■ ■ ■

「好きな女がいるんだ」

そう小さな声で囁いた男の瞳はいつにも増して優しげに、それでいて切なそうに細められていた。
目の前にある男の何もかもを、俺はこの先何があっても忘れないだろうと、ただ、なんとなく思った。
意味や根拠なんてない。
ただ、よく分からない妙な自信だけが不思議と湧いてくる。
自信でもあり、確信でもある言い知れないその感情に不快感はない。
だが自分の中で確かに芽生えたその感情の名前はどれだけ考えても分からなかった。
名の知れぬ感情と自分が見た男の記憶だけを、ただひたすら胸の内に秘めていた。

「あら、その好きな女ってのが私だっていう根拠はないじゃない」

どこか試すように。
どこか楽しそうに。
どこか泣きそうに。
どこか、願うように。

頬杖をついて目を細める女の唇は完璧な弧を描いている。
俺は他人の感情にも己の感情にも疎いが、向かい合った女の綺麗な顔には様々な感情が浮かんでいるように思った。
連絡もなしに自宅を訪ねた時、最初こそ怪訝な表情を浮かべていたものの、名を名乗り、女の名前を確認し、男の名前を伝え、自らが果たそうとしていることを掻い摘んで話す頃には随分と肩の力が抜けているように見えた。
口を挟まず、ただひたすら俺の言葉に耳を傾ける女を見て、やはり尋ねて良かったと一人頷いてしまう。
それから、もしできるならあの男と過ごした時間のことを教えてくれないか? と尋ねた。
突然だったし追い返されても仕方ないとは思ったが、女は女で何か思うことがあったのか馴染みの店だという場所へと移動することになる。
頼んでもらった料理を口にしながら女の綺麗な声に耳を傾け、その表情を見つめ、時折続きをねだる。
長いようで案外短い男と女が共に過ごした時間の話が終わりを迎え、相対する女は話の主導権を俺に譲った。
だから、俺の記憶に未だ生き続けるあの日のことを伝えれば、その完璧な笑みが途端に崩れ始めた。

「間違いなくあんただ」
「……どうしてそう思うの?」

あの人が私の隣から居なくなって、その間はあなたと一緒に戦って、戦ってる最中に死んでしまって、あなたたちの存在を聞かなくなってから四年も経ってて。
時間の流れは世界すら変えてしまうのに、どうしてあの人が言った女が私だって思うの?

綺麗な女が綺麗な唇で紡ぐ綺麗な声は、どこか試すようで、どこか楽しそうで、どこか泣きそうで、どこか願うようにも聞こえた。
真っ直ぐかち合う目線に、なぜかあの日の男を思い出す。
あの男が想うのは、好きになるのは、隣に居なくても大事そうに語るのは、もしもそんな女が居るとしたら。
それは、目の前の女であって欲しいと思えるような女性だった。

「あんたの名前はダリア・ニールだろう」
「……そうだけど」
「なら、あんたがダリア・ニールであることが理由だ」

その瞬間、綺麗な瞳が大きく見開かれる。
そして瞬く間にふにゃりと柔く細められた。
少しだけ幼い表情で笑う女を前に、あの男もこんな表情を浮かべることがあったなと思う。
やはり、俺は此処に来て良かった。
あの男を想って笑う女の瞳は、女を想って笑うあの男の瞳と全く同じだと思ったから。
確信は得た。
その確かな自信をもって、改めて自分が来た理由を思い返す。
俺は他人の感情にも己の感情にも疎いことを知っているが、今から女へとする頼み事が酷であろうことも知ってはいた。
だが、知っていたからこそ此処へやってきた。
頼むならこの女しか居ないと思い尋ねてきたが、俺の考えは正しかったと確信している。

「それで? 死んだ仲間の思い出話をしにわざわざ来たわけじゃないでしょう?」

女は頬から手を離し、空になったグラスへと触れる。
綺麗な指先が結露した表面をなぞり水滴が伝い落ちていく。
何げないものでも、いちいち所作が綺麗だと素直に思う。
無言のまま見つめ返せば綺麗な相貌とかち合う。
綺麗で、直向きで、無垢な瞳には多くを語らない俺を呆れながらも根気強く待とうとする意思が感じられた。

「頼みがあって来た」
「頼み?」
「ああ。あんたにしか頼めないことだ」
「生憎と思い当たることはないけど」
「いや、あんたに、……ニール・ディランディを今も想っているあんたにしか頼めないことだ」

