松田陣平

「旭」
「え?陣平くん…?」
「やっと見つけた」

大きな瞳を瞬かせる旭は首を傾げる。

「あれ?夢…??」

そんな声に思わず笑いながら、後ろ手でドアを閉めた。歩み寄ると、旭は床に座り込んだままひたすらに俺を見上げてきて。音でもしそうなほどに何度も瞬く。まさか俺が来るなんて思っても見なかったんだろう。子供のようにあどけない顔のまま本当に?だの本物の陣平くん?だの繰り返している。

「夢じゃねえよ」

目線を合わせるようにしゃがみ込めば、きょとりと惚けている表情に目を細める。ほら、と手の平で頬を撫でてやるとようやく信じられたのかぎゅっと目を閉じて擦り寄ってきた。ざっと目線を走らせたが、特に何か怪我をしてそうには見えねえ。一先ずは安堵するものの服の下がどうなってるかまで見ないことには安心は出来ねえと思った。招いた客それぞれに与えられる個室が並んだフロアの隅。通路の奥の部屋に居たことで随分と時間は掛かっちまったが、とにかく見つけられて良かった。柔い頬を撫でて自分で此処に来たのか?と聞けば、目が覚めたら此処に居たと言うから思わず目を細める。コナンは旭が細菌に感染してるかもと言ったがそれは犯人にまで伝わってねえって可能性もあるのか。症状として挙げられる発疹も見当たらねえし、潜伏期間はあるだろうが感染はしてないんじゃ…なんて淡い期待をする。それならそれで良いし、とはいえこればかりは素人の判断ではなんとも言えねえわけで。

「あ、のね…陣平くん」
「ん?どうした?」

視線を彷徨わせる旭は今にも泣きそうな表情で俺を見上げる。もう心配することなんて何もねえのに。大丈夫だと安心させてやりたくて壁の手摺りにロープで括りつけられていた腕を解いていれば、ふるふると頭を振ってぴんと伸びてきた細い腕に押し返された。大した力は入ってない。すぐに逸らされた視線は下の方に落ちてしまっている。言葉のない拒絶の意味が分からないほど馬鹿じゃねえが、それを聞いてやれるほど物分かり良いわけでもないから。俺が旭を守ってやると決めたのはもう随分と前だ。何も心配することなどないし、俺を守ろうとする旭ごと抱き締めてやりたいと思ってしまう。馬鹿だな、なんてあまりのいじらしさに息を吐きながら小さな手と指を絡めるように繋いだ。

「…っ、ダメなの……」
「何が?」
「ダメなの、陣平くん、離れて」
「なんで?」
「俺は、もう陣平くんの近くに居られないの」
「そんなの許さねえ」
「……っ!?じん、…!」

押し返そうとする手を逆に引き寄せて細い腰に腕を回す。俺の名前を呼ぶ暇すらないくらい早急に小さな口を塞いでやった。頑なに閉じている唇の隙間を舌でこじ開けると、声になっていない音が鼻腔を抜けていく。熱を孕んだ口の中に入り込んで舐るように撫でながら探し当てた舌の先の感触に目を細めた。言葉だろうが身振りだろうが、俺を拒否するものはなんだって嫌だなと思っちまう。例えそれが俺を想うが故の行動だったとしてもだ。旭なりの優しさとか気遣いであることは十分分かってるものの、俺はそれを良く思っていないことを旭に分らせてやる必要がある。そうじゃねえと旭は簡単に覚悟を決めてどこかへ行こうとすることも良く分かっていた。行かせねえよ。どこにも行かせない。俺の居ない世界になんて行かせるか。

