夕暮れ時、縁側でうずくまる野良猫を眺めているとガラガラという扉の開く音が聞こえた。ちょうど良かった。まだ帰んないでね、と心の中で語りかけて、わたしは抜き足指し足で居間に向かう。
「おかえりなさい」
声を潜めていうと、土方さんは怪訝な顔をした。
「あのね、縁側に猫来てるの。けど猫って何食べるかわたし知らなくて」
土方さん知ってる?と聞くと彼は首の後ろを掻きながら台所を物色し始める。
「これでいいんじゃねーの」
手渡されたのは、鰹節のパックだった。そう言われれば、そうな気もする。ありがとうと受け取って素早く縁側に足を向けた。
「お前も土方さんだろーが」
背中に刺さった咎めるような声を、わたしは聞こえないふりをした。
土方という名字に自分の名前がくっつくということにしっくりこないのはきっと、まだ結婚して日が浅いからじゃない。あとは若い二人に、とかいうふざけた常套句でよく知りもしない男とふたりきりにされた、少し前のことを思い出す。部屋に静寂に包まれてすぐ、煙草吸っていいか?と聞きながら土方さんはもう既に赤い箱から一本取り出していた。
「面倒だな、お互い。何回目だ?」
「3か、4くらい?」
おんなじくらいだ、と言って白い煙を吐く。
「上司が全然身を固めてくれねーんで、今度は俺に回ってきやがった。この分だと逃げられやしねーな」
ハッと息を鋭く吐いて諦めたように笑う土方さんは、どこか遠くを見つめていた。好きな人でもいるのだろうか、と思う。でもそれにしては穏やかな物腰。他の人はこんなじゃなかった。誰も彼ももっと値踏みするような目つきで、わたしの価値を図ろうとしていた。
「お前は?」
「...わたしは、家から出たいだけ」
きらびやかさもときめきメモリアルも、そんなものいらないから権力もしがらみもない、穏やかで正しい生活がしたかった。それが過ぎた願いだというのも薄々わかっていたのだけど。
「...マヨネーズは、好きか?」
「?...パンに塗りたくるぐらいには」
数ヶ月後、わたしたちは籍を入れて同じ家で暮らすことになった。
人懐っこいのかふてぶてしいのか、とにかくまだ猫は縁側にいた。鰹節の匂いを嗅ぎつけたのか、皿のような目をわたし(の手元)に向ける。ペロペロと舌を出して、それはおねだりのように見えた。急いで袋を開けて掌に鰹節を載せると近寄ってきた。毛と舌がくすぐったい。可愛いなぁ、わたしは初めて間近に見る生き物に頬を緩める。
「触んねーのか」
「...触ったことなくて」
着物に着替えていくらか寛いだ様子の土方さんが、わたしのとなりに腰を下ろした。そのまま遠慮なく、食事中のところを鷲掴みにする。ぎにゃあ、と尻尾を逆立てて猫は暴れるけれど土方さんは気にする様子もない。
「ほら、やってみろよ」
「う、うん」
促されて恐る恐る、背中をひと撫でした。柔らかい毛並みと、生き物の温度。癖になるような、すこし怖いような。引っ掻かれる恐怖なんかじゃなくて、命に触れているという実感。
「さ、触れた」
「おう」
土方さんはそう言いながら、片手に猫を抱き変えて空いたもう片方をわたしの頭に載せた。そのまま温かくて大きい手のひらにわしゃわしゃと髪を乱される。びっくりして、わけがわからなくて、慌てて飛び退いた。土方さんはくくっと喉を鳴らして笑っている。
「なんつーか、猫も悪くねぇな」
1匹も2匹も変わんねーだろ、と言う切れ長の瞳に自分が写っていてなぜだか泣きたくなった。わたし、猫じゃないですと小さく呟くと可笑しそうにどーだか、と返された。土方さんの言うとおりだ、と思った。
お前もマヨネーズ食うか?と物騒なことを言う土方さんから柔らかい毛玉を取り返す。温かい。
「・・・そうだ、名前を決めなくちゃ。ね、トウシローさん」
煙草に火をつける十四郎さんが動きを止めて目を見開く。そうだ、シロちゃんって付けたら怒られるだろうか。想像したらそれは、なんだかしあわせそのもののような気がした。
(2015.05.03)
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