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「弟のところから帰る時にね、あの人は負けたって言ったの。私が人殺しを止められない理由が分かったからもう止めろとも言わないし、付き纏うのも止めるってね」
幾分か困惑したような表情を向けられるから、にこりと笑う。
ただ、と続けながらやんわりと目を細めた。
やっぱり、いつだって最初はあの人からだったわねと思い返す。
弟の姿を見るために恋人を装った私たちは、もうする必要がないはずの帰り道でもまだ手を繋いだままだった。
指を絡ませて、小さな子供がするみたいに少しだけ揺らすと、隣に並んだあの人が可笑しそうに笑う。
もう私に付き纏うのを止めると言われたことが嬉しいはずなのに、自分よりも大きな手をどうしてか離したくないと思ってしまうから無言のまま唇を尖らせていた。
そんな私のことを分かっていたのかそうじゃないのかは分からないけれど。
ただ、と紡がれる言葉の先が知りたくて、ちらりと目線を持ち上げたら綺麗な横顔へと辿り着く。
繋がれる手に力が込められて、ゆっくりとこちらに向けられる優しい相貌になんだか泣きそうになって、どうしてかあの人の名前を呼ぼうとした私を遮るように名前を呼ばれて。
ただ、傍に居てもいいかといつにも増して優しい声で言われるから思わず立ち止まってしまう。
いろんなことを考えた。
どういう意味で捉えたらいいか分からなくて、ぐるぐるし続ける思考に飲まれそうになりながら繋いだままの手に目線を落として、何かを言おうとするのに開いても音を発してくれない口に戸惑って。
優しい声に名前を呼ばれた。
あの人が踏み出した一歩分だけできた距離は、手を引かれたことで私の方から埋めることになる。
気づけば広い腕の中に閉じ込められていて、顔に触れる癖のある髪がどうにもくすぐったくて、肩に乗せられた顔のせいですごく近いところから声が聞こえて。
難しいことは考えなくていいと、あの人は言った。
ただ、傍に居たいだけなんだと言われたら拒むことなんてとてもできなくて。
優しく、涙が出るほどに優しく髪を撫でられて、あの人の胸に額を押し当てながら回した腕は広い背中に辿り着く。
抱き締められる腕の力が強くなった。
こめかみに唇を埋められながら、胸の奥深いところでいっぱいになった感情を少しだけ吐き出したくてあの人の名前を呼ぶ。
きっと、私は寂しいと思うことすら忘れていたんだわ。
そんなことを泣きながら言えば、喉の奥を鳴らして笑うあの人が俺だって同じだと優しい声で返してくる。
だけど、勘違いするなと言われて見上げた先の相貌は真剣で、じんわりとした熱を感じて、どこか甘ったるい。
お前が寂しそうだったから傍に居たいわけじゃないと続けるあの人の大きな手が私の前髪を掻き上げて、額に唇を落とした。
「俺が寂しいからでもないし、ただ、傍に居たいと思ったから許しが欲しいだけだって言うの。許しも何も、今まで私が何を言ったって付き纏っていたくせにそんなことを言うのよ?」
子供みたいだとも思ったし、あんまりにも甘ったるいからきっと私も当てられていたのね。
そうじゃなかったら、私が許さなくったって傍に居てなんて言わなかったもの。
肩を竦める。
向かい合う相手が優しく目を細めるから、少しだけ唇を尖らせた。
手を伸ばした赤レモネードで喉を潤し小さく息を吐いて、口角を持ち上げる。
「それから、あの人は私に付き纏わなくなったわ。わざとらしい言い訳を並べながらどこからともなく現れることもなくなったの。そのかわり、この喫茶店のカウンター席で待ち合わせるようになったわね」
特別なことは何もなかったけど、お互いにとって特別な時間であることは間違いなかったと思うの。