「ん、…っ……んん…!」
「はあ、……旭…」

逃げようとする舌を掴まえて、押し返そうとする手を丸め込んで。怪我をしてるかもしれねえっていう背中が当たらねえように腕を差し込みながら壁に押しつける。なんだかんだ言って俺とキスするのが好きだからこれで抵抗も収まってくれたらという気持ち半分、出勤してから消耗するばかりの充電目的半分。いや、俺がしたいからしてるのが九割。小さな口の中をぐるりと舌で撫でていくと、温度と柔らかさに浮かされて無意識のうちにもっと強く壁に押しつけてしまった。掴まえた舌先を吸って、互いの唾液を混ぜ合いながら顔の角度を変えつつキスをする。大きな瞳に沢山の涙を溜めて俺を睨むようにする旭と視線が合えば目を細めてしまった。分かってはいるんだ。旭が頑固なことくらい。機嫌を損ねたくてやってるわけじゃねえ。俺がどれだけ心配したのかとか、どんな気持ちで此処まで来たのかとか。そんなことを言葉にしようもんならきっと泣かせてしまうと思ったから、多少手荒でもキスで伝われば良いと思ったのに。いや、そうだな。まあ、俺の胸の内にある色んな感情を旭とキスすることで宥めたかったんだろう。時々どうしようもないほどに暴力的な感情が顔を覗かせることがある。自分だけの旭を、文字通り俺しか見えないようにしてやりたいなどと思ってしまうことがあって。どこかに行きたいなどと言わないように、俺だけの傍に居ることが世界だと思って欲しいだとか、そんなことを何となしに考えてしまうから。そうじゃねえだろと何度だって自分を戒めるが、渇いていくような何かを無視出来なくなっていく。酷いことをしたいわけでも、痛めつけたいわけでもない。旭が俺だけに特別な愛情を注いでくれていることは分かっているのに。足りない。もっと欲しい。俺と二人だけの世界で良いだろ?なんて思う自分の感情に完全な封が出来ないでいる。ずっとこうだ。ずっと、旭は俺のものなのにどれだけ何をしようとも足りない。これはきっと旭が俺の知らない所でこんな風に命の危険に遭遇し続ける限りずっと続くんだろう。痛えな。心臓の辺りが鋭い痛みを感じる。突き刺すような、抉り取られるような、そんな痛みがずっと俺の中にある。それを誤魔化したくて、見えないようにしたくて旭に触れることだってないわけじゃない。どこにも行くな。俺の知らない所に行くな。俺を置いてどこかに行こうとするな。そんなことを思いながら、指を絡めて繋いでいた手を背中に回させて優しく頭を撫でてやる。どんなに拒否されようが精々可愛い抵抗だと思うくらいだ。例え旭が俺を嫌いだと言っても、絶対に手離してなんかやれないだろう。もう、とっくの昔にそんな風になっちまってるんだ。死ぬかもしれねえ細菌に感染した旭を一人でそのままに出来るわけねーだろ。どれだけ睨まれても、どれだけ拒絶されても。一人になんかしねえ。ずっと一緒だ。どちらのかすらも分からないたっぷりの唾液を絡ませながら舌を擦り合う。細い喉がこくりと音を立てるのを聞いて、今度は俺が喉を鳴らして奪った唾液を飲み込む。そこから息継ぎさせる暇すら与えずにまた唇を擦り合わせてキスを続ければ、やがて力の抜けた手が縋るように背中の服を掴んでくる。もっと顔を傾けて小さな唇に齧りつくと、さっきまでの強い眼光はなくなっていた。ふにゃふにゃに蕩けた瞳は瞬きを繰り返し目尻から涙が溢れていく。あーあ、泣かせちまった。泣かせた理由はひたすらに感情を押し殺したこともあって随分とマシになったはずだが、壁に押しつけていた震える細い体を宥めるように抱き寄せて背中をさする。胡坐をかいた足の上に抱き上げてやれば、額を胸元に押しつけるようにしてきた。

「……なんで、……陣平くん……」
「もう一人でどっかに行かせねえぞ」
「ばか、ばか……」
「なんとでも言え」
「俺……俺ね……」
「良い。言うな」
「……っ、……なんで……」
「分かってる。分かっててキスした」
「なんで……なんでなの……?」
「当たり前だろ。俺の居ない所に行くな」
「……うう〜〜陣平くん〜〜」
「ん、ずっと一緒だ」

隙間なく抱き締めてやれば、背中に回った両腕が応えるように力を込めてくる。首筋に顔を埋めた旭は鼻を啜りながら声を殺して泣いていた。よく頑張ったな。何度も繰り返し頭を撫でて言い聞かせるように褒めると、ぐずぐずと泣きながら頷いている。これまでにもなかったことじゃねえし、仕方のない状況だったとはいえ銃を持った相手の前に立つのは怖かっただろう。どんなに知識があっても、旭は警察になったわけじゃない。そうなることを拒んだのは俺だが、こんな機会を極力無くすためにしたことが裏目に出るようじゃ困る。とはいえ自由を奪いたいわけでもないからこそ、旭の万年不幸体質とは今まで通り上手く付き合っていくしかないんだろうな。まあ、それも俺たちが無事にこれからの人生を歩いていければの話だけど。甘えるように擦り寄ってくる旭の存在をもっと感じたくて、強く抱き締めながら目を閉じる。これからどんな風になったとしても旭が居ればそれで良い。どんなことよりも旭が居ないことの方が辛い。旭の最初から見てきたんだ。それなら、最後も一緒に居るのが道理ってもんだろう。そんな風に思ってるから、俺は迷いなくキスをした。俺が知らないところで傷つくのが堪えられねえ。傍に居る時なら何がなんでも守ってやるのに。徐に目を開けながら細い背中を下から上に向かって指先でなぞると、びくりと揺れる。痛いのか?と聞けば少しだけと小さな声が返ってきた。

