飛行船に乗る従兄弟と松田陣平の話
「お願い旭!」
両手を顔の前でぱちんと合わせたマナちゃんは、埋め合わせは必ずするからと言った。別に気にしなくて良いし、そもそも今日がそれなんじゃないの?と首を傾げるのに。今日は私が旭にご飯を食べさせたかっただけだからカウントしないのと言われて。マナちゃんは俺のことを小さくて可愛い従姉妹の女の子と勘違いしてるんじゃないかと思う時がある。忙しいはずなのに『旭が足りない』なんてメッセージを送ってきたかと思うと、にっこり笑って丸一日空けてくるんだ。俺としてはマナちゃんと会えるのは嬉しいし、遊んで貰えるのも楽しいから良いんだけど。本当に大丈夫なの?と聞けば真顔のまま何も問題ないとか言ってくるからちょっとだけ心配。でもまあ、高校からの友人である彼女が俺で癒されていると言うのだから、それはそれで良いのかなと思うことにしている。
「マナちゃんのお願いなら、お礼なんか無くたってお手伝いするのに」
「それじゃ私の気が済まないのよ」
「もうー、マナちゃんは変な所で頑固なんだから」
「私は旭と歩美のために働いてるからね」
「歩美ちゃんは分かるけど、俺もなの?」
「当たり前でしょ」
「うーん?まあとにかく、その日は何もないし付き添いは俺が行くよ」
端末に保存しているカレンダーを確認してから頷くと、泣きそうな顔でありがとうと言われる。大袈裟なんだから。しかも今回のお願いはマナちゃんだけじゃなく、マナちゃんの従姉妹である歩美ちゃんのお母さんからの要望でもあるらしい。家庭教師みたいなことを続けているとはいえ、なんだかんだ良くして貰っているから。少しでもお役に立てるなら俺も嬉しい。何度もお礼を言ってくるマナちゃんには、俺たちの仲でしょと笑っておく。俺だってマナちゃんに助けて貰うことは数え切れないくらいあるんだから、おチビさん達の付き添いくらいお安い御用だ。
歩美ちゃんと仲良しないつものメンバーは、なんと飛行船に乗る旅に招待されているらしい。マナちゃんは歩美の交友関係って本当に良く分からないんだけど、と前に言っていたけど聞けば聞くほどに納得してしまう。招待してくれたのはかの有名な鈴木財閥のご令嬢。なんでも、歩美ちゃんと仲良しのコナンくんの伝手で招待を受けたそうだ。そしてその後になってそのご令嬢が通う高校の教師になったマナちゃんは、彼女の教科担当をしているらしい。世間って狭いんだねえ。向かい合って座る俺たちの前にはランチプレート。今日はお昼ご飯のタイミングで待ち合わせて、この後はお洋服を見に行ったりとまったり過ごす予定。イタリアンドレッシングが程よく掛かった水菜のサラダをシャクシャクと音を立てながら食べていると、マナちゃんは溜息をつく。
「偶然だとは思うんだけど、歩美の口からコナンくんが登場するようになってからなのよね」
「そうなの?」
「うん。方向性は違うけど、旭と同じような何かを感じるのよ」
「コナンくんと俺…?気のせいじゃない?」
「そうなら良いけどね」
デミグラスソースが掛かった小さいハンバーグを一口サイズに切り分けてから食べる。舌の上に置いた瞬間、トマトの酸味が良く効いた甘いソースとじゅわりと染み出す温かい肉汁が混ざり合って。うーん美味しい。無意識のうちに目を細めていれば、そんな俺を見るマナちゃんは優しい顔で笑っていた。
