松田旭
教授が使う学会資料の整理を一緒にやろうよお、と駄々こねられて。文句を言いながらも付き合っていたら、結局夜通しでのお片付けとなってしまったあの日は、もうひと月も前の出来事となっていた。朝方まで掛かってしょぼしょぼする目を擦りながら歩いていたら、その帰り道に散々な目に遭ったのだけれど。こんな風に思い返せば時が過ぎるのは早いなあと思う。あの時はたまたま、陣平くんの同期で何かと顔を合わせている伊達さんが近くに居て助けてもらった。久し振りに本当に死ぬかもって思って、迎えに来てくれた陣平くんの顔を見たら外なのに思い切り泣いちゃったんだけど。お家に帰った後、それはもうすっごく怒られた。どんな理由であれ朝帰りはダメだって小言まで丁寧にきっちり揃えられて。ごめんなさい。とても反省しています。もう絶対にしません。
でも、たくさん怒った後は、本当に心配したってぎゅうぎゅうに抱き締めてくれるからとっても安心するし、嬉しい。俺の隣に居なきゃダメだろって拗ねた顔をするんだもん。陣平くんはいつだって格好良いのに、時々甘えるように俺を抱き締めてくれる。ごめんね、の気持ちを込めて頭を撫でながらおでこにキスをすると、唇を尖らせたりするからすっごく可愛いんだあ。
そしてある時を境にして、口と口をくっつけるキスが贈られるようになった。ちゅ、と可愛いリップ音を立てて押し当てられる唇を微笑んで受け入れる。壊れ物を扱うように、感触を確かめるように、そっと触れる唇の熱は少し冷たい。小鳥のさえずりみたいなキスをちゅ、ちゅと何度かしてこつりと額を合わせる。ふにゃりと笑う俺の頬を撫でる陣平くんの手は、大きくて温かい。そのままゆっくり頭を撫でられて、シャワー浴びて寝ろと囁かれた。一緒に寝てくれる?と首を傾げれば、当たり前だろなんて声が返ってくる。
「じゃあ、すぐシャワー浴びてくるね!」
「慌てなくて良いぞ。」
ゆるりと口角を上げた陣平くんの今日はオフ。頬にキスをして、だっていっぱい陣平くんの隣に居たいんだもん!と笑えばくしゃりと笑いながら腕の中に閉じ込められて。さっきやったばっかりの触れ合いを、巻き戻しするみたいにやり直す。陣平くんが俺にキスするのを、萩原さんは何回もダメって注意するけれど。俺は陣平くんがしたいって思ってくれるならなんだって嬉しい。いつだって『俺の可愛い旭』だったのが、『俺だけの可愛い旭』って言うようになったことを知っている。ちゃんと気づいていて、受け入れている。俺は陣平くんの旭。陣平くんにとって太陽みたいな光でありたい。自分の名前の意味を知った時からずっと思っていたこと。陣平くんもそう思ってくれていたら良いなあ、なんて考えている。
刑事部でのお仕事は落ち着いたようで、爆発物処理班へ戻った陣平くんは萩原さんや同僚の皆さんとまた一緒にお仕事をしている。所属が変わる時、危ないことはしないでともう一度約束をし直したのも気づけば少し前の出来事となってしまった。自分の意思とは関係なく、俺も事件に関わることになっていたことには驚いたけれど。萩原さんから陣平くんがどんな状況にあったのかを聞いたら苦しくって悲しくって仕方が無かった。実を言うと、あの時のことをたまに思い出しては泣いている。どうしようもなく不安になって、その度に陣平くんにすがりついてしまう。置いていかないで。ずっと隣に居て。ぐずぐずに泣きながらそんな風に言ってしまう俺に、陣平くんは温かな手の平でゆっくりと頬を撫でてくれる。どこにも行かない。もう旭を置いて行こうとしたりしない。繰り返し繰り返し、何度だって言ってくれる。絶対だよ。絶対な。約束だよ。約束する。ぎゅうぎゅうに俺を抱き締めてくれる腕の力を感じながら、厚い胸板に頬を擦り付けて体温を確かめる。とくり、とくりと刻む鼓動の音を聞いて目を閉じれば、指を絡めるように繋がれた手を持ち上げ、指先に小さなキスが落ちてくる。そうやって与えられる甘やかな熱を失いたくないと、心の中では何度だって思うんだ。