何を話すでもなく隣に座っているだけの時もあれば、思い出したように何かを話してコーヒーを飲む時もあったわね。
私がマスターと話す隣であの人は読書をしていることもあったし、私から話し掛けることも増えて、ただなんとなく手を繋いだり寄り添うこともあったわ。
あの人の隣に居る時は、どうしてか深呼吸をすることが多かった。
思い返せば、深呼吸をしたのなんて随分と久し振りだったような気がする。
私もあの人も依頼を受けて人を殺すという日常は変わらなかったけれど、一人で生きる時間はいつの間にかなくなっていたの。
甘ったるくて、どこか熱っぽくて、何よりも愛おしかった。
自然と浮かぶ笑みをそのままに、相手の無垢で純粋な相貌を見つめる。
「この頃の私とあの人は傍に居たものの、関係性を明確にはしていなかったの。それにはまあ理由があるんだけど、あまり大事なことじゃないから省くわね。はっきりさせようと思ったのはもう少し経った後かしら」
次にする話があなたに伝える最後の話よ。
そう言ってから目線を落とせば、テーブルに置かれたお皿にもグラスにもまだ半分くらい中身が残っていることが分かる。
全てを空ける頃には話が終わるし、それに伴って私が話す番であることも終わる。
その後のことは特段聞いていないけれど、きっと今度は彼が話をしてくれるんだと思う。
手に取ったグラスをほんの少し傾けながら赤レモネードで唇を湿らせた。
濡れた指を紙ナプキンで拭いながら小さく息を吐く。
今日したどんな話よりも憂鬱な話だから、少しだけ気が弱くなってしまうことを許して欲しい。
まさかこの話をあの人以外の誰かに話す日が来るなんて思ってもみなかった。
でも、これは相対する彼が望んだことだもの。
守秘義務があるという自分の名前と所属を明かしながら、かつての仲間だったというニール・ディランディと一緒に生きていた頃の話を教えて欲しいと言った彼の望みを叶えようと思ったのは少しばかりのお礼でもあった。
だって、この子が来てくれなかったら私はずっと知らないまま生きることになっていたのかもしれないもの。
私を置いてどこかへ行ってしまったニールが世界を変える戦いに臨み、道半ばで倒れたという事実を知らないまま一人になったことを認められずに、ずっと。
それは、今まで生きてきた時間の中でも一番の孤独であり、想像もできないほどの寂しさに溺れてしまうのだろうと思う。
だから、過去の痛みを思い返すことくらい、なんてことはないもの。
「私ね、あの人が傍に居てくれる日常を捨てようとしたことがあるの。それだけじゃないわ。この喫茶店とマスターのことも、住んでいる家も、積み重ねた実績や人脈も、文字通りの全部ね」
なぜ、と相手は首を傾げる。
もうその頃にはあの人のことをどうしようもなく愛していたからよ、と返答する。
貼り付けたはずの完璧な笑みは勝手に崩れてしまうから、そのまま情けなく眉を下げて笑った。
全てを捨てようと思ったのは、あの人を愛していたから。
全てを捨てようと思ったのは、あの人に嫌われてしまうのが怖かったから。
全てを捨てようと思ったのは、もう意味がなくなってしまったから。
全てを捨てようと思ったのは、生きる目的を見失ってしまったから。
だから、誰にも、あの人にすら何も言わないまま姿を消そうとした。
「そう思っていたのに、どうしてか簡単に見つけられてしまったの。そのままあの人の家に連れて行かれて、温かいコーヒーを淹れてもらって、理由を聞かれたら答えるしかなかった」
その時、初めてあの人に抱かれたとは言わなかった。
とても言えなかった。
全てを捨てようとしていたくせに、甘ったるく、熱っぽく、ぐずぐずに蕩けてしまうほど抱かれて、愛おしさと苦しさのあまりに泣いて縋ってしまったなんて、そんなことは。
