松田旭

 少し前から、塾講師のアルバイトを始めた。もともと、高校時代からの友人の従姉妹である歩美ちゃんには家庭教師みたいなことをしていたんだけど。大学院を卒業したら友人が勤めている高校で非常勤講師をすることを考えているから、少しでも慣れておこうと思ったのがきっかけ。それから、何もかもを陣平くんに養ってもらうのは申し訳ないと思ったのが一つ。あとは陣平くんは気にしなくて良いって言うけど、それでもやっぱり陣平くんの助けにはなりたい、とか。自分で働いてお金を得ることがどういうことなのを知って、陣平くんの大変さを少しでも理解したい、とか。何かイベントがある時は自分のお金で陣平くんに何かしてあげたい、とか。色んな『とか』を考えては、どこまでも自分の行動原理は陣平くんに繋がっていくのだと思った。でも、こればっかりは仕方ない。俺の中はいつだって陣平くんのことでいっぱいなんだから。とはいえ、アルバイトをしたいと思ってることを伝える時はドキドキした。陣平くんは眉を寄せながらあれこれと質問をしてくるから、その一つ一つに答えていく。ソファでくっつき合っていた体をズルズルと抱き寄せられて、最後は膝の上で向かい合うようにして。ぎゅうぎゅうに抱き締められて、大きな大きな溜息を一つ吐き出した陣平くんは。分かった、と頷いてくれたのだった。ただし、と直ぐに続いたのはいくつかの約束事。絶対に無理をしないこと。必ずシフトを共有すること。そして、ほんの少しだけ口籠もりながら付け加えられた『陣平くんを優先すること』。思わず笑ってしまった俺を、陣平くんはじとりと見上げる。心配しなくても、俺はいつだって陣平くんのことしか考えてないんだよ。どうしたら長い時間一緒に居られるかな、とか。どうしたらいっぱいくっついていられるかな、とか。どうしたら俺のことだけ見ていてくれるのかな、とか。自分でも笑っちゃうくらい、俺は陣平くんのことしか見えていない。そんなことを伝えると、陣平くんは瞳を甘く細めながら何度もキスをくれたのだった。

 今日はバレンタインデー。日勤の陣平くんに袋を持って行くようにお願いすると、別にいらねーだろなんて唇を尖らせていたけれど。これはいつもありがとうございますって意味だから、と中身がお店で買った色とりどりのフィルムに包まれたチョコレートの詰め合わせだと説明もして。渋々といった感じの陣平くんに抱き着いて自分からキスをした。帰ってきたら一緒にケーキ食べようね。毎年恒例のイベントだけど、陣平くんは楽しみにしてると言って笑ってくれる。本当に、陣平くんは優しい。格好良くて、ズルい。陣平くんを送り出してから俺も支度をして、大学へ行く。お昼頃になると萩原さんと伊達さん、諸伏さんからメッセージが送られてきて。陣平くんがちゃんと渡してくれたみたい。不定期なお仕事だろうから、もしタイミングが悪くてもデスクに置いてて貰えば良いなと思って賞味期限が少し長めの物を選んでおいたんだけど。今日は降谷さん以外は日勤だったみたいだ。その降谷さんはどうやらポアロの日らしいので、あとでお会い出来るなあと思いながら。いつもお世話になっています、という前置きで三人へメッセージを返信する。最後に陣平くんへありがとうと、お願いしちゃってごめんねを送って。いつも通りに返信は早くて、あいつら喜んでたぞと付け加えてくれる。それなら良かった。はあ、陣平くんに会いたいなあ。思ったことをそのまま送ると俺も、と返ってくる言葉が嬉しくて自然と口角も上がる。

 ポアロで出来た新しいお友達は小さな子供たち。歩美ちゃんの同級生だという彼らは、とても元気が良くて微笑ましかった。素直な良い子たちだったなあ、と思いながらも、なんだかやけに大人っぽい子のことを思い浮かべる。降谷さんが頭が切れると言っていたコナンくんは、なんだか小学生と言ってしまうには少し違うような気もしたけれど。ファンタジーのお話じゃないんだから、そんなことあるわけがないんだけど。不思議な子だったなあ、と思い出しながらキッチンに立つ。夜ご飯の支度は下拵えが済んで、あとは陣平くんが帰ってきたタイミングでやっていけば良い。いつもの帰る連絡があった時間を考えれば、もう少しかなあなんて思った瞬間に玄関の鍵が開く音。弾かれたように駆けて行くと、玄関には陣平くんが居た。