マナちゃんの話はこう。飛行船へ乗るお誘いを受けたのは歩美ちゃんと仲良しのいつものメンバーで。そしてこれまたいつも通りにおチビさんたちを引率してくれている阿笠さんという方も一緒に行くみたい。そういったことがあると必ず阿笠さんから連絡が入るそうなんだけど、歩美ちゃん、元太くん、光彦くんの親御さんがたまには引率を手伝わないといけないのではという話になったらしい。とはいえ、親が居ないからこそ楽しめることもあるからと悩んだ親御さんたちは、マナちゃんに引率の手伝いを依頼したみたいなんだけど。一度引き受けたものの帝丹高校の職員中に風邪が大流行しているらしく、顧問ではない部活の子たちを大会へ引率するお仕事から逃れられなくなったのだとか。そんなに風邪が流行ってるんだ?先生たちもお疲れなんじゃないかなあ。それにしたって流行りすぎよ、と肩を竦めるマナちゃん。さすがに先方も先方だからとドタキャンをする訳にもいかないということで、急遽代役を立てることに。そしてマナちゃんを含めた親御さんたちで考えた結果、俺に白羽の矢が立ったというわけ。俺は歩美ちゃんのお家には良く顔を出しているから、ありがたいことに歩美ちゃんのお母さんからの信頼が厚いらしい。マナちゃんと長い付き合いだということもあって、元太くんと光彦くんの親御さんもそれならぜひ俺にとのこと。特別なことなんて何もしてないけど、そんな風に言って貰えるならやっぱり嬉しい。幸いその日は陣平くんもお仕事だし、特に何も予定はなかった。
「相変わらず従兄弟のシフトは暗記してるの?」
「え?うん」
「そう」
グロスが乗った唇を尖らせるマナちゃんは、面白くなさそうな顔でフォークに巻いたパスタを口に入れた。これは陣平くんもなんだけど、なんか妙に張り合おうとするんだよねえ。喧嘩するほど仲が良いってことかな?と思うけど。そんなことを言ったら二人に怒られるような気がするから何も言わない。
「マナちゃんがバイトしてた頃のシフトも教えて貰ってた限りは覚えてたよ?」
「え、嘘。知らなかった。好き」
「あれ、言ってなかった?」
「聞いてない。でも良いわ。今こうして聞けたから」
満足気ににっこり笑うマナちゃんは美人さんだ。ほんと陣平くんとマナちゃんはそっくりなのに、絶対仲良しにはなれないんだろうなあ。どんな時だって俺を真ん中に置いて睨み合ってるんだから。
***
「俺も行く」
え!?と声を上げてしまったのは仕方ない。その日のうちに陣平くんへ予定を話すと、まさかの答えが返ってきて驚いてしまった。
「ダメだよ、陣平くんはその日お仕事でしょ?」
「そーだけど。旭を飛行船に乗せるのが不安すぎて行かせたくねえ」
「ええ…?なんで?」
「そんな密室で何かあったらどうすんだ」
「そんなこと言ったら電車とかバスにだって乗れなくなっちゃうよ?」
「そもそも、そのイベントの趣旨は怪盗キッドとの対決なんだろ?」
「うっ、…そう聞いた」
「ダメだ。俺が居ない所で旭に何かあったらと思うと堪えられねえ」
「うう……陣平くん〜お願い〜」
何も反論出来なくなった俺は、陣平くんの部屋着の裾を摘んで小さく引っ張る。でもせっかくの機会だし、飛行船に乗ってみたいんだもん。ねえねえと裾を掴んでいた手は、するりと絡め取られてしまう。
「ねえ陣平くん、お願い」
「ダメだ」
「んん、乗ってみたいの」
「それなら俺も行く」
「でも、急にお休み取ったら迷惑になっちゃう」
「旭」
絡め取った俺の手を持ち上げる陣平くんは、視線をこっちに向けたまま甲に唇を押し当てる。ソファに肩を並べて座っていたけど、引き寄せられて膝の上に降ろされた。膝を跨ぐような格好で向かい合って座り、厚い胸元に添えた片手で自分の体を支える。伸びてきた大きな手が頬に添えられると、擦り寄るように自分の顔を押し付けて。
「旭」
「はあい」
絡み合わせた視線の先には、優しい色を浮かべる鋭い瞳。綺麗で力強くて、大好きな陣平くんの目には俺が映っている。今、自分がどんな顔をしてるのかは分かってる。唇を尖らせて、子供みたいに拗ねた顔をしてるんだろう。陣平くんの透き通った瞳に映る自分の顔を見たくなくて。目線を伏せると、優しい声色にまた名前を呼ばれた。
「陣平くん、お願い」