「床に叩きつけられたって?」
「……なんで知ってるの?」
「コナンって坊主から聞いた」
「え、コナンくん!?」

音でもしそうなほど勢い良く顔を上げた旭は本当に!?と目を見開いている。俺の服では拭きれなかった涙が長い睫毛を濡らしているのを見て親指の腹でそっと拭った。やっと泣き止んだな、と目を細めつつわざとリップ音を鳴らしながらキスすると白い頬が赤くなるから可愛いなと思う。じとりとした視線を向けられたら、ようやくいつも通りだ。

「あいつと一緒に入り込んだんだ」
「えっ!?どうやって…?」
「あー、まあ」
「また危ないことしたの!?」
「仕方ねーだろ。そうでもしねえと入り込めなかったんだ」
「んん〜〜、……うん、そうなんだよねえ……」
「こうして会えたから今日は結果オーライっつーことにしてくれ」
「んん〜〜〜」

ああ、せっかく泣き止んだってのに。小さな唇をつんと尖らせる旭は大きな瞳に涙を浮かべた。耳にタコができるかと思うほど言い渡されている危ないこと禁止令は、純粋な心配であることを理解している。とはいえ、俺なんかよりもよっぽど危ねーことに巻き込まれやすい旭を助けるためには多少の無茶も必要になってくるわけで。どんな風になっても俺が躊躇いも見せずに旭を助けようとするせいで、回り回って自分の万年不幸体質を呪うのがお決まりのパターンだ。そりゃあ変なことに巻き込まれないことが一番だが、好きでそうなってるわけじゃねーんだからここまでくれば仕方ないことだと割り切るしかない。決して自分を責めて欲しいわけじゃねえし、そもそも旭のせいって訳でもないだろ。そんな風に言って聞かせるが、心境は複雑なんだろう。悩ましい限りだ。泣かなくて良い。旭はよくやったし、俺がいてもたってもいられなくなって追い掛けてきただけだ。旭のことになると大概必死になるから、どんな手段を使ってでも傍に居ようとするってだけで。誰も悪くない。旭のその体質は誰かにとっては救いにもなっていることを知っている。ただ、旭が無事ならそれで良いし、旭もまた俺の無事だけを願っていることも分かってる。悩ましいな。文字通りに互いだけを見ていられたらもっと簡単なのかもしれねえ。首に回された腕に強い力が込められて、首元に埋めてきた額をグズグズと擦りつけてくる。泣かなくて良い。こうして会えたから、それで。

「旭」
「……うん、」
「俺は怪我一つしてねえだろ」
「うん、」
「俺よりも旭だ」
「……う、……はい」
「言いたいことは色々あるけどまあいい」
「……怒ってる、よね?」
「そりゃあな」
「……うん」
「旭が俺を心配するように、俺も旭が心配なんだ」

分かるな?と言えば素直に頷かれる。だからってわけじゃねえが、今回は何も言わないことにした。ただただ、無事で良かったと息を吐き出して互いの体を強く抱き締める。会うまでは気が気じゃなかったが、会ったら会ったで早く連れて帰りてえなと思ってしまう。いっそ佐藤と高木に連絡して迎えに来てもらうかとは思うが、高木はともかく佐藤が二つ返事で来てくれるとは思えねえ。それに、どうせ旭もそれはダメだとかなんとか怒るんだろう。背中をさすりながら泣き止むのを待っていれば、やがて顔を上げる。ぐずぐずと鼻を啜り、小さな声で泣いてごめんねなんて言ってくるから赤くなった目元に唇を寄せつつ頭を撫でた。

「聞いて欲しくなさそうだったから詳しくは聞いてねーけど」

コナンもキッドも見た感じは怪我もなさそうだったし、元気に戻ってきてるぞ。きっと気にしているであろうことを教えてやると、ほっとしたような表情を浮かべて大きな瞳が細くなる。

「そっかあ、良かった。二人とも無事だったんだね」
「ああ」
「きっと他の皆も心配してるだろうから早く教えてあげたいけど…」
「まあ、そんくらい自分でやるだろ。それはそうと、キッドはさておきあの坊主は一体なんなんだ?」
「さあ…?俺にも良く分からないんだよねえ」
「妙な感じはあるんだけどな」
「なんだろうねえ、とっても不思議だけど良い子だよ」

くすくすと声を漏らしながら小さく笑う旭が穏やかな声色で俺を呼ぶ。

「ん?」
「助けに来てくれてありがとう」
「気にすんな」

額を合わせて、どちらからともなくもう一回キスをする。ほんの一瞬触れ合うだけだったが、目を開けた視界の先ではこれ以上ないってくらい嬉しそうに笑う旭が居た。どんなに大変なことがあったとしても、この表情一つで色んなことが吹っ飛んじまう。可愛いな、ほんと。ずっと隣でこんな風に笑いながら生きていて欲しい。添えた手の平で淡く色づいた頬を撫でると甘えるように擦り寄ってくるのが堪らねえと思った。まあ今回のことに関しては何も言わないと決めたが、言いたいのはそれだけじゃねえから口を開くことにする。

