松田旭

 先日、陣平くんの同期の皆さんと一緒にひたすらに笑った時間が夢だったのかと思うほど、我が家は静かだ。陣平くんと二人っきり。いつも通りの、落ち着く空気。そんな中で、陣平くんが鼻歌を歌っている。フローリングの床に新聞紙を敷き詰めて、その上に胡座をかきながら。お仕事で履いている靴のメンテナンスをする時の陣平くんは、とっても楽しそうで。いつだって格好良いけど、咥え煙草で鼻歌を歌いながらお気に入りの靴を大事に磨く陣平くんは見ていて微笑ましい。陣平くんは、時々鼻歌を歌うことがあるんだけど。こうやって靴を磨いてる時だったり、お風呂に入っている時だったり、ベランダに出て煙草を吸っている時だったり。その選曲はバラバラ。でも、俺が聞いてる曲を一緒に聞いて覚えたものばっかりだから何を歌っててもバッチリ分かっちゃう。そんな小さなことに、陣平くんの中に俺がちゃんと居るんだってことを知って嬉しくなる。手先がとっても器用な陣平くんは、靴のお手入れも丁寧で優しい。時折目線を上げてそんな姿を見ながら、俺はアイロンを片手に陣平くんのワイシャツのお手入れ中。面倒だからクリーニングで良いぞなんて、随分前に陣平くんが言ってくれたけれど。大好きな人のためだと思えば、アイロン掛けですら楽しくてとっても大切なことだと思えるからこれだけは譲れない。自分が好きでやってるから良いんだよ、と笑えば微笑みながら頭を撫でられた。お仕事に着ていくワイシャツを、大切に扱う。アイロンで皺を伸ばしながら、心の中で陣平くんへの想いを込めてみたりして。これは、自分だけの勝手なおまじないみたいなもの。この街を守っている陣平くんが、怪我なく帰ってきてくれますように。ワイシャツなんて頼りないかもしれないけれど、それでも。
 すっかり年末の空気だなあ、と思う。また今年も陣平くんと一緒に過ごせたことに感謝しなきゃね。大好きで大切な、俺だけの格好良いヒーロー。今年もお勤め、本当にお疲れ様でした。陣平くんは今日から年末年始の休暇を貰っていて、俺も大学は休みに入った。毎年、大晦日は二人で年越しをして、年始の二日間は互いの実家へ。と言っても、俺はほとんど陣平くんの実家に入り浸りで、うちの両親も陣平くんの家に来る。そして両家揃って松田の祖父母宅へ行くのが、恒例の流れ。文字通り、年末年始もずーっと陣平くんと一緒。生まれた時から一緒に過ごしているのに、それでも居足りないんだからちょっと笑っちゃう。小さな頃からずっと隣に居たいなとは思っていたけど、今もこうして一緒に居られるのは嬉しいし、本当に幸せなんだ。このまま、いつまでも隣に居たいなあ。名前を呼んで、手を伸ばせば直ぐに繋いでもらえて。大きな体にぎゅうぎゅうに抱き締めてもらって、たくさん大好きを伝えたい。一緒の時間を過ごせば過ごすほど、もっともーっと好きになる。世界で一番格好良い陣平くんのことを好きな気持ちは、誰にも負けないし負けたくない。

 アイロンを台に置いて、冷めた熱が一定の温度になるのを待ちながら。目線を手元の靴に落とした陣平くんの姿を見て、はふ、と息を吐く。キス、したい。ほんの少し唇を噛んだ。カチリ、と小さな音を耳が拾ってアイロンを台から持ち上げる。シューと吐き出されたスチームをワイシャツから少し離したところで当てて。当て布をして、丁寧に皺を伸ばしていく。無意識のうちに、唇を舌で舐めていた。大事に大事に、アイロンを滑らせながらおまじないを掛ける合間にも時折息を吐き出して。もうー、欲しがりになるのだめ。いっぱいキスしてもらってるのに。まだ足りないの?と自分に問い掛ける。唇を尖らせながら、ワイシャツのアイロン掛けを終わらせると。

