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「ニール! ニール!」
「なあに、甘えん坊ねえ」
パタパタとする羽音と、機械的な声の合間に聞こえてくるのはどこか甘ったるい声色。
優しく、柔らかで控え目な笑い声に惹かれるようにしてドアの向こうを覗き込めば、綺麗な女がオレンジ色のハロに笑い掛けている。
伸ばした手は白く、細い。
指先でそっと撫でるとハロは嬉しそうに女の名前を呼んだ。
その名前の響きは随分と親しんだものと同じはずだが、最後に呼んだのは一体いつのことだったか。
思い出すこともできないまま、もう遠い人になってしまったらしい半身が持っていたはずの名前を別な相手のものとして口にした。
こちらを見る女は、やはり、なんとも言いようがないほど綺麗だと思う。
綺麗な女が持つものは瞳すら綺麗だ。
目線を合わせた時間は大したものじゃないはずだが、相貌に映るものが此処の誰とも違うことを再認識する。
最初に見た時からそうだった。
自分を見る誰も彼もが何かしらの反応をする。
驚愕、歓喜、疑心、そんな、色々な感情が入り混じった空間の中でこの女だけは違った。
優しく、柔らかな笑みを浮かべる綺麗な女の瞳が真っ新だったことに、どうしようもない安堵と興味を抱いてしまうのは不思議なことじゃないだろう。
こうして、もう一度目線を絡めたら嫌でも分かる。
この綺麗な女は前任のロックオン・ストラトスを、同じ名前を持つニール・ディランディを知らないのだと確信した。
「ロックオン! ロックオン!」
「悪いな、そいつを探してたんだが邪魔しちまったみたいだ」
羽音を響かせるオレンジ色のハロは軽快な声を出しながらこちらへと飛んでくる。
歩きながら手を伸ばしてやれば、大人しく片手に収まった相棒。
「いいえ、私こそ。その子とお喋りするのが楽しくてつい一緒に居てしまうんだけど、あなたの相棒だものね」
「そういやこいつを見掛けないことが多いとは思ってたが、あんたの所に居たのか」
「お喋りに付き合ってくれる優しい子なのよ」
にこりと向けられる笑みに目を細める。
此処にハロはたくさん居るというのに、彼女はこのオレンジ色から随分と懐かれているようだとおやっさんが言っていたことを思い出す。
そういえば、俺が此処に来た時と同じような反応をしていたとも聞いたが、一体どういうわけなのかと不思議に思った。
「なあ、俺も混ぜてくれないか」
「なあに?」
「その、あんたとはよく話をしてみたいんだ」
胸の内に抱えるのは安堵と、純粋な好奇心。
既に築かれたコミュニティに入り込むのはわけもないが、その中に居た人物が身内である事実を前にやりにくさのようなものを感じてしまう。
どの人間の目を見ても簡単に分かってしまうことがなんとも、居心地の悪さすら育んでしまうのだから少しばかりの気疲れがあったのは事実だ。
兄さんは随分と好かれていたのだろう。
それ故に、自分に当たる視線に込められた感情の強さにはどうも肩が凝って仕方ない。
分かってはいたはずだ。
だが、いつ振りかに経験する兄との比較を肌で感じれば息苦しさに溺れそうになる。
だから、自分にとってこの綺麗な人の瞳は救いだった。
兄さんを知らない人間はつまるところ、俺という人間を見てくれる人に違いないから。
綺麗な女だと思った。
純粋に、深い意味などなく、単純にそう思った。
彼女の双眸がいつだって優しく細められていることを知れば、どうしたって魅力的に思えてならない。
こうして話しかけたことに下心がないと言えば間違いなく嘘になるが、ただ、どうしようもなく、ほんの少しだけ救われたかったというのが本音だ。
「私と話してみたいの? どうして?」
「どうしてってそりゃあ……」
綺麗な女が浮かべると、あどけないものですらたじろぐもんだと知った。
首を傾げた仕草ですら品が良く、おまけに真っ直ぐな目線を向けられたら言葉に詰まる。
下心があるなんてとても言い出せなくなったなと苦笑すれば、彼女は瞳を鋭くした。
「私と話す時間があるならよっぽど暇なようだし、他の人と話すことをおすすめするわ」
その言葉の意味が分からず問い返す。
女の瞳は鋭いままだ。
普段の優しげな表情なんてまるで見る影もないことに瞬く。
何かそんなに怒らせるようなことをしたかと聞く前に、彼女は目線と同じくらい鋭い声を出した。
「だって、私と話すのはあなたが他の人からもロックオン・ストラトスとして認められてからでも遅くないもの」
その言葉で女の言わんとしていることが嫌でも分かってしまい、無意識のうちに拳を握る。
吐き出した息が重たいが、誤魔化せるほどの余裕はなかった。
見下ろした先の彼女から向けられる強い眼光に怯んでしまないよう、目を細めることで堪える。