「言っとくけど、しばらく何処にも行かせねえからな」
「え、え〜……」
「当たり前だろ。旭が無事じゃねえとろくに仕事も出来ねえからな」
「うう……嬉しいけど複雑〜〜。じゃあ、陣平くんとお出掛けは?」
「それは許す」
「やったあ!」

機嫌を伺うように俺の顔を見上げていた旭は、次の瞬間にはにこにこと嬉しそうだ。それで良いのか?と思いながらもすっかり元気そうになったから良いことにする。どんなことよりも俺と何かするって決めた時が一番嬉しそうにするから可愛くて仕方ないなと思ってしまう。もしかすると細菌に感染してるかもしれねえなんてことは、互いに微塵も口にしない。最悪のことを気にして嘆いたってどうにもならねえと思っているから。甘やかに目を細めて笑う旭を強く抱き締めながら早く帰るぞと囁けば、素直な返事が聞こえた。さて、この後はどうするか。痛むという背中が気になるから救護室か何かがあればそこに、と言った俺に旭は首を振る。

「何か当たったりすればちょっと痛いなって思うくらいだから、大したことないよ」
「じゃあ見せろ」
「あ〜〜、えっと、それなら先に宝石だけ確認しておこうよお」
「あ?」
「だって陣平くん、お仕事って言って来てるんでしょう?」
「……そーだけど」
「犯人の目的探しは早くした方が報告出来ることも増えるじゃない?」

そうしたら警視庁も動きやすくなって早く助けに来てもらえるかもしれないよ?その方が良いと思うんだけど、どうかなあ。なんていう風に首を傾げられたらそれもそうかと息を吐いてしまった。

「分かった。ただ、とりあえず宝石だけ確認したら救護室に行くからな」
「はい、分かりました」
「宝石の場所は俺たちが行けるとこにあんのか?」
「うん、屋上庭園にあるよ」
「そんじゃまずはお宝の無事だけ確認しに行くか」
「はーい!」

抱き上げたままの状態で立ち上がろうとすれば、自分で立てるもん!と頬を目一杯膨らませてぽこぽこ叩かれる。別に痛くも痒くもねえがはいはいと笑って手を差し出した。重ねられた小さな手を引きながら一緒に立ち上がって。今まさに向かおうとしているその場所でまさか大人と子供がドンパチしてるなんて思いもせずに、俺たちはその部屋を後にした。


***


ひでえ音だ。屋上庭園で宝石の無事を確認した後、誰かの気配を感じて物陰に身を隠していた。それまでにも銃声はしていたが、一際大きく聞こえるライフルの音を聞いた瞬間に息を飲んだ旭を抱き寄せる。音がするのはさっき潜ってきた扉の方。状況を伺えない以上、耳で探るしかないが音の出所はある地点で留まっている。見えない先でやり合ってるのは武装集団と恐らく子供。参ったな。念の為にと防弾チョッキを着込んできたもののさすがにヘリに乗るってのにいつもの装備をしてくるわけにもいかねえし、あくまでも爆処として行くからと銃対仕様にはさせてもらえなかった。色々と規律が厳しいから止むを得ないとはいえ、武装集団がハイジャックしてる飛行船の中に潜入するんだから銃の携帯許可が下りても良かっただろとは思ってしまう。こんな時はいつだってあるが、何度だって頭を悩ませてしまうもんで。目の前で起こっている一般市民の危機を認識しつつも、腕の中には震える旭が居る。警察官としての俺とただの松田陣平である俺。こんな状況下で、俺は一体どちらの自分を優先させるべきなんだろう。いや、気分的にはどっちを優先させても良いのか考えてると言うべきか。俺の最優先は誰がなんと言おうと旭だし、もう随分と前に一般市民よりも旭を優先させた時から吹っ切れてしまったのも事実だ。誰かを助けるにしても状況からタイミングを判断するのがセオリーだろう。後先考えずに飛び出して行ったところでむしろ状況が悪くなることだってある。だから、今の俺に出来ることは旭が怪我をしねえように守ることだけだと考えて息を吐いた。小さく震える旭を抱き締めながら扉からちょうど死角になる位置の壁に寄せる。固く目を閉じて俺の服を握る小せえ手に自分の手を重ね、宥めるために大丈夫だと囁いて。こくこくと頷きながら眉根を寄せる顔を見下ろし、女の格好をしている旭を走らせるわけにもいかねえしましてや銃を持ってる人間の前に出すなんてもっての外だと考える。ぎゅうぎゅうに抱き着いてくる旭の丸い頭に口元を埋めながら頭を必死に働かせていた時、子供の声が聞こえたかと思えばそれまで響いていた音が不意に止んだ。それから、何かが落ちるような鈍い音。それからはひたすらな無音だけが続くばかりで辺りは静まり返っている。ライフルを使っていたということはそこに二つの勢力が居るはず。そしてそれが止んだということは、犯人側の方が折れたということだろう。だが、それを出来るだけの人間が人質側に居るかと言われたらなんとも言えねえ。と、そこまで考えて頭を過ぎった顔に思わず苦笑してしまった。そういや、なんだかんだとやっちまいそうな奴が居たな。いつまでも此処でこうしてても仕方ねえし、とりあえず様子を見るか。