「旭。」

いつの間にか鼻歌を止めていた陣平くんが、手招きしている。

「なーに?」

ハンガーに掛けたワイシャツの束を両手に持ちながら立ち上がって。陣平くんの傍に寄って行った。

「ん。」

胡座をかいたままの陣平くんが、俺を見上げている。言葉にせずとも何故呼ばれたのか分かって思わず頬が熱くなった。ゆるりと笑いながら、体を屈めて陣平くんに近づく。ふに、と触れ合わせるだけの唇。すぐに少しだけ離して、ぼやけるほど近い距離で見つめ合った。

「もっかい。」

そんな風に言われたら、素直に従うしかないのに。今度はちゅ、とリップ音を鳴らして可愛いキスを落とした。たったそれだけではふ、と息を漏らしてしまう。

「キス、したいと思ってたの。」

ほんのちょっとだけ出来た隙間で、吐き出した自分の気持ち。それを聞いた陣平くんは、底の見えない綺麗な瞳を甘やかに細めながら。

「俺も。」

二人だけの空間なのに、誰にも聞かれないように小さな声で囁くから。ぎゅう、と心臓が痛いくらいにときめく。どうして、陣平くんはこんなに格好良いんだろう。ズルい。

「陣平くん、大好き。」

この気持ちがほんの少しでも伝われば良いのに。そう思いながら、キスを贈る。

***

 年が明けて、陣平くんの実家へ帰ってきた。陣平くんのお父さんとお母さん、俺にとっての叔父さんと叔母さんへ新年の挨拶をしてから。陣平くんの部屋に荷物を置いて背伸びをする。そのまま、叔母さんが用意してくれたふかふかの布団に倒れこむところまでがお決まりのパターン。もぞもぞと体の向きを変えて、仰向けになれば。どさりと音を立てて大きくて厚い体が覆い被さってくる。それだけで、俺はもう動くことが出来なくなって。おまけに指と指が絡まった両手は、陣平くんの大きな手で押さえ付けられていた。別に、逃げたりしないのに。でも服越しに触れ合う体温とは違って、ダイレクトに熱を与えてくれる陣平くんの手の平に力がこもっているのを感じると、意識などしなくても熱い息を吐き出していた。俺を見下ろす陣平くんの瞳は真剣で、どこかぼんやりともしている。俺と良く似た目元をしているはずなのに、俺には無い男の人らしさとか、大人が浮かべる鋭さとか、俺を射抜くような熱が浮かぶのを見て。ふるりと体が震えたのは何故だろう。多分、恐怖。今までにどんなものだって陣平くんは与えてくれたのに、俺にはまだ知らないことがあるのかと思う。新しいものを与えられるのは怖い。陣平くんから与えられた後、自分がどうなってしまうのか分からないから。そして、歓喜。陣平くんがくれるものは何だって嬉しい。俺を心から愛しんで向けてくれるのが分かっているから、きっと痛みや悲しみですら俺は喜ぶんだろう。旭、と俺を呼ぶ陣平くんの掠れた声は、何度聞いたって心が溶けてしまうのではないかと思う。少しずつ形を保てなくなって、ぐずぐずのどろどろになって、最後はとろとろの液体になって。陣平くんが何度も俺の名前を切なそうに呼ぶ度に、俺の頭の中ではそんなイメージが繰り返し流れている。溶けちゃうよ、陣平くん。体がとっても熱い。顔が近付いてくると、格好良くて恥ずかしいからつい目を閉じてしまう。でも、ちらりと薄眼を開けて仰ぎ見る真剣な表情に声を上げそうになる。俺の大好きな陣平くんがこんなに格好良いんですよ!なんて、世界中の人に伝えて回りたいくらい。でも、誰にも教えてあげない。誰にも、陣平くんが格好良いことを知って欲しくない。どんな陣平くんも俺だけのものにしていたい。そんな恥ずかしいことを思いながらゆっくりと目を閉じた。