「お帰りなさい、陣平く、ん⁉」

勢い良く引き寄せられて、気付いた時にはキスをされていた。後頭部を押さえる大きな手の力が強い。普段ならそんなことは無いのに、がちりと当たった歯。痛い、と声を出す間もなく早急に抉じ開けられた口の中で舌が荒々しく動く。怒りとか戸惑いよりも、どうしたんだろうという心配の方が優って。外の冷たい匂いをまとった陣平くんが着ているダウンを握る。されるがままになっていると、やがてすっかり熱を持った唇が離れていく。ふにゃりと力が入らなくなった体は、陣平くんが支えてくれていた。ぎゅうぎゅうに抱き締められながら、厚い胸元に擦り寄って。深呼吸を何度かすると少しずつ霞みがかった思考も戻ってくる。

「……お帰りなさい、陣平くん。」
「ただいま、旭。」

まずはさっき出来なかった挨拶から。返ってくる声を聞けば、落ち着きを取り戻してくれたようだ。

「俺、何かしちゃった?」

教えて?陣平くん。見上げた顔に手を伸ばして。トレードマークのサングラスをゆっくり外しながら、露わになる綺麗な瞳を見つめた。

 夜ご飯を食べて、お風呂に入って。ゆっくりと話す陣平くんの声に、一つ一つ頷きながら。昨日作っておいたガトーショコラを冷蔵庫から取り出して切り分け、紅茶のリキュールはお湯で割る。紅茶やコーヒーでも良いけど、夜のカフェイン摂取は控え目が良いかなあと思ってホットカクテルにした。耐熱グラスを両手に持った陣平くんが、リップ音を立てて頬にキスを落とす。

「ふふふ、そんなやり取りがあったんだねえ。」

俺がポアロに行っている間、陣平くんが同期さんたちとしていたグループチャットでのやり取りを教えてもらった。

「それで、心配してくれたんだ?」
「……そりゃ、するだろ。」
「そっかあー。」

キッチンから、リビングのソファに移動して。肩を寄せ合うように座る。ふふふ、と笑う俺に陣平くんが大きな体で寄り掛かってきて。手に持ったグラスに息を掛けて冷ましながら、口元に寄せられた。そっとグラスに口付けるとゆっくり傾けられて。流れ込んできた飴色のカクテルをコクリ、と飲み込む。鼻から抜けて行く紅茶の香りがとっても良い。ありがとう、と見上げると。少しだけ唇を尖らせた陣平くんは視線を合わせながら、ホットカクテルを飲んでいる。

「確かに俺もね、気になってはいたんだけど。」

別に何かをされるわけでもなければ、四六時中気になるというわけでもない。見覚えもないし、学年も学部も分からない子だからどうしようもない。

「決定打って言うと嫌な言い方になっちゃうけど、こう、判断しかねてて。」
でも、と一呼吸を置きながら手に持ったガトーショコラをフォークで切り分けて。少し控えめな一口サイズをフォークに乗せて、陣平くんが開ける口の中にそっと入れる。ガトーショコラを陣平くんに食べさせるまでが、毎年恒例のイベント。

「判断出来たら、ちゃんと陣平くんには相談しようと思ってたよ。」

いつも陣平くんに心配を掛けていることはちゃんと分かってる。この前も、一緒に買い物をしていた時に車に轢かれそうになってるお婆さんを見つけて、考えるよりも先に体が動いていた。結果的に、お婆さんも俺もなんともなかったんだけど。陣平くんがひたすらに心配したと言って抱き締めてくれるから、すごく反省してたんだ。ちゃんと気をつけないと。陣平くんに悲しい思いをして欲しくないし、可哀想なくらいに眉を下げていたのを見たらとっても苦しくなった。

「ごめんなさい。また心配掛けちゃった。」

見上げた先の陣平くんはもぐもぐ咀嚼して。ゴクリと音をたてながら、嚥下に合わせて喉仏が動く。手に持ったグラスは二つともセンターテーブルへと置いて。俺の頭をゆったりと撫でる大きな手の平が優しくて目を細める。