「旭」
「……ん…」
「俺が見てくるから、少し隠れとけ」
「…やだあ……」
「いい子だから」
「だめなの、だめだもん」

一緒に行くと言って聞かない旭の大きな瞳と視線を合わせれば、これは何を言っても聞かないパターンだなと思ってしまった。不本意ではあるが縋るように俺の服を掴んで離さない旭を置いていくことも出来ない。ちゃんと立てるか?とか危ねえと思ったら俺を置いて逃げろとか、そんなことを小声で言って聞かせてもその全てに同意するわけじゃねえけど。

「一緒に行くからには怖がらないよ。でも、陣平くんのことは絶対に置いていかない」

だって、何があっても一緒でしょ?なんて言いながらあんまりにも綺麗に笑うから一瞬息を飲んでしまった。さっきまでとは全く違う表情に目が離せなくなる。今までも目を離したことなんてなかったが、歳を重ねる度にまた違った意味ではっとすることが幾度となくあって。こんな状況なのに好きだなと思ってしまうから自分でも笑ってしまった。

「そうだな、ずっと一緒だ」

うん、と素直に頷く旭の頬を指先で撫でる。俺が状況を見て合図を出すから無理なくついて来るよう言って聞かせるのに。扉の方を伺ってみれば、最初に視界に入ったのがやたらと目立つ白の怪盗。それから、小さな坊主。地面に倒れている男の傍に立ち端末を操作しているようだった。やっぱり。もしかしたらと思っていたが、本当にその光景があったとしても頭が混乱する。他に犯人側のメンバーが隠れてねえか辺りを見渡しながら、ハンドサインだけで旭に進むことを指示した。

「ねえ、誰と電話してたの?それもこんなにたくさん」

そんな声が聞こえるくらいの距離まで近づくと顔を背ける男の顔まで見えるようになる。そろそろ良いか、と徐に立ち上がり倣うように腰を上げる旭には此処で留まるよう言った。

「坊主、お前ほんと何者だ?」
「松田さん!」
「よお。こいつが主犯格ならお手柄だな」

変わらずに辺りを見渡しながら近づき、小さな坊主には少し離れるよう伝えて。首を傾げる様子を見て、とにかくキッドの方に寄れと視線を向けた。何かしらの仕返しを受けたんだろう体格の良い武装した男は、体が痛むのか顔をしかめている。抵抗する気すらないらしく、取り出した手錠ですんなりと拘束されてくれたことで少し肩の力も抜けた。旭さんと会えたんだね、なんて声が聞こえた方を向くと妙に慌て始めたキッドと目が合う。別に今は捕まえねーよと肩を竦めるとあからさまにほっとした顔を見て、こいつらほんと似てるよなと坊主二人の表情を交互に見てしまった。徐に旭の方へと視線を向けたコナンがあの時はありがとうと口にする。

「ううん、キッドが居なかったらと思うと本当にぞっとする。コナンくんが無事で良かったよ」
「あはは…まあね。でも、旭さんも痛かったでしょう?ごめんね」
「いいの。大丈夫だから気にしないで」

目を細めて笑う旭は、俺の方へと視線を移した。

「陣平くん〜、早く二人から離れて〜」
「ああ、そうだな」
「どういうこと?」
「大したことじゃねえから気にすんな」

首を傾げる二人に少しだけ笑って、邪魔して悪かったなと片手を上げながら旭の隣まで戻る。後で絶対聞くからなとでも言うような視線を無視すると坊主は男へと端末の画面を見せながら歩み寄った。

「この電話の相手、おじさんは言うつもりがないってことで良い?」

先ほどと同じように顔を背ける男の前で、目を細めながら何かを取り出す様子を見ていると。

「素直に白状しないと、これの中身を掛けちゃうよ」

蛍光色の液体が揺れるアンプルを見て、隣に並んだ旭が息を飲んだ。

「……好きにしろ」

小さな手が伸びてきて強く握られる。宥めるようにやんわりと繋ぎ返しながら、男の反応とコナンの表情を見ればおおよその正解が見えてしまった。ったく、本当の目的が一体何なのかまでは見当もつかねえが、少なくともこの船内で起こった出来事は随分な演技だったというわけか。なんだか急に気が抜けてしまい、繋いでいた手をやんわり解いてから細っこい腰に腕を回して引き寄せる。

