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あの人と互いの家を行き来するようになってからは、なんだかんだと口車に乗せられて私の方が料理をすることが多かった。
あの人だって一人暮らしの経験が長いんだからできないわけじゃないし、むしろ美味しいご飯を作ってくれるのに。
幼い頃に食べていた懐かしい味とは少し違うけど、今じゃこれが俺の家庭の味だ、なんて嬉しそうに笑う顔を見たらどうにも堪らない気持ちになってしまうもの。
私はあの人が言ってくれる優しくて甘ったるくて、明日が待ち遠しくなる言葉がそれはそれは好きで、しょうがないわねなんて言いながら子供のようにテーブルで待つあの人のために料理をするのが楽しかった。
どんなものだって作れば喜んで食べてくれたし、本当に時々だけど、ねだれば作ってくれるあの人のご飯だって大好きだった。
そんな日々のことを考えていたら、今話しているような時間にあったやりとりを考えると少しだけおかしい。
あの頃の私は本当に、心から、それはそれはあの人のことをうっとおしいと思っていたけれど、さっき言ったように今になって思えば楽しかった記憶の一つだもの。
運命だとか、必然だとか、そんな言葉で表せるほどロマンチックなものでは決してないけど。
ただ、純粋にあの人との明日を待ち望んでいたあの頃の私は、きっと世界中のどの女の子よりも輝いていたんじゃないかとか、そんなことを、思ったりして。
ふと、名前を呼ばれていることに気づいて目線を持ち上げる。
心配そうな表情を浮かべるマスターと目が合って苦笑した。
ごめんなさい、少し浮かれすぎてボーッとしていたわ。
カウンターに置かれた二人分の赤レモネードのグラスを手に取りながら言うと、マスターは何かを言いかけた。
どうしたの? と首を傾げれば直ぐに作って持っていくよ、という優しい声。
僅かに思案するけれど、にこりと笑って楽しみにしてるわねと返す。
そのまま個室席へ戻ると、かち合った無垢な相貌に微笑む。
お待たせ、と相手側へグラスを一つ置くと不思議そうに中身を覗き込んでいた。
アイルランドは美味しいお酒も多いんだけど、それはあなたが成人してから紹介させてちょうだいね。
それは、いつぶりかに口にした明日を待ち望む言葉だった。
「依頼を成功させた後、別な日に時間をとってあの人を連れて行った場所があるの」
約束はしたけれど、どこへ行くかはあえて伝えなかった。
時間はとらせないから、と前置きしてから自分よりも高いところにあるあの人の瞳を見上げる。
あなたが本当に、本当に私のことを知りたいと思うのなら一緒に来てちょうだい。
よく考えて、やっぱりいいやと思ったのならそれはそれでいいわ。
例え来たからといって、一緒に背負ってもらうつもりはないもの。
あなたが抱くものがただの好奇心だったとして、一緒に来て、その後に私の前から姿を消したって恨みはしないわよ。
あなたが居なくなってくれるなら私としては嬉しいことだから。
あの時の私にとって、あの人に言ったことは間違いなく本心だった。
来てもいいし、来なくてもいい。
来た後に関わりを切るというのならそれでも構わない。
恨みもしないし依存もしない、引き留めはしないからそれきりになっても何とも思わない。
ただ、一緒に来るというのならあなたに見せるものを誰にも言わないでちょうだい。
嫌いな相手に善意を乞うなんて間抜け以外の何ものでもないことは分かっていた。
別に試すつもりはなかったけれど、結果的には試したようなものよね。
口ではそんなことを言いながらも、きっとその頃にはもう心があの人に傾いていたんだと思うわ。
「あの人は約束通りに来てくれた。だから私も、約束通りにあの人を連れて行ったの。私の弱みでもあり、強みでもあるあの子が生活する場所へ」
思い返せば、私は随分と恵まれていたわ。
幼い頃に両親を失くしてからは面倒を見てくれた人が居るの。
その人が私に色々なことを教えてくれたのよ。
人殺しの方法だけじゃなく、子供が一人でも生きていける方法だとか、本当に色々なことをね。
私にとっての家庭の味は母親の料理じゃなくて、その人が作ってくれたご飯の味なの。
それから、国のこと、政治のこと、宗教のこと、軍のこと、……あとは何かしら。
歴史、言葉、数学、道徳……そんなところかしら。
色んなことを教えてくれて、良くも悪くも私を子供扱いしてくれない人でもあった。
それから、ルールや制度のことも教えてくれたから、私はその人に教わった通りに手続きをして私の大事なものを守ることができたの。
まだ小さなあの子が眠っている間に施設長さんへと預けて、お金は決まった額を決まった期日通りに振り込むことを約束した。
孤児になった子を引き取っている場所ではなく、きちんとお金を支払うことで教育が受けられる場所よ。
成人を迎えるまでは寮生活になるから、寂しい思いはさせずに済むと思ったわ。
自分の生活よりもずっと、何倍も、比べられないほどあの子の生活が大事だった。
振り込む金額は特別に月謝制にしてもらって、あの子が不自由のない生活を送れるように私は人を殺すことでお金を稼いでいたの。
「あの人を連れて行ったのは弟のところよ。私は死んだと伝えてもらっていたから直接顔を合わせることは叶わなかったけれど、恋人を装いながらあの人と一緒に施設の周りを歩いてお友達と楽しそうに過ごすあの子の姿を見たわ」