あまりにも強い拒絶の色を見てしまえば、ただでさえ弱った心がもっと萎んでいくような気がした。
下心など口にしなくて良かったと心の底から思う。
そんなことをしたとして、一体どんな風に噛み付かれたかは分かったもんじゃない。
ほんの少しだけでよかったのに、と思う。
綺麗に、優しく笑う彼女をそれとなく見ていたから、その甘ったるい表情を自分にも向けてくれたら、と。
慰めてくれるまではいかなくとも話を聞いてもらえるだけで随分と心境は変わるだろう。
だが、彼女は俺の話を聞くどころか見透かした上で拒絶してくるんだから驚く。
少しだけでよかったのに、という感情は次の瞬間には怒りに変わっていた。
なんて言い返してやろうか。
絡んだままの視線を鋭くさせながら考えるも、繋がった目線の糸を切るのは女の方からだった。
「あなたは、私に癒しを求めてはいけないの」
あまりにも小さな声を、決して近いわけじゃない距離の中でも確かに聞き取ってしまう。
「は? どういう……」
「とにかくそういうことだから、お兄さんと比較されて落ち込んでる暇なんてないのよ」
戻ってきた目線が幾分か柔らかくなっていることに気づく。
だが、一度細めた視界を広げることはできそうになかった。
彼女が言わんとしていることを頭では理解するものの、ほとんど反射のようなもので反応してしまうのは兄の存在。
「……兄さんのこと、知ってるのか」
「いいえ、話を聞いただけよ。かつてのロックオンが此処でどんな風に過ごしていたのかは知らないわ」
込み上げてきた息を吐き出したのは、それでもやはり安堵の感情が大きかったからだ。
突然向けられた鋭さにはムカついたが、兄さんを知らない彼女は確かに自分を見てくれるはずだから。
だからこそ、彼女の言葉に反論することができないのかもしれないとも思う。
兄さんに似てる弟ではなく、ただのライル・ディランディとしての俺だけを知っているこの綺麗な人の言葉だからこそ、より現実を突きつけれているような気分になるんだろう。
彼女が言うことは事実だ。
事実だと分かっているから、そのもどかしさを誤魔化すために怒りで上書きしたことも理解している。
癒しを求めてはいけない、と言った彼女の瞳に影を差した長い睫毛が揺れるのを見下ろしながら、少しだけ深い息を吐き出した。
「あんた、思ってたよりもキツいんだな」
瞬きの一つでもすれば、ぱちりと音でも聞こえてきそうだと思う。
長い睫毛に縁取られた瞳が大きく見開かれると、なんだか無性に幼く見えた。
奥の奥までを見透かすようにじっと見つめられたかと思えば、次の瞬間には吹き出してそのまま笑う。
子供のように声を出して笑う様子に眉を寄せる俺を見上げて、綺麗な女は完璧な笑みの中に意地の悪い色を落とし込んでいた。
「あら、見た目に騙されて食い物にでもされたって顔ね?」
にっこりと笑う綺麗な顔を見下ろしながらもう一度吐き出した息は、さっきよりも深い。
似たようなもんだろ、と呟いた声は思ってるよりもずっと不機嫌さを滲ませてしまった。
「まあ、私をどう評価しようが構わないけど。お兄さんが居ない今、あなたが皆のお兄さんなんだもの。ロックオンの名前を背負う覚悟をちゃんとしないと潰れるわよ」
「うるせーな、潰れてなんかやらねえよ」
「別に、あなたが潰れても構わないわよ? 能力だけを見れば私はイアンのお墨付きだもの」
「はー、ったく。ほんと可愛げのねえ女」
「あら、お褒めに預かり光栄だわ」
向けられるのは嫌味な言葉と無駄に完璧な笑みだ。
どうにもやりづらさを感じて頭を掻きながら、また息を吐く。
無駄に頭の回転が早く、比例するように無駄に口が回る。
綺麗なバラには棘があるってのはこういうことか、なんて考えればどうにもしっくりきてしまった。
「行くぞ、ハロ」
片腕で抱えたオレンジ色に目線を落とせば、パタパタと羽音を響かせる。
「ニールマタネ! ニールマタネ!」
「はあい、行ってらっしゃい」
ひらりと手を振りながら微笑む顔は優しげで、柔らかだ。
綺麗な女に妙に懐いているオレンジ色に向けた表情は見惚れるほど可愛いと思ってしまうことが、なんだか無性に悔しい。
横目で流し見た彼女に対する感情を断ち切るように背を向け、わざと大股で部屋を出る。
その頃には少しでもいいから救われたいと思っていたことなんてすっかり頭から抜け落ちていたことに気づくのは、もっとずっと後。
綺麗な顔に完璧な笑みを浮かべる女が口にした言葉の意味も、人知れずして結局貫き通したあらゆる覚悟も、向けるべき相手を失くしたことで他の誰にも触れられないよう隠していた恋情も。
ニールの名前を背負う女が此処から居なくなり、いよいよ誰の手も届かなくなった時。
ようやく俺たちは彼女が抱える全てと向き合うことになるのだった。
知らないことに救われ、
知らないうちに愛される