「陣平くん……?」

首を傾げて俺を見上げる旭の目元に唇を押し当てて、少し離れた距離から大きな瞳と視線を合わせた。

「……良かった」

口から溢れ落ちていった声は深く、重い。甘えるようにこてりと寄り掛かってくる旭がどういうこと?と小さな声で聞いてきた。

「バイオテロは揺動なんだろうな」
「揺動?」
「さっきのあいつの反応、妙に冷静だと思わねーか?」
「そう言われてみればそう見えるねえ……?」
「それなりに訓練してる奴だろうし、ここで覚悟を決めたっつー考え方も出来ねえわけじゃねーけど」
「こういう犯罪をする人の心理としては大抵生きようとするもんね」
「ああ、だからあの反応は引っ掛かるんだ」

なるほどねえ。ふむ、と唇を尖らせる旭。

「揺動だと思う理由は、この船内以外にも何か起こってるってこと?」
「ああ、わざわざネット上で犯行声明を発表したらしい」
「犯行声明かあ、細菌をばら撒くぞー!みたいな感じの?」
「そうだ」
「それはなんていうか……露骨だねえ」
「何が目的かは検討もつかねえが、関西方面を混乱させるためのバイオテロだと考えればさっきの反応の辻褄が合う」
「じゃあ、赤いシャムネコ自体が嘘だったってこと?」
「その可能性が高いな」
「へえ〜、かなり入念な準備をしてるから相当なパトロンがいるか、向かってる関西方面にそれぐらいのお金を賄える獲物があるかってことだね」
「だろうな」
「でも通り道にあるのって奈良くらい?パッと思いつくのはお寺とか……そんなに高価なものってなんだろう」
「寺って言えば仏像か?」
「国宝かあ〜〜、転売ってやつだねえ」

そんなことしたらバチが当たりそうだねと苦笑する旭は、甘く目を細めながら俺を呼ぶ。

「良かった。……本当に」
「ああ」
「だって、まだまだ陣平くんと色んなことしたいもん」
「ふ、そうだな」
「うう……良かったよお〜〜」

心底安心したのか、細い両腕を伸ばして抱きついてくる体を受け止める。良かったとふにゃふにゃした声を出しながら額をぐりぐりと押しつけてくるのが可愛くて目を細めた。括れた腰に腕を回し抱き寄せて。華奢な首筋に顔を埋めれば肌で感じる温度に、安堵と愛おしさが湧き上がってきてどうしようもない。何があっても一緒だとは言ったが、だからって死んでも良いと思ってるわけじゃねえから。旭が言うように、まだまだ二人で生きていけるのならそれに越したことはなくて。吐き出した息が深い。同じ分だけ吸い込めば、旭の匂いが胸いっぱいに広がった。

「ゴホン、」
「あ〜〜、えっと、あはは……」

すっかり旭に夢中になっていた。視線を持ち上げればキッドとコナンがどこか上の方へと目線を彷徨わせていて。

「一応犯人も取り押さえられたし、松田さんたちも一緒に行かないかな〜って……」
「ああ、それなら先に救護室へ行ってくる」
「へ?」
「旭の背中の様子をまだ確認出来てねえからな」
「別に大丈夫だよ?」
「それじゃ話が違えだろ」
「う……はい……」

もぞもぞと腕の中で顔を上げてくる旭に目を細める。怒られた子供みてえな表情を浮かべたかと思うと徐に振り返って。

「ごめんね、すぐに追い掛けるよ」
「ううん、ゆっくり見てもらってきてね」
「あはは。ありがとう。行くのはキャビンで良い?」
「うん、大丈夫。先に行って待ってるね」

そうして再び別れたのだった。


***


「赤いシャムネコってのは嘘っぱちで、武装集団は海外で傭兵経験がある奴等の集まりか……」

さっきは身を屈めながら進んだ通路を堂々と歩く。指を絡めるようにして繋いだ手を上機嫌で振る旭に口角を上げながら、端末に受信していたメールに目を通していった。

「国宝を盗もうとしていた怪しい連中は奈良県警が現行犯逮捕だとよ」
「そっかあ、良かったねえ。これで一件落着だ」
「そうだな」

こっちも武装した連中のリーダー格を制圧した、とメールをくれていた伊達と萩原に返信する。CCには変わらず他のもう二人分のメールアドレスが挿入されていた。

「さっさと帰ってゆっくりしてえな」
「そうだねえ、……いっぱいぎゅってして欲しいな」

そんなことを小さな声で言ってくるからどうしようもなく可愛くて。言われなくたって幾らでもしてやるし、抱き締めるだけじゃ足りねえな。繋いだ手を徐に持ち上げて白い甲にキスをすると頬を淡く染めたまま唇を尖らせている。