息を吐く。
俺も、女も。
息を吐いて、肩から力を抜き、そしてまた視線を絡める。
それで? と困ったように笑う女は先を促した。

「あんたに、俺たちを支えて欲しい。ニール・ディランディを失った俺たちを、ニール・ディランディの代わりに」

俺は他人の感情にも己の感情にも疎いが、非道いことを言っている自覚はあった。
泣かれても、罵られても、どんな形であれ拒絶されてもおかしくないことを口にしている自覚があった。
だが、これは、これだけは、この女にしか頼めないことだった。

「ニール・ディランディが愛した人であり、あの人を愛したあんたにしか頼めないことだ」

息を吐く。
今度は女だけがその綺麗な唇から息を吐き出す。
吐いて吐いて、吐き出して。
同じだけの量を吸い込んだ女はやっぱり困ったように笑っていた。

「分かってると思うけど、私はガンダムの操縦なんてできないわよ?」
「ああ」
「あなたたちの戦いにおいてはむしろ、これ以上ないほど足手纏いだと思う」
「ああ」
「全ての人が幸せに笑える世界を、なんて高尚な志を持ってもいないし」
「ああ」
「自分の傍にある小さな世界を守るだけで精一杯の無力な女よ」
「ああ」
「守りたいと思ったものは結局全部失くしてしまったから、実績もないわ」
「ああ、分かってる」
「いいの? 私にあの人の代わりなんて務まるとは思えないけど」
「いいや、あんたなら大丈夫だ」

俺の声に何度か瞬いた女は突然吹き出したかと思うと、綺麗な手で口を覆い肩を震わせる。
細い指先で目元を拭い、可笑しくて堪らないとでもいうように声を出して笑った。

「あなたって変な子ね……! ふふふ、いいわ。負けた。お望みどおり一緒に行くわ」
「……いいのか?」
「なあに? さっきまでYESしか認めないって顔だったくせに」
「……いや」
「私ってわりと女々しい女でね、好きな男が見た世界を見てみたいって気持ちも確かにあるのよ」

まあ、あの人はそんな私を置いて一人でいってしまったけれど。
その小さな呟きは、彼女があの男に言えなかった恨み言だろうか。

「ただ、あなたから見て私があまりにも大根役者だったらすぐに切り捨ててちょうだい」
「……分かった」

頷く。
素直に頷く俺を満足そうに目を細める女は綺麗な唇に弧を描く。
平らな表面を伝い落ちる水滴が、グラスに触れる女の指先を濡らしていった。
氷が溶け出して小さくなり、グラスの底に溜まった水を飲み干す女の白い喉に視線を向ける。
ふと、その細い喉を震わせて男を呼ぶ女が浮かべる表情はどんなものだったのかと考えてしまった。
あの男が女を呼ぶ表情をもう二度と見られないように、女が男を呼ぶ姿を見ることだって叶わないけど。

「刹那、でいいかしら?」
「ああ」

頷く。
俺を見つめる女の瞳が優しい。
綺麗な唇がもう一度名前を紡ぐ。
頷く。
目を細めた女が白くて細い手を差し出す。

「改めてよろしくね、ダリア・ニールよ」

重ねた綺麗な手は思ったよりも柔らかくなかった。
白い手の皮膚は固くて、これが女の過ごしてきた時間なのだろうとも思う。
これから俺はこの綺麗に笑う人にもっと酷なことを強いるが、それでもこの人なら綺麗に笑って許してくれるような気がした。
例え、怒られても構わなかった。
怒り、涙し、罵られようとも良かった。
それでこの綺麗な人が溜め込んでいる感情を解消してもらえるのなら、それで。
だが、きっとこの人は自分の気持ちを口にしないように思う。
あの男に対するどんな感情も溢さないだろう。
なぜなら、この人の感情は女と男だけのものだから。
分かち合うことを許した男が居ない今、女は決して感情を吐露しないのだろう。
それを人はどうしようもなく哀れだと言うのかもしれないし、他のどんなものよりも尊いと言うのかもしれない。
きっと、この人は誰のことも責めない。
男を助けられたかもしれない俺のことも、男を連れて行った人のことも。
女を愛していながら、迎えに行くこともなく死んだ男のことですら。
男が見た世界を見てみたいと笑う女は、争いが絶えず、誰にも優しくない世界の存在を見守るだけだ。
世界が続こうとも、はたまた壊れようとも。
女は綺麗な唇に完璧な弧を描き続けるのだろう。
きっと、彼は怒るだろうけど