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それから? 静かな声で促された言葉を反芻すると頷かれる。
表の店内は賑わっていて、今日もこの世界が平和だと勘違いしそうになってしまう。
椅子に腰掛けながら随分と減っているグラスの中身へ視線を向けておかわりする? と聞くけれど首を横に振られた。
暑かったかしら、と空調を確かめようとすると静かな声で大丈夫だと言われて。
人のことを良く見てるのねえなんて口にしないまま感心した。
やっぱり、この子は肉親とは違うのだと改めて理解する。
見てきたものも、聞いてきたものも、やってきたことも考えてきたことも違うなんて簡単に分かるもの。
向かい合って座るまだ若い子の相貌を見つめる。
相変わらず純粋で無垢な色を向けられて目を細めた。
この子の表情をあの人がどんな表情で見つめたのかを想像しようとしたけれど、きっといつもと同じ優しい顔をしていたのだと思ったから考えることをやめた。
「それから、私は初めて依頼を失敗したの。一方であの人は無事に報酬を受け取ったそうよ。ほんと嫌な男だと思わない?」
やっぱり、いつ思い出してもムカつくわ。
標的の男が死んだことを依頼主に告げた時の苦い気持ちは今になっても少しだけ痛みを伴う。
決して綺麗なものではないけれど、責任感とかプライドとか、そんな感じのものが傷つけられたんでしょうね。
同時に、自分が負けず嫌いなことを初めて知った。
思えば、世界は女っていう生き物にとことん優しくないわ。
女だから慎ましくしろとか、女だから守られていろとか、女だから危ないことはするなとか。
好きで女に生まれたわけじゃないのに、どうして女だからって弱い生き物だと思われなくちゃいけないのかしら。
そうは思っても実際に女は男よりも弱いし、だからこんな風に負けてしまうのだと考えたらすごく、すごく悔しかった。
でも、頼れる人間も居ない女が何かを守るためにはどんな危ないことだってやらなきゃいけないのよ。
私は自分の身一つじゃなかったから、子供を身籠もる可能性がある以上は体を売ることは選択肢になかったの。
それなら別なことを、と考えた時に人を殺してお金を稼ぐことを教えてくれた人が居てね。
とても親切な人だったと思うわ。
勢いと度胸だけを持った女にでもできる、あらゆる人間の殺し方を教えてくれたんだもの。
ごめんなさい、話が逸れたわね。
苦笑すると、構わないと言われる。
「あんまりにもムカつくから、あの人とはもう二度と顔を合わせたくなかったわ。さすがにダブルブッキングなんてそう頻繁にあることじゃないし、安心していたんだけどね」
息を吐く。
半分ほど中身が減ったグラスを手に取ってストローを摘んだ。
薄くなりかけているアイスコーヒーを飲んでから、行儀が悪いと分かっているけれどストローの先を少しだけ噛んでしまう。
思い出す。
あの頃のことを思い出すと、あの人に対して好意的な気持ちなんて一つもなかったなと笑ってしまった。
笑う。
口角を釣り上げる私を不思議そうに見つめる相手に目を細める。
「その後もいつも通りに過ごそうとしたけれど、日常ってやつは二度と私の前に現れなかったわ」
首を傾げられて、肩を竦めながら笑う。
守りたいものを守りながら一人で生きる日常は消えてしまった。
ある一人の男の手によって、あまりにも簡単に、どうしようもなく鮮やかに、一人きりの時間は遠く手の届かないものとなってしまう。
なぜかといえば。
その理由を口にしようとして、口を噤む。
それをなぜと言えばいいのかしら。
ふと湧き上がった疑問を前に何度目かの息を吐いた。
「きっかけは間違いなくあの人と出会ったこと。それから、私の日常にあの人が入り込んできたことね」
私はムカついていた。
狙っていた標的を奪われて、絶対に失敗しないと決めていたのに実績もプライドも傷つけられて。
その、誰にも吐露できないムカつきをどうにもできなくて。
せめて忘れようと深呼吸をした私の前に、あの人は現れた。
昔も今も平和だと錯覚しそうになる街中で、私たちはまた相対し目線を絡ませる。
最悪だと思った。
笑えない冗談だと思った。
痛みを伴う息苦しさに喘いだら負けだと思った。
もう二度と誰にも負けたくなかったから、滲みそうになる視界に唇を噛んで。
絡ませた目線を逸らすのも、背を向けて駆け出すのも、無視をして立ち去るのも嫌だった。
私はムカついていた。
ムカついて、イラついて、情けないのに。
負けたくない、以外の感情が渦巻いていることに気づく。
よく分からない感情のまま、私はあの人を直向きに見つめ返した。
「間抜けよね。街のど真ん中で無言のまま互いだけを見つめ合うなんて。しかもあの人、へらへら笑って私に手を振ってくるのよ?」
こっちの気も知らないで、と息を吐けば喉の震える音が聞こえる。
今笑った? 首を傾げると相手が目を細めて笑っていた。