「じゃあ、いっぱいキスしてくれる……?」
「嫌がっても止めてやらねーからな」
「嫌がらないもん……いっぱい、したい」

ついと視線を逸らす表情に目を細めれば、今度はあどけない顔で笑う。

「ほっとしたらお腹空いちゃった。せっかくだから何か食べて帰りたいなあ」
「それもそうだな。大阪なんてそう来ることねえし」
「ねー、でも明日も陣平くんはお仕事だからあまり遅くならないようにしようね」
「……休みてえ」
「ふふふ、本当ならそろそろお仕事終わる頃だもんね」

繋いだ手に少し力が込められて、本当にありがとうと目を細める旭。

「気にすんな。まあ、次の休みはひたすら甘やかしてもらうけどな」
「え!やったあ、陣平くんのことよしよしするの大好きなんだよねえ」

辿りついた救護室。早くお休みにならないかなあ、なんて笑う旭がドアを開けるとすぐに現れる白いカーテン。とりあえずここで背中の様子を見ようと引いたカーテンの先には、拘束された女が居た。

「え!?大丈夫ですか!?」

駆け寄った旭を横目にドアの外へと顔を出して周囲を伺う。特に何の気配はなく、とりあえず中へ入り念の為にと後ろ手で鍵を掛けたものの外から開けられるタイプのドアなことに気づいて小さく舌打ちをしてしまった。様子を見て早めに移動した方が良さそうだ。

「誰にされたのか覚えていますか?」
「えっと、……藤岡って人よ」
「藤岡さんってルポライターの……?」
「ええ、最初に発疹が出たってことで此処に」
「隔離されたのに、お姉さんを拘束して……あれ?」
「ああ、そいつだな」

此処のスタッフであろう女の前でしゃがむ旭は首を傾げながら俺へと視線を向ける。その瞬間、タイミングが良いのか悪いのかどこからか悲鳴が聞こえてきて思わず舌打ちをした。

「陣平くん、どうしよう」
「くそ、めんどくせえことになったな……」

旭は此処に居ろ。やだ、一緒に行くもん。さっきもしたような押し問答をするが、結局頑なに頷かない旭に負けて連れて行くことにした。救護室を出て周囲を伺うがひと気がないことを察してどちらからともなく視線を合わせる。とりあえず、キャビンの状況を見に行く。この一連の計画はその藤岡って奴が主犯格として行われたものだったとして、一人で武装集団を解放出来るとはとても思えねえ。なら他に仲間が居るだろうと言えば、旭も同じ考えなのか頷いていた。それが誰かを考えるには情報が少なすぎるから、まずはキャビンまで急ぐことにして。やがて近くまで辿り着き、通路の突き当たりの壁に身を寄せた瞬間。突然船内が大きく傾いた。

「うわあ、何!?」
「旭!」

バランスを崩す旭を咄嗟に抱き締めて壁に背中を寄せた。あまりにも大きく傾くせいで壁に乗るなんて訳が分からねえ状況になるが、もしこれが逆サイドに居たらと思うとひやりとしたものを感じてしまう。突然傾いた船内は少し経つとゆっくりと元に戻っていった。

「……大丈夫か?」
「うん〜〜、びっくりしたあ」

旭を抱き寄せたまま壁伝いにずるずると座り込み、二人で大きく息を吐き出す。キャビンからは大きな悲鳴が聞こえた後静まり返っていたが、ちらほらと声が聞こえている。声色を聞く感じだと、犯人たちのものではなさそうだ。状況を確認しなければとは思うものの、抱き締めた旭の温もりをじわじわと実感して動く気力がなくなってきた。旭も旭で相当疲れてはいるだろう。俺に抱きつきながら甘えるように擦り寄ってきて。無意識なのか、頬に何度かキスをしたかと思うと首筋に顔を埋めてしまった。

「疲れたな」
「うん〜、そうだねえ」

ふにゃふにゃした声を聞きながら頭を撫でてやると、視界の端に入ってきた白。ひらひらと手を振って笑う無邪気な顔に苦笑した。

「あいつ元気だな」
「ん〜?ふふふ、本当だねえ」

手を振り返す旭に気づいたのか、片目を瞑ってくるのはなんかムカつくけどな。まあ、キャビンに入って行ったキッドはそれなりに役に立った。犯人のお仲間さんたちは伸びちゃってるなあ〜だの、おーっと!あれは爆弾だ〜!誰か解体出来る人が居ればなあ〜!だのわざと大きな声で言ってるのは俺たちに聞かせるためなんだろう。棒読みな声が面白かったのか、くすくすと笑う旭がなんだか面白くなくてキスをする。早く帰りてえ。周りなんて気にすることなく抱き締めながらキスをして、とにかく甘やかしてやりたいと思う。そんなことを考えていれば首の後ろに回った腕に力が込められて。