「その意識があるなら、それで良い。」
「はい、何か気になったことがあればその時にちゃんとお話します。」
「ん。」

するりと滑り落ちてきた固い指先が、頬を撫でていく。寄せられた唇は目元にくっついて、可愛いリップ音を立てた。ふ、と緩やかな笑みを浮かべる陣平くん。

「今年も旨い。」
「ふふ、良かった。」

甘いのが苦手な陣平くんでも食べられるように、たくさん試して見つけた黄金レシピ。でもさすがに毎年これだと飽きられちゃうかなあ。

「来年は違うのにしようかなあ。」
「なんで。」
「んー、だって毎年これだと飽きない?」
「これが良い。」
「本当ー?」

旭が俺のために試行錯誤したことを思い出せるから、これが良い。そんな言葉に、まごつく唇を少しだけ噛むけれど。緩む頬は堪えることが出来なくて。

「陣平くんは、こんなにも俺を喜ばせる天才なのにねえ。」
「ふ、そうなら良いけどな。」
「んんー、そうなの。」

陣平くんがすることはなんだって、どんなことだって嬉しい。

「まあ、心配は心配だけどな。旭だって俺を喜ばせる天才だぞ。」

甘やかに細まる綺麗な瞳を見つめる。頬はすっかり熱くなっていて、ゆるりと口角を上げた陣平くんが固い指先でするりと撫でていく。一口サイズに切り分けたガトーショコラをまたフォークに乗せて。差し出せば、口を開けた陣平くんが俺を見つめたままケーキを奪っていく。もごもごと口を動かしながらも、ずっと視線は合ったまま。徐に伸びてきた手が後頭部に添えられて、そのまま引き寄せられる。うわわ。突然のことに驚きながら、手に持ったガトーショコラを落とさないように支えつつ。片手を陣平くんの胸板に添えた。

「旭。」

なーに。応えようとした時には、少し首を傾けた陣平くんの顔が近付いていて。自然と瞼を下ろす。ゆっくりとくっついた唇の感触にうっとりとすれば。舌先で舐められたことに気付いて薄っすらと口を開ける。入り込んできたのは熱い舌と、ほろ苦い味。ぶわ、と一気に顔が熱を持ったことを感じて、添えていた手で陣平くんの胸元の服を握る。恥ずかしさでいっぱいいっぱいになっていると、持っていたはずのお皿は陣平くんに取られていた。いつの間にそうなっていたのか、ガトーショコラを乗せたお皿はテーブルの上に置かれている。

「っ、ん。」

舌と舌でぐずぐずになったガトーショコラを押し合っていれば、体ごと引き寄せられて。陣平くんの膝の上に乗せられて、向かい合ったまま体をもたれ掛ける。するりと首の後ろに両腕を回すと、腰に添えられた陣平くんの手に力が込もった。口内で触れ合う舌に早急さは無い。ゆったり、じっくり。弱火で炙られていくみたいに、もしくはトロ火で煮込まれるみたいに。じわじわと触れ合う熱が気持ち良い。大きな手が、俺の頭をゆったりと撫でていく。どこもかしこも陣平くんに甘やかされてしまっているから、俺はきっともうこの手がなければ生きていけない。どこにも行かないで。そう思いながら腕に力を込めて、とっくに無くなった距離をもっと埋めようとする。ちゅ、ちゅ、と響くリップ音と、流し込まれる唾液が水音を立てる。ぐずぐずのガトーショコラも一緒に嚥下すれば。コクリ、と鳴る俺の喉。陣平くんは変わらず、ゆっくりじっくりとろけさせるように俺の舌を撫で続ける。

「ふ、ぅ…。」

もう、どうやって呼吸をしているのか自分でも分からない。気持ち良くて、恥ずかしい。優しい触れ合いに、溶かされていく。じゅう、と舌根を甘く吸われてびくりと反応する体。腰に置かれた手にゆったりとした動作で撫でられた。ちゅ。最後にリップ音を響かせて唇が離れていく。はくはくと呼吸を繰り返しながら、閉じていた瞼を持ち上げて。底の見えない透き通った綺麗な瞳には、とろけきった俺の顔が映り込んでいる。恥ずかしい。でも、もうちょっとだけ欲しい。もっと先を覗いてみたいような、少しだけ怖いような。ゆるりと口角を上げる陣平くんにもたれ掛かりながら、ぐっと近付いて。