赤レモネードを飲む相手が、なぜ死んだことにしたんだと首を傾げる。
その言葉に眉を下げて笑いながら、言ったでしょう? と口にした。
弟のことは、私の強みであり弱みでもあった。
あの子が居てくれたからこそ、お金を得るために人を殺し続けることができたのは間違いないわ。
でも、誰かの勝手な思いで誰かの命を奪うことは、別な誰かの想いの形を歪めてしまうことと同じ。
想いが強ければ強いほど失った時の悲しみは大きく、それは時に怒りとなって胸の中に燻るのよ。
人間はとても脆いから、自分で生み出した感情のエネルギーを体に溜め込める器が大きくないの。
おまけに人間を生み出した誰かはとても意地悪で、嬉しさよりも哀しさの方が、楽しさよりも怒りの方が大きくなるように作ってしまったのね。
幸せではとても打ち消せないくらい不幸せの方が大きいからこそ、人間は未だ戦うことを止められないんだわ。
だから、誰かの哀しさを生み出すようなことをして生きている私はあの子に顔向けできないの。
あの子が生活するために使っているお金の意味を知って欲しくないの。
叶うのなら、あの子の周りだけは戦いとは無関係のままで居て欲しい。
例えあの子の視野が狭まったとしても、ニュースで見る戦いの光景なんて他人事だと思っていて欲しいのよ。
だって、世の中に溢れてることを全て知ったからといって幸せになれるわけじゃないもの。
知らないままで居た方が幸せで居られることだって沢山あると思うのよ。
それから、私が人を殺す理由はあの子の幸せな世界を守るため。
あの子が居なくなれば私はきっと人を殺し続けられない。
私が死んだことにしたのは、そうすることであの子を守ろうとしたからよ。
不意に人の気配を感じたからにっこり笑う。
振り返ると、少し遅れて店員さんがやってきた。
テーブルに置かれたお皿にはお願いしておいた料理が少しずつ盛られている。
お礼を言ってから背中を見送って、瞬く相手にどれも美味しいのよ、と郷土料理を紹介した。
腕時計を確認すれば思っているよりも時間が経っていることに驚く。
今更だけど帰りの時間は大丈夫? と問えば、気にしなくていいと静かな声で言われた。
「もう随分と話をしたもの。した方がいいと思う話はそんなに残ってないし、あなたがこのお皿を空ける頃には終わるはずだわ。本当に時間を気にしなくていいのなら、せっかくだしゆっくり食べてちょうだいね」
頷かれる。
スプーンを手に取った相手が別のお皿によそわれたアイリッシュシチューをゆっくり口に運んだ。
旨い、と一番の褒め言葉を聞いて、まるで自分のことのように喜ぶ。
お口に合ったようでよかったわと目を細めて、付け合わせのパンも勧めてみる。
口の中の食べ物を咀嚼し飲み込んだ相手は、真剣な瞳を向けてくるから首を傾げた。
あんたの考えをあの男に伝えたのか? なんて言われて一瞬考えた後に首を振る。
「いいえ。失ったご家族のことを話す時、あの人の端々に感じるものがあったから何も言わなかったわ。ただ、一度だけ注意したことならあるの」
注意? と語尾を持ち上げるのは、あまりぴんときていない証拠かしら。
そうよ、と頷く。
アイルランドにはね、泣くな、復讐しろ! って古い教えがあるの。
驚いた? まあでも、復讐といっても相手を傷つけろって意味じゃないわ。
傷つけられたことで悲しみ、嘆き続けることはきっと誰にでもできるのよ。
だけど、きっと、きっとね、悲しみがいつか怒りに変わったとして、その怒りをまた誰かにぶつけたら自分も同じになってしまうんだわ。
この教えの意味はね、誰よりも幸せになって相手を見返してやりなさいってこと。
悲しみも怒りも乗り越えて、その先にある最大の復讐は、幸せになることだもの。
でも、私たちには幸せになる権利すらないのかもしれないわ。
だって、どんな理由であれ人を傷つける限り、そこにあるかもしれない誰かの幸せを脅かしているでしょう?
そういう意味では私もあの人も誰かを恨むことすら許されないのだから、幸せな明日を望む方がよっぽど健全なのよ。
育みすぎた怒りがいつかあの人を飲み込んでしまうかもしれないと思ったから、怒りを忘れるくらい私との明日を望んで欲しいと言ったのよ。
「 もし、あなたが知っているなら。あの人が最後はどちらのために戦ったのか聞いてもいいかしら? 」
幸せな明日のためか、肥大した私怨のためか。
相手はたっぷりの時間を掛けて考えた後、私怨だと思う、と静かに口にした。
改めて驚くことはなかったし、結局のところ私の言葉は聞き入れてもらえなかったのね、とがっかりすることもなかった。
ただ、目を細めて笑う私を見た相手がどこか焦ったように違うんだ、と言うから首を傾げる。
上手く言えないがそうしないといけなかったんだと思う、なんて相手の言葉にそうでしょうねと頷いた。
大丈夫、あなたが言いたいことはなんとなく分かるもの。
「あの人、不器用なところあるのよね。自分の頑固さを誰にも見せないまま隠して、ここぞって時に誰よりも固執していたことが初めて分かるの」
その前に少しでも、ほんの少しでもいいから話していてくれたら良かったのにね。
そう思わない? と首を傾げる。
相手は難しい表情のまま口を開かない。
なんとなくだけど、この子がわざわざこんなところまで何をしに来たのか分かったような気がして苦笑した。
探しものはなんですか