もう一回、おねだり。だってきっとこんな機会はそうないと思う。飛行船、俺も乗ってみたい。ついと目線を上げると、腰に回された腕にぐいっと引き寄せられる。ただでさえくっついてるのに、もっと近くなった。直ぐ近くにある陣平くんの顔を見上げると、大きな溜息。少し伸びていた髪を耳の後ろに掛けられたかと思うと、唇がくっつく。咄嗟のことに目を閉じたら、感触を確かめるようにふにふにと合わせられて。ちゅ、と一回。ほんの少し離れてもう一回。するりと後頭部を撫でられてから、大きな手の平に包まれる。あ、と思うのは。ほんの少しだけ顔の角度が変わったこと。ちゅ、ちゅ、と立て続けにくっつく唇を受け入れているとドキドキする音が聞こえちゃわないか心配になってくる。胸元に添えていただけの手は無意識のうちに力が入っていて。陣平くんの部屋着をぎゅう、と握る。腰に回された腕と、後頭部を包む手の平に力が入れられた。ドキドキして、苦しい。何回だってキスをすることなんてあるのに、何度したってドキドキと鳴る心臓の音が煩い。恥ずかしい。もっと引き寄せられて、ぴったりくっついた体が熱い。力を入れ過ぎた手の感覚がない。というか、いっぱいキスをされてふわふわしてくる。閉じた瞼をもっと強く瞑って与えられる熱を受け止めていると、なんだか心がズキズキと痛むようで。恥ずかしい。でも、嬉しい。大好き、陣平くん。
何度も聞こえていたリップ音がなくなると、そのまま顔をぽすりと埋める。早くなった呼吸を整えようとするのに、気持ちが溢れすぎて厚い胸板にぐりぐりと顔を押し付けてしまった。背中を支えられて、後頭部をゆったり撫でられる。ぎゅうぎゅう抱き締めてくれる陣平くんは、俺の髪に口元を埋めているみたい。
「旭」
「ん、」
名前を呼んでくれる声に応えたいのに、まだズキズキするような気持ちがおさまってくれなくて。甘えるように擦り寄ることをやめられない。キスをされただけでとろとろに溶け切った気持ちが、なかなか固まってくれない。溶けて形を無くしたアイスみたいにぐずぐずになってる。陣平くんは優しい声でもう一度俺の名前を呼んだ。大事にされている。そんなこと今言われた訳じゃないのに、大事にされてるって思う。苦しい。嬉しくて、ドキドキして、大好きが溢れて。どうしようもなく苦しい。
「旭」
「、はい」
ふにゃふにゃな返事をする俺に、陣平くんは喉奥を鳴らして笑う。恥ずかしい。俺がこんな風になってること、陣平くんは分かってるんだ。恥ずかしい。それを誤魔化したくて埋めた顔をぐりぐりと押し付ける。顔を上げられない俺は、堪えるような陣平くんの笑い声を聞くことしか出来なくて。
「何かあったら必ず連絡すること」
突然の声にぐりぐりしていた頭の動きを止める。
「危ねえと思ったら周りに頼ること」
「ん?」
「怪我はすんな」
「、うん」
がばっと勢い良く顔を上げると、優しい色を浮かべた瞳と視線が絡む。するりと頬を撫でる手の平が温かくて目を細めてしまった。
「今言ったこと、約束できるな?」
「はい、します」
今度はちゃんとはっきりした声で返事をする。大きく頷けば、陣平くんは長い溜息を吐き出して抱き締めて来た。
「陣平くん?」
ぎゅうっと抱き締められて、俺の肩に顎を乗せて。なんだかがっくり項垂れるような陣平くんの背中に腕を回すと耳元で聞こえる唸るような声。
「行かせたくねえ」
「そんなに?」
「当たり前だろ」
「心配しすぎだよお」
「幾ら心配しても足りねえ」
心配し過ぎじゃないかなあ。くすくす笑えば笑うほど、ぎゅうぎゅう抱き締めてくる腕の力が強くなる。苦しい、でも嬉しい。
「陣平くん」
「ん?」
「大好き」
「ん、俺も好きだ」
「ふふふ、大好き」
顔がふにゃふにゃしてる。こてりと顔を寄せて来た陣平くんの頬に擦り寄ると、もっとふにゃふにゃになった気がした。