「陣平くん、もうちょっとだけ。」

息が掛かるほどの距離で、小さなおねだり。ちゅ、と薄い唇にキスをする。

「ちょっとで良いのか?」

うわあズルい。意地悪く口角を上げた陣平に唇を尖らせて。

「いっぱい、が良い。」

小さく呟くと満足そうに笑う顔。もう、と言う俺を宥めるように唇が触れ合う。

***

 ベッドに座った俺の膝の上に頭を乗せた陣平くんは、甘えるように擦り寄ってくる。ふわふわの髪の毛をゆっくり指と手の平で撫でていると、腰に回った腕にぎゅうと抱き締められた。俺のお腹に顔を埋めながら、ゆったりと呼吸を繰り返す様子を眺めて。後頭部を幾度も撫でやると、やがて向きを変えて俺を見上げる。

「旭。」
「んー?」

なーに、陣平くん。深い、底の見えない瞳はいつもの鋭さは少し隠れてしまっている。その代わりに、とろりと溶けたような甘やかな温度が宿っていて。いつもは俺をとろっとろに甘やかしてくれる陣平くんが、時々こうやって甘えてくれるのが嬉しい。どんな風にしてたって格好良いんだけど、へにゃりと笑う顔は可愛くて仕方ないんだよね。

「陣平くん。」

もっと、顔見せて。緩む目元を親指でそっと撫でてから、俺を見上げる陣平くんの頬を両手で包む。さらりと前髪を流しながら、額に唇を寄せて。そのまま瞼に、鼻先に、ちょっとずつ位置をずらす。少しだけカサついた頬を指先で撫でながら、唇をくっつけるだけの触れ合いを続ける。時折リップ音を鳴らして、とろりと目を細める陣平くんを眺めて微笑んだ。

「陣平くん、可愛いねえ。」

ちゅ、ちゅ、と何度も唇で触れることを繰り返すうちに、段々と撫でる頬が赤みを帯びてきて。陣平くんはいつだって温かいけれど。今はそうだなあ。熱い、かな。ふふ、と声を漏らすと唇を尖らせた陣平くんは不満気で。

「旭。」
「なーに?」

頭をゆっくりゆっくり撫でながら、また額に唇を落とす。力の抜けた瞳がじとりと俺を見るけれど。ふふふ、分かってるよ。でも、陣平くんをじっくり甘やかしたいんだもん。ね、お願い。そんな風に思いながら鼻先にまた一つちゅ、と音を立てた。はふ、と吐き出す陣平くんの息が熱い。溶け出しちゃうかも、なんて思うくらいゆるゆると滲む瞳の奥が揺らいでいる。いつも俺を甘やかしてくれる格好良い陣平くんが、こんな表情をするんだから堪らないよね。

「ねえ、陣平くん。」
「んー?」

同じシャンプーの香りがする前髪を撫でて。気持ち良さそうに目を細める陣平くんの顔を見下ろす。

「陣平くんがこんな風に甘えるのは、俺だけ?」

そんなことを言えば、パチリと透き通った瞳が開かれる。

「……当たり前だろ、他に居ると思ってんのか?」
「んーん。居て欲しくない」
「居ねーよ。」

そんな奴、他に居ない。少しだけ唇を噛んで、意識なんてしなくても体の熱がじわじわと上がっていく。固い指先に、唇をゆっくり撫でられる。噛んでいた力を緩めると、感触を確かめるみたいに親指でふにふにと押された。

「旭だけだ。」

俺には、旭が居ればそれで良い。そんなことを言われて、ゆるりと笑う陣平くんを見てしまったなら。困ったなあ。こんなの、我慢出来ない。好きで好きで、どうしたら良いのか分からないや。

「んんー、もうちょっと、撫でたかったけど。」

俺の名前を呼ぶ陣平くんの声が。どこまでも潜っていけそうなくらい透き通った瞳が。何もかもが、熱くて愛おしい。頬に両手を添えて、頭をほんの少し傾けながら。ゆっくりと陣平くんの唇に触れた。