「……早く帰りたいなあ」

陣平くんとこうやってくっついてキスして、うとうとしたい。耳元で囁く声に頷きながら額を合わせる。そしてもう一度だけ、唇を触れ合わせたのだった。


***


「まさか松田くんの彼女がこんなに可愛い子だなんて思ってなかったわ」
「えっ!?」
「俺のことなんだと思ってんだ?」

警視庁のヘリはタクシーじゃないのよ!?とかなんとかキレてたくせに、旭に顔を寄せる佐藤は上機嫌だ。事件は無事に一件落着。悪い意味で長かった船旅にくたくたなのは大人たちで、子供たちは『楽しかった』で終わったらしく元気だった。正しいルートからの報告は佐藤から刑事部へ連絡が行くことになるが、俺は俺で上司への報告義務があるからと連絡をする。参考として話を聞きたいから警視庁に戻ってこいと言われ、今から新幹線で帰っても結構掛かると腕時計を確認しながら伝えるのに。飯を食って少し休んでからで良いから向かわせたヘリに乗って来いと言われたわけで。結局確認出来てない旭の怪我が心配だから病院にと言えば、従兄弟も一緒にヘリに乗って警察病院で診てもらえとまで言われるから思わず唸る。極めつけがシフトは調整したから明日は休んで良いなんて言葉。そこまで言われちゃしょうがねえと大人しく警視庁へ戻ることにした。だからこれは俺のわがままじゃなくて上官命令に従ってるだけだと言い返すと、佐藤の視線の先には子供たちへと手を振っている旭が居てすっかり興味が移ったらしい。佐藤に挨拶する旭は高木のことを見て、一度お会いしたことがありますよね?と首を傾げた。そういえば、と思い返す。何年か前、男にあとをつけられたり暴走するトラックと遭遇したり。そんなことがいっぺんに起こった早朝の時間。旭を助けてくれた伊達と一緒に居たのが高木だった。俺から礼は伝えたものの、こうして顔を合わせるのは初めてだったか。よく覚えてたなと頭を撫でればはにかんだように笑う旭がすごい心配してもらったからと目を細めていた。そんな感じで四人でヘリに乗り、今は警視庁まで戻る途中。佐藤が言い出した言葉を聞いて、旭が俺の方を見る。

「ちょっと陣平くん〜?また彼女って言ってるの〜??」
「彼女みてーなもんだろ」
「……もう〜〜」

唇をつんと尖らせながらも、嬉しそうな顔が隠しきれていないのが可愛くて目を細めた。

「どうかした?」
「あっいいえ!えっと、年上の女性と接点がないのでお姉さんが出来たみたいで嬉しいです…!」
「………かっ、」
「か?」
「佐藤さん…?」

端に座る俺と高木で視線を向ければ、震える佐藤。

「可愛いっ!!!」
「わぁっ!」
「あああ〜!佐藤さん危ないから座ってくださいよお〜!」

勢い良く立ち上がって旭に抱きついた佐藤を止めようとするのは高木。だが、佐藤は聞く耳を持たず旭に頬を寄せていた。

「旭ちゃん!もし良かったら今度一緒にお出掛けしましょう!」
「わあ〜嬉しいです!お願いします」
「約束よ!あとで連絡先交換しましょうね!」
「はい!」

妙に盛り上がる佐藤に苦笑しつつ、なんとなくまたこんな風に旭の世界が広がっていくことにちくちくとした棘のようなものを見出してしまう。良いことなのにな、と息を吐きながら視線を逸らし窓の向こうを見ると寄り掛かってくる体。

「陣平くん、外綺麗だねえ」

暗い機内の、互いの体に隠れるようなところで手が触れる。指を絡ませるようにして手を繋ぎながらほんの一瞬視線を向ければ、佐藤と高木は二人で話をしているようだった。

「今日もありがとう」
「無事で良かった」
「うん、陣平くん」
「ん?」
「大好きだよ、ずっと」

そのまま掠め取るようにキスされて、いたずらに目を細めて笑う旭の頬を指先で撫でた。胸まである長さのウィッグを耳に掛けてやりながら顔を寄せる。旭、と呼べばすぐ近いところでなあに?と返事する高くも低くもない穏やかな声。

「ずっと愛してるぞ」
「……んえ……」

小声で囁くだけで真っ赤になった顔が夜景に照らされる。俺だけの可愛い旭は、こんな風にいつまでも愛おしく思ってしまうのだろうと目を細めるのだった。