松田陣平
夜勤明けは妙に頭が冴えている。帰宅して、ひんやりと冷たい空気を肌で感じれば旭がまだ寝ているのだと悟る。車のキーを玄関傍のキーフックに掛けて靴を脱いだ。手洗いうがいは絶対やること!と口酸っぱく言われる生活を続けていれば、無意識で体が動くようになる。それだけ旭と長い時間を一緒に過ごしている証拠だと思えば、こんな些細な自分の行動すら愛おしく感じるもので。ずっと隣に居たはずなのに。昨日よりも今日の方が、今日よりも明日の方が。旭を愛おしいと思う気持ちが強くなっていくように思えた。
本当なら、帰ってきた瞬間に旭の寝顔を覗き込みたいと思う。だが、せっかく寝ているならそのまま一緒に眠りたいとも思う。だからさっさとシャワーを浴びてがしがしと髪をタオルで拭いながら部屋着に着替える。何となしに洗濯カゴを見ると、昨日出勤前に着ていたTシャツが無くなっていることに気づいた。まさか、とは思いながらも自然と口角が上がる。作り置きの茶で喉を潤してから、ようやく旭を探すことにして。と言っても、ここ最近の寝床は俺のベッドだ。そんなところも可愛いと思ってしまうから、もうどうやっても手離せないのだろう。
予想通り、旭は俺のベッドで丸まって寝ていた。枕元には多分卒論に使う資料と、公務員試験の問題集。大学にまで持って行って、何度も目を通し、同じだけ解いていたことを知っている。旭の努力を、俺が誰よりも近くで見てきたという自覚がある。だから、というか。密かに思ってきたことを簡単に口にすることが出来ないでいた。出来なくなってしまった、と言うのが正しいだろうか。例え、俺のそんな様子に旭が気づいていて、不安に感じていることを理解していても。
遊園地の観覧車の中で自分の死をぼんやりと考えて、それでも何よりも旭が大事なのだと結論付けたあの事件の日から、ずっと考えていた。旭が望む通り、本当に警察官にならせても良いのだろうかと。きっと頭の良い旭のことだ。試験や面接など難なくクリアしてその願いを叶えるのだろう。俺と全く一緒とは言えなくとも、トレーニングは欠かさずに行っている。ウェイトは人より劣るが、規定はギリギリ満たしている。瞬発力や反射神経は抜群に良いし、俺や同期たちには劣る持久力も並の男よりは断然ある。それはそれは優秀な警察官になるのだろう。単純な能力値を見れば、降谷とまではいかなくとも諸伏のように公安部へ所属出来るかもしれない。そこまで分かっていて、そこまで想像することが出来ていて。本当に旭を警察官にさせても良いのだろうか。
その能力の高さを、きっと上の人間は放っておかない。そしてそうなった時、旭はこれまで通り自分の隣を歩いてくれるのだろうか。俺の手が届かないところで、旭自身ですら与り知らぬ力が働き、手離すことになるのではないだろうか。早い話、俺は怖くなった。旭が自ら望んだ夢を叶えた時、ずっと隣に居た存在が誰かの手によって掻っ攫われてしまうのではないかと。そう思うと、警察官になるのを諦めてくれとすがり付きそうになってしまう。これまで通り、俺の隣を歩くだけの旭で居て欲しいがために。そのためなら、どこにも行かないように縛り付けたって良いとすら思えてくる。きっと、一言でも言葉を漏らせば溢れるのは一瞬だろう。旭を繋ぎ止めるために身勝手な懇願をすることになることなど、そんなのは考えるまでもなく分かることだった。
だが、ほんの僅かに残った理性が俺に語りかけてくる。俺のために警察官になるのを諦めてくれなんてそんなこと、言っても良いのかと。旭がしてきた努力を知っている。旭がそれをずっと夢見てきたことを知っている。旭の望みを、俺が俺のために潰して良いのかと、淡々と語り掛けてくる。理性に耳を傾けてしまえば、どんなに旭が不安を抱いていることを理解していても言葉を紡ぐことが出来なくなった。旭を置いて行こう一瞬でも思ったクソみたいな自分とはあの日に決別したが、なんだかやたらと女々しくなった気がする。らしくねえ。どうしたって旭のことを手離すことなど出来やしないのに、理性的で正論を説いてくる自分の声を振り払うことが出来ない。俺のために傍に居て欲しい。だが、旭の望みを大事にしてやりたい。旭を想うのなら、その背中を押してやれ。旭をどこにも行かせたくないのなら、傷つけてでも縛りつけろ。完全に板挟み状態に陥った俺は、何も言えないくせに旭を抱き締めて、何度だってその柔らかな唇に酔いしれた。