「理由を口にしたらあの人に嫌われてしまうことは分かっていたの。だけど、言わなきゃ解放してもらえないとも分かっていたから正直に話すことにしたわ。全てを捨てるということは小さな未練に成り得る感情すら残してはいけないのだと考えたら、自然と躊躇いは消えていたように思う」
それまで、私の全ては唯一の肉親にあった。
肉親である弟こそ強みであり、何よりの弱みでもある。
弟が居たからこそ人殺しを続けられたし、弟が生き続ける限り明日を望むことができた。
だけど、それを言い換えれば弟が居なければ生きる目的を見失ってしまうということでもあったの。
「弟は死んだわ。私が殺したの」
随分と悪いお友達と付き合っていたみたいで、お金欲しさに人を殺したんですって。
依頼主は標的が私の弟であることを当然知らなかったから最初は何かの間違いかと思ったし、少し時間をもらって調べたの。
いつも通りに調べて、調べて、調べて、念には念を入れて調べたけれど、弟が人を殺したという事実は変わらなかったわ。
なぜ、と相手が言う。
彼が浮かべる表情は当時あの人が浮かべていた表情と同じものだったから、堪らずに唇を噛む。
力を入れて噛んだ唇を優しく撫でる親指の感触を思い出そうとしたけれど、上手くいかなかった。
「何を言っても私のエゴでしかないんだけどね。もうこれ以上、あの子に罪を重ねて欲しくなかったのよ」
悪いことっていうのは、多分、癖になるの。
ズルをして得をすることの味を覚えてしまうと、簡単には抜け出せなくなるのよ。
現に、私が今も人を殺してお金を稼いでいるのが何よりの証拠ね。
一度でも手を出してしまえば、それから先どんなにいいことをしても帳消しにはならないし、ただひたすらに積み重ねていくしかなくなるの。
だから、私はあの子を殺してお金を受け取った。
「これまでにやってきたことの意味も、これから先を生きていく目的も、私は全部自分の手で壊したわ。その時点で全てを捨てたも同然だったけど、もうその頃の私は弟だけが全てとは言えなかったから」
だけど、実際に全てを捨てようと思ったらとてつもなく怖くなったの。
だって、私はあの人をどうしようもなく愛していたんだもの。
また一人きりの日常を生きていく自信なんてとてもなかったし、嫌われてしまうことに堪えられないとも思ったわ。
じゃあ黙っていようかとも思ったけれど、ご家族のことを想って表情を変えるあの人の悲しみを、弟さんのために生きるあの人の強さを、私を大事に愛してくれるあの人の心を裏切ることはできなかった。
自分のしたことを話せばあの人の方から離れてくれると思ったから、散々甘やかされた後に話したの。
「あの人は何も言わなかったわ。何も言わなかったけど、私を傍に置くことも止めなかったの。私にもよく分からないんだけど、どうしてかその日から私たちは恋人になったのよ」
それからずっと、あの人が私の前から姿を消すまで一緒に居たわ。
ずっと一緒に居て、何の前触れもなくあの人が居なくなって。
その後のことはあなたの方がよく知っているわよね。
目を細めてからグラスへと手を伸ばす。
喉を鳴らしながら赤レモネードを飲み干した。
テーブルの上のお皿は空いていて、向かい合う彼もまた私に倣うようにグラスの中身を煽る。
ほんの、瞬く間。
音もなくグラスを置いた。
どちらからともなく目線を合わせて、私は小さく息を吐き出す。
笑う。
確かに笑みを浮かべてから口を開く。
「これが、あの人と過ごした私の中にある記憶」
テーブルの上で、ゆっくりと両手の指を絡めるようにして組む。
少年と青年の狭間に居るような彼に埋め込まれた純粋で無垢な相貌を覗き込んだ。
「それで、君はどうして私のもとに来てくれたのかしら? 刹那・F・セイエイ」
ソレスタルビーイングのガンダムマイスターだと名乗った彼の名前を呼び、その胸の内を暴くことにした。
君が知らないあなたの話をしよう