ホワイトデー直後
大抵一緒に入るが、別々で風呂に入る時もある。今日はその時たまある別々に入る日で。大学時代から世話になっている教授から電話がきたと言う旭を待ってようかとも思ったが、先に入っててというジェスチャーを見て。丸い頭をひと撫でして、入ってくるなと小さく声を掛けたのだった。
男の一人風呂なんてのは案外短いもんで。風呂に入る時間が長いのは女の代名詞というやつだろう。まあ、長風呂が好きな旭に付き合って時々長めに入ることはあるから一概に言えない。少しずつ気温が上がってきて、ドライヤーを使えばせっかくさっぱりした体が汗ばむような季節になってきた。首に掛けたタオルでがしがしと髪を拭いていれば、まだ話し声が聞こえる。キッチンに入って冷蔵庫からビールを取り出した。
広めのオープンキッチンからはダイニングテーブルに座る旭が見えた。端末を耳に当てて、何やらメモを取っているらしい。大学院に入ったからといって決して暇になったという訳でもないのは旭の人徳が成せるものなのだろうか。自分には未知の世界であるから、知っているのは旭から説明された制度だけでその内側がどうなのかなんてことまでを理解することは出来ない。冷蔵庫に背を預けたまま、手にした缶のプルタブを開ける。傾けた勢いのままに喉を鳴らしてビールを飲み、ぷは、と息を吐き出して。
視線の先にはずっと旭が居る。ペンを走らせていた旭は、小さく息を吐き出すと手帳の脇にペンを置いた。そして利き手に端末を持ち替え、完全に聞く体勢になっていて。唇を尖らせる顔は可愛い。いつどんな時だってしているくせに、キスしてえと思った自分に苦笑する。まあ、こればかりは仕方ない。どれだけしたって足りないものは足りないのだから。
もう一度ビールを一口。喉を潤しながら、このまま電話が続くようなら茶でも持って行ってやるかと思った時だった。徐に左手を広げて、見下ろしている。傷一つない手の甲。何度か指を開き、握ることを繰り返した旭は握った拳を顔に近付けて。唇を落としたのは薬指の付け根。そこにあるのは、俺とサイズ違いのシルバーリング。思わず目を見開いて、そのまま冷蔵庫に沿ってずるずるとしゃがみ込んでしまった。背中に当たる凹凸が地味に痛えが、そんなことよりも。ゆるゆると持ち上がってしまう口角を手の平で覆う。ああ、全く。どうして旭はあんなにも可愛いんだ。何をしたってそうだ。可愛くて可愛くて仕方ない。そして、そのどんなことをとっても旭は俺を喜ばせる。きっと無自覚だろうに。無自覚だからこそたちが悪いとも思うし、どうしようもなく愛おしくも思ってしまう。
にやける顔を抑えようと意識したところで口角は勝手に上がるばかりだ。心臓痛えな。生まれた時から見てきたのに、こんな歳になっても旭の一挙一動に反応してしまう。好きだな、と思うことは数えきれないほどにあって。こうして痛みすら感じるほどの強い感情が沸き上がる度に、惚れた腫れたといった人間の想いは馬鹿に出来ないなと考えてしまうのだ。恋は人間を溺れさせ、愛はいつか人間を殺す。決して揶揄なんかではない。旭を想う度に。旭から愛を説かれる度に。俺はどうしようもないほどに身が焦がれるような気持ちを味わうし、簡単に心臓を鷲掴みにされたような気持ちになってしまう。俺を生かすも殺すも、旭の気持ち次第なのだとすら思う。それほどまでに想っている。大事で、愛おしくて。何を差し置いてでも失いたくない。そんな、かけがえのない存在。では旭はどうだろうか。旭は、俺をどんな風に想ってくれているのだろうか。同じであれば良い。それは願望であり、欲深さのようなものでもある。もっともっと、溺れてくれ。そんなことを考えていれば声が聞こえた。
「陣平くん?どうしたの?」
具合悪い?と声が降ってきた直後、眉を下げた旭が隣にしゃがみ込んでくる。
「いや、なんでもない」
「ほんと?嘘ついてない?」
「ああ」
伸びてきた手が頬に添えられて、するりと首筋まで滑っていく。柔らかな指先としっとりした手の平が肌を撫でていくのは何度されても気持ち良い。そのまま顔を寄せて、こつりと当てられる額。心配していると言わんばかりの表情に苦笑する。
「熱はないねえ」
「大丈夫だ」
「えー、じゃあなんでこんな所でしゃがんでるのー?」
キッチンの端。冷蔵庫に寄り掛かってしゃがむ俺の状況を訝しむ旭。ふ、と吐息だけで笑うと首を傾げるあどけない表情。空になったビールの缶を傍に置き、床に腰を下ろして。抱き寄せた細っこい体を胡座をかいた足の上に乗せると、簡単に収まってしまう。可愛い、と呟きながら小さな唇にキスをする。リップ音を鳴らして離れると、つんと尖らせた唇。指先で触れると、ぱくりと食われた。ちゅ、ちゅ、と弾ける音。熱い舌に撫でられたなら解放される。
「こらー、ちゃんと教えてください」
柔らかな頬を膨らませる顔があまりにも可愛くて笑ってしまった。なんで笑うの〜と不満の色をたっぷり滲ませた声が聞こえたなら、目元に唇を落として。
「さっき、指輪にキスしてただろ」
「え、………え!?」
「たまたま見てた」
「んん〜〜〜〜〜」
「旭があんまりにも可愛いことするから、しゃがみ込んじまった」
「んえ……………」
電気の点いていないカウンターキッチンに差し込むのは、リビングからの光。流し台に遮られて、やんわりとした影の中に居る俺たち。小さな両手で顔を覆ってしまった旭は呻き声をあげるばかりだ。照れていることは分かる。自然と持ち上がる口角をそのままに、細い手首を掴んで外させた。現れるのは、暗がりでも認識出来るほどに赤くなった顔。涙すら滲ませる大きな瞳が、俺を射抜いてくる。
「ったく、可愛すぎるのも考えもんだな」
とはいえ、そのまま俺を翻弄し続けて欲しいとも思う。俺を生かすか殺すかは、旭次第なのだ。小さな手と指を絡ませるようにして手を繋ぐ。恥ずかしい、と漏らす声を飲み込むようにして唇を寄せた。