俺のベッドで丸くなった旭の頭を撫でながら、起こさないように体を滑り込ませる。そっと抱き寄せて、華奢な体をぴたりとくっつけた。滑らかな頬に口付けた後、細い首筋に顔を埋める。随分と襟首がブカブカだと思えば、部屋着の下に俺のTシャツを着ているらしい。どんな思いでそうしたのかと考えると、堪らなく可愛いなと思う。熱がこもって甘ったるい良い香りを放つ肌に、僅かに口を開けて歯を押し当てた。決して齧りはせずに甘噛みする。その感触がくすぐったいのか、旭は小さく身じろぎした。起こしたくないのに、起きてその瞳に俺を映して欲しいと思う。せめぎ合う気持ちをどうすることも出来ずに指の背で頬を撫でた。やがて、ゆっくりと目を開けた旭は俺の姿を見つけたのかふにゃりと笑う。
「おかえり、じんペーくん。」
「ただいま、旭。」
小さな手が俺の頬にそっと添えられ、親指で柔らかく擦られる。さびしかった。まだ夢現なのか、掠れた声が聞こえた。なんとなく、今の旭になら弱音を吐いても良いだろうかと抑えきれない欲が出てくる。うつらうつらと瞬く緩み切った表情を見つめながら、小さな声で胸の内を明かすことにして。
「旭。」
「んー?なあに?」
「俺の隣に居てくれるか。」
「いるよお、ずっと。」
「俺は、旭が居てくれるならそれで良い。」
「ふふ、おれも。」
「旭、俺にお前の人生をくれないか。」
「んん、いいよ。」
「全部諦めて、俺のためだけに生きて欲しい。」
「いいよ。」
陣平くんが望むなら、全部捨てて隣に居るよ。俺ね、陣平くんが居ない世界を生きたことがないんだ。
でも、陣平くんが隣に居てくれるだけで、生きていけるの。隣に居てくれるなら、それでいいんだよ。
やけにはっきりした声を出すから、思わず目を見張った。子供のように無垢な顔で微笑みながら、旭は随分とゆったりした動作で俺にキスをする。熱はすぐに離れていき、甘やかに瞳を細めながらじんペーくん、ぎゅーなんて舌ったらずに甘えてきて。面食らった俺を見ながら、はやくーとねだる声に言われるがまま思い切り抱き締める。そうすれば、旭は嬉しそうに笑ってまた眠ったようだった。穏やかな体温を感じながら、やっぱりどこにも行かせたくないと思った。傷つけたくはない。それは旭が生まれた時から思ってきたことだ。誰に言われたわけでもないのに、俺が守ってやると勝手に決めてどんなことからも守ろうとしてきた。そんな旭を、例え自分が傷つけることになったとしても。それでも、旭にはすぐ隣でずっと笑っていて欲しかった。自分の気持ちに嘘はつけない。もう良い年をした大人なのに、どうしようもなくワガママで情けない男だと自分に苦笑する。
***
金なら気にしなくて良いとは言ったのに。使わなくても良いお金は使わなくて良いの、と譲らない旭は優良学生に与えられる学費免除の権利を得て、大学卒業後は大学院へと進んだ。ゼミの教授から気に入られていることもあって、好きに研究して良いなんて言われているらしい。そういうもんか?と首を傾げたものの、モラトリアムみたいなものだからと笑っていた。
「ただ養ってもらうのもどうかなあって思っててね。」
「別に良いだろ。」
「ふふふ、そう言ってくれるのは嬉しいけどねえ。」
「ダメなのか?」
「というか、一緒にお金貯めてお出掛けとかしたら楽しいだろうなあ〜って。」
「そうか。」
「うん。陣平くんがずっと隣に居るって言ってくれたから。」
「ん?」
「何か、他にやりたいこと探すのも良いかなって思ってるんだ。」
そんな風に話しながら、長居すると本格的に教授の助手としてこき使われそうだと肩を竦めた旭。だからという訳ではないが大学院で修士課程を履修し卒業した後は、教師になったという高校からの友人のツテで非常勤講師をしようと思っていると言った。これは後から聞いた話だが大学在学中に教員免許を取得出来る授業も受けていたらしい。全く、俺が知らないうちに何でもやってしまうのだと息を吐いたのは内緒だ。
「あのね、警察官にならないって決めたのは俺だから。」
「……ああ。」
「だから、ごめんなって顔しなくて良いんだよ?」
大きな瞳を甘やかに細めて、旭は笑う。陣平くんが俺のためだけに生きてって言った時、夢なんだろうなって考えたんだけどね。ドキドキしすぎて死んじゃうかと思った。そんな風に話す穏やかな顔を見つめる。
「……死ぬな。」
「あはは、うん、死なないよ。俺は陣平くんと一緒に生きていくんだからね。」
ソファに座ってぴたりと体を寄せ合いながら、指を絡ませるように手を繋ぐ。俺たちはこれからもずっと、互いの体温を感じながら共に生きていくと決めた。
「陣平くん、ずーっと大好きだよ。」
「ああ、俺も。」
俺だけの可愛い旭。囁くように呟くと、旭はからりと笑う。陣平くんだけの可愛い旭ですよ、なんて朗らかに返すのだ。