 少しだけ冷たい唇がふに、と触れる。感触を確かめるようにそっと、ゆっくり圧が掛かる。ぴたりと唇同士をくっつけて。少し離れて、またくっついて。ふに、と音もなく触れ合うだけだったのに。いつしかちゅ、と可愛いリップ音が聞こえるようになっている。ちゅ、ちゅと小鳥が啄むような触れ合いを続けた後、熱を帯び始めた陣平くんの唇が僅かに開いて俺の唇をはむっと挟む。小さな子供でも出来そうだった可愛いキスから、少しずつ階段を登るみたいな大人の触れ合い方に変わっていく。陣平くんの薄い唇に挟まれる度に、じん、と滲むような熱が広がっていくようで。また少しだけ唇が離れたと思うと、ゆっくり目を開ける。綺麗な瞳の奥にどこか煮え滾るような熱を浮かべて、陣平くんは掠れる声で俺の名前を呼んだ。陣平くん。自分で思っているよりもとろけきった甘ったるい声が口から溢れていく。それがどうしようもなく恥ずかしくて。でも、陣平くんが本当に愛おしいみたいな顔でとろけるように笑うから。もう一度、陣平くんの名前を呼ぶ。心の中は、すきでいっぱいになっていて。声に出すよりもっとずっとたくさん、陣平くんを大好きだって言ってる。キスをされただけなのに、もう俺の頭の中はどろどろなんだと思う。蜂蜜みたいにとろとろになるまで溶け切ったら、もう陣平くんのことしか考えられない。きゅ、と目元を和らげて微笑む陣平くんの手が、俺の手を握る力を強くする。それに応えるように俺も手に力を込めた。また、キスが降ってくる。ゆっくり目を閉じて、すっかり熱くなった陣平くんの唇を感じる。ぬるり、と入ってきた感触に体がびくりと揺れた。優しく押し入ってきたのに、抗う気力すら沸き起こることなく自分の唇に出来た隙間を大きくする。堪らずに舌を伸ばすと、すぐに熱とぶつかった。我が物顔で俺の口内を動き回る陣平くんの舌の感触に、鼻から抜ける息が湿っていく。互いの舌を擦り合わせていると、どうしてそうなるのか分からないのに頭が気持ち良さで満ちていった。歯列をなぞられ、上顎をくすぐり、舌根からじゅう、と吸われる。下顎に溜まっていくばかりの唾液を掬い、持って行かれて。ゴクリ、と陣平くんの喉が鳴る音を耳が拾って、体の熱が急に上がったような気がした。

 くちゅくちゅと湿った音がずっと頭の中に響いている。強く吸われて訳が分からないほどに体が熱くて、恥ずかしくて。でも、気持ち良い。恥ずかしくて顔も体も、口の中もどこもかしこも熱い。燃えてるみたいだ、なんて思う。ん、とかふぁ、とかそんな声ばっかりが陣平くんとくっつけた唇の隙間から漏れていく。もう頭の中には陣平くんのことしかない。気持ち良い。熱い。溶けちゃう。すき。陣平くん、大好き。もっと、して。もっと、とろとろにして。陣平くんのことだけ考えていたい。陣平くんのことしか、考えたくない。気持ち良いキスの合間に、乱れた息を溢しながら陣平くんの名前を呼ぶ。ぐずぐずに溶け切った甘ったるい声で、名前を呼びながら何度も好きと繰り返す。ギラギラと射抜くような視線で俺を見下ろす陣平くんがふ、と微笑んで。旭は俺のものだ、なんて優しく言うのはずるい。そうだよ、俺は陣平くんのもの。生まれた時からずっと、陣平くんだけの可愛い旭。

「……陣平、くん。」
「は、なんだ?」
「すき…。」
「ふ、俺も好きだ。」
「すき、大好き。」
「ん。」
「だから。もっと、して?」

気持ち良さで涙の膜が張った視界に映る陣平くんは。何度も繰り返したキスの合間に互いの唾液で濡れた唇をぺろりと舐めた。

「…たくさんしてやる。」

うん。うん、いっぱいして。気持ち良く、して。コクコクと頷く俺を甘やかに細めた瞳で見下ろしながら、陣平くんは口角を上げる。そうして俺の耳元へぴたりと唇をくっつけて。

「お前が旨そうだから、もう止めてやれねーぞ。」

ん、と口から声が漏れていく。びくりと揺れる体の熱をどうやって抑えたら良いのか分からない。はくはくと呼吸を繰り返す俺の頰を、少しだけ固い陣平くんの指先が撫でていく。そうして。

「いただきます。」

お行儀良く挨拶をした陣平くんは、ガブリと俺に噛み付いた。