想像できる、と口角を持ち上げる様子に苦笑しながら先ほどとは違う意味で息を吐く。
「その顔がね、あんまりにも間抜けだったから。一方的にムカついてる自分がなんだかバカみたいって思ったのよ」
目を逸らすのも、背を向けるのも、無視をするのも。
全部バカらしくなったから目線を合わせたまま近づいて、あのムカつくくらい長い足に蹴りを入れてやったわ。
いきなり何すんだ! って怒ってたけど。
そっちこそいきなりどういうつもり!? って怒鳴ったら目を丸くしてたわ。
ほんと、あの人って大事なところで鈍感なのよね。
私が怒ってるなんて思ってもいなかったみたいで、うろうろと目線を彷徨わせた後にバツが悪そうな顔をして謝ったわ。
その顔がなんだか子供みたいだったから一瞬許しそうになったんだけどね。
何に謝ってるの? って聞いたら口ごもるんだもの。
やっぱりムカついたからあの人の頬を思い切り引っ張ってやったわ。
ふふふ、楽しそう? そうね、今になって思えば楽しかったかな。
笑っている間に店員さんから名前を呼ばれた。
振り返ると、両手にはランチプレート。
慣れた手つきで置かれたプレートの中身は今日も美味しそうで、向かい合う相手も心なしか瞳を輝かせているように見える。
年相応の表情に目を細めながら飲み物のおかわりを店員さんにお願いした。
目線を向ければ相手は唇を尖らせている。
わざとにっこり笑うと眉間が寄せられてしまった。
温かいうちにどうぞ、と促せば素直に頷かれるからなんだか微笑ましく感じてしまう。
日替わりのランチプレートはボリューミーなのに低価格だし、毎日違うおかずも楽しみで初めて来た人にも常連にも人気。
すっかり舌に馴染んだ味に頬を緩めていると、相手も気に入ってくれたみたいだった。
美味しい? と聞くと首肯される。
すべすべの頬がぱんぱんに膨らんでいるのを見れば、本当に美味しいと思ってくれてるみたいで安心した。
人の気配に振り向くと驚いた表情を浮かべる店員さんと目線が合う。
視線を下ろした先の両手には、頼んでいた飲み物のグラスがあって眉を下げた。
ごめんなさいね、と笑って冷たいグラスを受け取る。
テーブルの上にあった空のグラス二つと交換しながら店員さんへとお礼を言った。
捻っていた体の向きを直して、相手と向き合う。
手に取ったフォークで一口分のサラダを口に運ぶ。
今日も新鮮な野菜が食べられることに、胸の内で誰かへと感謝した。
「あの人は偶然見掛けたって言うから、その時は不問にしてあげたんだけど」
本当は偶然なんかじゃなかったのよ。
首を傾げる相手の前で吐き出した息は自分で思う以上に深い。
それまでに一度も見掛けたことなんてなかったのに、それからは街を歩く度に会うなんておかしいと思うでしょう?
肩を竦めて見せると、なんだか呆れる気持ちが強く出てしまった気がする。
まあ、本当に偶然じゃないことを知ったのは、ずっと後になってからなんだけどね。
そう言って苦笑する。
「その時々であれこれ言い訳をしていたけど、結局のところ私のことを放っておけなかったのよ」
もしかしたら、あなたも身に覚えがあるんじゃない?
尋ねると、少しだけ考えるような素振りをした後に頷かれる。
なんだか微笑ましくなってしまって笑った。
あの人ってどうしようもなくお節介なのよね。
兄貴肌を気取ってるけど、ただのお人好しで貧乏くじを引くのが楽しいだけなんだわ。
そう口にしてから眉が勝手に下がってしまった。
でも、お節介じゃないあの人なんて、そんなの、あの人じゃないのよね。
ゆっくりと首肯されることに安堵して、どうしようもなく。
本当にどうしようもなく、内に秘めた感情が溢れ出しそうになった。
息を吐く。
もう何度目になるかしら。
自分の感情を宥めるために息を吐くのは。
息を吐く。
お節介なあの人がどんな声で私を呼んでくれていたかを考える。
どうしようもなく、本当に、どうしようもなく聞きたいと思った。
あの人が、私の名前を呼ぶあの優しい声を。
「一人きりで生きていた日常は二度と私の前に現れなかったわ。なぜなら、私を放っておいてくれなかったあの人のしつこさを、どうしようもなく愛おしいと思ってしまったから」
きっかけをくれたのはあの人。
でも、その理由を芽生えさせてしまったのは私。
ムカついて、イラついて、大嫌いだと思っていたのに。
顔を合わせれば優しい顔で笑いながら声を掛けてくるあの人に惹かれていったのよ。
どうしてかしらね、と口にする。
純粋で、無垢な瞳とかち合えば、あどけない表情のまま口を動かし続ける相手に目を細めて笑う。
「最初は余計なお世話だって思うのに、どうして拒めないのかしらね」
あの人、人誑しの気質でも持ってるのかもしれないわ。
自分で言っておきながら本当にそうかもしれないと思えて仕方ないから、堪らなくなって笑う。
こんな風に、誰かとご飯を食べながら笑い合うのは随分と久し振りのことだった。
最初はいつだってあなたから