今日の陣平くんは遅番。さすがに遅くなっちゃったなあ、と息を吐く。まだ帰る時間連絡は来てないけれど、夜ご飯の下ごしらえをしてきて良かったと思った。今は兎にも角にも卒業論文の作成に時間を取られていて、資料探しのために一日中図書館へこもっていることもあって。集中出来るのは良いことだけれど、夢中になり過ぎるのも問題だなあ。今日は講義も無く、調べ物と時々教授と話すくらいだったのを見越して女の子の格好をしてきた。肌寒くなってくると女の子のお洋服はいくらでも暖かくなれるから凄い。そして胸まで長さのあるウィッグが暖かくてとても最高です。皆も被ってみたら良いのになあ。
頭に浮かぶいろんなことを考えていると、足音が聞こえた。なんだか急いでいるような、焦っているような。でも、普通の人ならもっとバタバタと足音が立つはずなのにその音は違う。小さい頃から追い掛けられることが日常的にあったから、足音とか人の気配には敏感なんだけど。耳を澄ましてみても、なんとなく気配を殺すような音はどこから聞こえてくるのか探りづらい。辺りを見回しながら角を回ろうとした時、飛び出て来た人と勢い良くぶつかった。あまりにも気配が無かったことに驚いて、受け身が間に合わないと思ったのに。
「ごめん、大丈夫?」
傍で聞こえた声にびっくりした。転んじゃうと思って咄嗟に目を瞑っていたら、相手が背中を支えて抱き寄せてくれたみたい。
「大丈夫です。ごめんなさい、ぶつかってしまって。」
「いや、俺がぶつかったんだ。ごめんな。」
その人は俺を腕に抱えながらもしきりに後ろを気にしている。その行動になんと
なく思い当たることがあるというか。見上げるほどの身長と、俺を軽々と片腕で支える逞しさに首を傾げつつ一緒に後ろへと視線を向けた。
「じゃあ、本当にごめんな。俺行かなくちゃ。」
それは本当になんとなく。この人をこのまま行かせてはいけないと思って、咄嗟に抱き着いてみる。うわあ、陣平くんみたいに厚い体だあ〜〜。ほとんど無意識でやったことだったけど、その人は大袈裟なほどにびくりと体を硬直させていた。
「え⁉あの、?」
「お兄さん、誰かに追われてますか?」
息を呑む音を聞いて、徐にその人の顔を見上げる。酷い顔色だと思った。具合が悪そうと言うより、要らない覚悟を決めてしまったような、そんな表情。事情は良く分からないけれど、このお兄さんはぶつかった俺をわざわざ助けて謝ってもくれた。それに、どこか漂う良い人オーラのようなものを感じて少しだけ笑う。
「うちに来ませんか?兄が警察官だから、きっと力になってくれます。」
「いや、ごめん、君を巻き込むわけには………。」
「大丈夫です、なんだか訳ありみたいですけど。ね、お願いします。」
「……気持ちは嬉しいけど。」
「ダメですよ、死のうとしてるでしょう?」
「……なんで。」
「なんとなくです。何回も死にそうになったことがあるから、なんとなく。」
「君みたいな子が……?」
「あはは、多分お兄さんとは全然違う理由だと思いますけどね。」
長居出来ないなら、お茶一杯だけでも良いですから。一度落ち着きましょう。兄がいつも言うんです。焦りこそ最大のトラップだって。焦って考えても、良い考えなんて浮かばないです。あなたが死んで悲しむ人だって居るはずです。どうか、お願いですから。とにかく引き留めなきゃと思って、浮かんだことをただひたすらに喋っていく。お願いします。お願いですから。そんなことばかり言っていた気がするけれど、俺の背中を支えてくれた太い腕からは力が抜けてしまっている。だらりと垂れた大きな手を両手で包むと、小刻みに震えて酷く冷え切っていた。一緒に行きましょう。何度も顔を覗きながら言うと、やがてその人は困ったように笑って頷いてくれる。
「よし!じゃあ、服交換しましょう。」
「え⁉ちょ⁉」
寒がりな俺は風邪を引きやすいからと、家を出る前に陣平くんが優しくマフラーを巻いてくれた。大学から出る前に自分でぐるぐるに巻いたそれを取って、背の高いお兄さんに巻いてあげる。今日着ているのがメンズのチェスターコートで良かった。あわあわしているお兄さんのジャケットを笑いながら奪って、ベージュのコートと交換したらとっても似合ってて。なんだか変なところで満足しちゃった。最後にお兄さんの大きいジャケットを着て準備は万端。行きましょう、と笑い掛けて大きな手を引きながら歩き出す。戸惑いの色を滲ませながらも周りを見回すお兄さんの整った横顔をちらりと見上げた後、端末に視線を落とせば。陣平くんからきていたメッセージの通知に微笑んで、そっと指でなぞった。