らかに動揺しながら、ガバッと旭ちゃんの顔を自分の胸元に押し付けた。ひ、ひえ〜〜旭ちゃん……はふはふしてる…………。考えるな!考えるな俺‼ぐううと強く奥歯を噛み締めながら、もう一度両手で顔を覆った。無理〜〜〜旭ちゃん本当にこれで男の子⁉なんで⁉しかも何!?松田の反応見る限り、無意識でやってた感じ⁉なんだお前〜〜〜まさかこのタイミングで理性飛んだの⁉いい加減にしてよお〜〜〜‼
さすがの俺でも無理で、しばらくその場にしゃがみ込みました。