目が覚めると隣の布団は空だった。居間から漏れ出す光に吸い寄せられるように、わたしはなんとか布団から這い出る。

「…おはよう、ございます」
「おう。俺はもう出るからな。あと、そこ」

指されたのはテーブルの上の朝食だった。意外にもトーシローさんは料理をする。私が全然出来ないから、かもしれない。

「トーシロさんは…」
「俺ァこいつがある」

赤いキャップのお供を振って、トーシローさんの朝ははじまった。なんとなくおもしろくない。ひどく勝手な気分でわたしはもう一度、わたしの匂いと温度しかしない布団に沈んで目を閉じる。

わたしが求めてやまなかった生活が、彼のほんの気まぐれではじまったということくらいちゃんと理解しているはずだ。意識の隅でもう一度確認する。奇跡に近いのだ。これ以上は望むべくもない奇跡。
 



トーシローさんは毎日忙しそうだけれど、部下だという沖田くんのほうはそうでもないらしい。決まってトーシローさんのいないお昼すぎ、ご飯どきを狙ってやってきて、うちの猫みたいにするりとうちに上がり込んでくる。そうなると必ず遠慮の無い催促をされて、わたしは彼にお茶を淹れるはめになる。濃すぎだとか熱すぎだとか文句を言われながら。

「そういや土方さんは、ってあんたも土方さんでしたねィ」
「それわざとらしいよ沖田くん。で、トーシローさんがなに」
「ありゃ、もう反応ナシですかィ。つまんねぇな」
少し前まで、わたしがトーシローさんのことを「土方さん」としか呼べずにいたことをからかっているのだ。

それから沖田くんは随分長い間、トーシローさんの話を続けた。サボりで怒られたとか、バズーカ打って怒られたとか、犯人を逮捕するついでにお店を半壊させて怒られたとかそんな話。沖田くんはいつもそうだ。窓から差し込む午後ののんきな光が赤みのかかったくりくりとした眼を照らしている。愚痴を言ってるようで、その眼はきらきらと輝いていて他のことをしてるときよりずっと優しい。結局は自慢話なのだ。

「そういや、どんな感じなんですかィ家での土方さんは」

興味深げなまんまるの眼に射抜かれてわたしは口ごもる。

「…べつに、」

口は開いてるのにその先の言葉が見つからない。口と心が急速に乾いてゆく。

「なんだ、つまんねぇ。弱みでも握れるかと思ったのに」

沖田くんがそっぽを向いていてくれて、ほんとうによかったと思った。

ほんとうは、全然違う。トウシローさんは怒らない。洗濯機から謎の異音がして買い換える羽目になっても、セールスマンというひとの口車に乗せられて3紙目の新聞を契約してしまっても、炊飯器が鳴ったらかき混ぜておいてと頼まれたのにすっかり忘れてしまっても。
それを寂しいと思うのは間違いだっていくらわたしでも知っている。わたしたちは普通じゃないのだ。形だけが仰々しく整えられていて、あとはほとんど空っぽのまま生活だけが始まって、そして続いている。手を取り合うことも、埋め合うことも許されていないまま。

沖田くんが帰ったあと、はじめてひとりでお酒を飲んだ。冷蔵庫にはいってる、トーシローさんが早く帰れた夜に飲んでいるやつ。シュワシュワとしてるくせに苦くて、全然美味しくなくて好きじゃない。けれどふわふわと思考を遮って、考えたくないことをシャットアウトしてくれるものからついつい何度も口にしてしまう。だらしない体勢でテーブルに片側のほっぺをくっつける。きもち、いい。とろんとした目を閉じるのに時間は掛からなかった。

「…なまえ?」

トーシローさんの声だ。帰ってきたのだ。けれどあまり体に力が入らない。お酒の、せいなのだろうか。こんなに飲んだのは初めてなのでわからない。仕方ないので目を閉じたまま気配を探った。お迎えをした猫を抱き上げてから、少しして床に降ろす音。フーっと息を吐き出してから、上着を脱いで首のスカーフを外す衣擦れの音。

あ、ゆっくり、近づいてきている。見られているんだろうか、とどぎまぎしながらわたしは目を開けられないまま、石みたいに固まっていた。

「…酒飲んだのか」

頬に感じた冷たさに身をすくませてから、それがトーシローさんの手だと言うことに思い至る。確かめるように優しく撫でる手は、少しづつわたしの温度に近づいてゆく。はじめてのことに戸惑う半面、それに抗うことは考えられなかった。ますます力が入らなくなってゆく。

わたしとトーシローさんがすっかり温度を分け合った後、手がゆっくり離される。名残惜しいな、と思った自分にびっくりした。

「…なまえ、起きねーのか」
わたしは観念することにした。というか、目を閉じているのに耐えられなくなったのだ。
「んー…おかえり、なさい」
「おう。酒、飲んだんだな」
「あ。ごめん、なさい。トーシロさんのビールなのに」
「冷蔵庫空っぽにしやがって」
口ではそう言いながら、楽しそうにトーシローさんは笑った。酔ったか?と聞かれてわたしは素直に頷く。
「気持ちわるくはねーのか」
「えーと、ない」
「大丈夫そうだな。もう夜遅いし寝とけ」
「…うーん」
「おい、立てるか?」

途端に、寂しくなった。さっき感じた名残惜しさは全然消えないでどんどん強くなってゆく。お酒は思考をあやふやにする。わたしは逡巡しないまま、おもったとおり手を伸ばしていた。ワイシャツが捲られて剥き出しになったトーシローさんの腕にたどり着く。温かい。それだけでわたしはうれしくなる。

「っ、冷てぇな!冷え切ってんじゃねえか」
「へへ」
「ったく、立派に酔っ払いやがって」
「よってないですよう」
「…いいからほら、寝室行くぞ。怖ぇからほら、こっち握れ」
「はあい…ねぇ、トーシロさんもねる?」
「ああ?そりゃまぁ、寝るだろ」
「へへえ」
「やっぱ酔ってんじゃねぇか…」

解かれないどころか、手はしっかり握り直されたのでわたしはますます嬉しくなっていよいよ口が閉じられなくなる。

「今日は、えらく機嫌がいいんだな。なんかあったのか」
「うーん…べつに、」

その先はやっぱり言葉にならない。けれど満たされたまんま、目を閉じる。朝からずっと感じていた寂しさたちは、もうすっかり鳴りを潜めていた。

(2016.01.18)

-meteo-