今思い返してみるときっと、お隣りに住んでいる幼なじみの利吉が家族旅行から帰ってきたその日。山田家が持って帰ってきてくれたおみやげは、その土地でしか食べられない銘菓や、流行っている工芸品なんかじゃなくて、もっとずっとそれより大きい――人、だった。わたしや利吉なんかよりずっと大きい男の人。くしゃっとした跳ねの強い髪の毛に、それとおんなじくしゃっとした笑顔。利吉も他の同じ年頃の子たちに比べたらずっと大人びていたけれど、やっぱりそれとは全然違ってどきどきしたのを覚えている。目線を合わせて土井半助というぴったりの名前を教えてもらったその瞬間からわたしはもう、多分、ずっと。


「半助く、…んじゃなくて、土井センセイ」
「そんなに先生を強調してくれるなよ。すまんが、今日もたのむ」

もうこのやりとりを、何回繰り返しただろう。へにゃりとした苦笑いを浮かべて、お箸につままれたかまぼこをわたしの口元に差し出す半助くんと、白い半月を飽きずに内心どきどきしながら口に入れてもらうわたし。けど、私と違って半助くんはいつも涼しい顔をしてる。多分、おばちゃんに怒られたりきりちゃんに呆れられたりしないなら、そのまま器に残しとくのでも小皿に避けておくのでも、わたしに食べさせるのでもなんでもいいのだ。そわそわしているわたしがバカみたいだ。咀嚼をしながら太ももの着物をぎゅっと掴む。いつもおいしいはずのかまぼこは、なんだかペラペラな味がした。



あれから6年。6年もあれば自分も周りを取り巻く環境も随分変化した。利吉はフリーのプロ忍にとして活躍しはじめたし、半助くんは利吉のお父さんの伝蔵さんと一緒に忍術学園で教師として働くようになった。わたしはといえば、そこで事務員をしている。元々家が忍者の家系でもなかったし、いちばん仲良しだった利吉と離れるのが嫌で志した忍びの道だ。結局忍者にはなれなかったけれど、これはこれで良かったと思っている。

変わらないのは、半助くんの練り物嫌いとわたしの意気地なしだけだ。

「そろそろおばちゃんときりちゃんに、言いつけちゃおうかなぁ」
「それは困るなぁ。これからも頼むよ、なまえ」
「...しょうがないなぁ、土井先生は」

冗談っぽく、じゃあどこそこに連れてってだとかそういうのを言ってみればいいんだとくのいち教室の女の子たちは言っていた。でも多分、それじゃ意味なんかないのだ。言えば言葉通り、半助くんは嫌な顔ひとつしないで連れてってくれる。でも、それがなんだっていうんだろう。

授業がある半助くんを見送って、おばちゃんの洗い物を手伝い終わった後、誰もいない食堂の机に突っ伏して窓をなんとなしに眺める。雲ひとつないいい天気だ。これ以上ない休日日和。

「なまえ」
ぽん、と頭に置かれた手だけで分かる。もちろん、声でも。
「利吉、来てたの。お疲れ」
「なんだ、今日は休みなのか」
「うん。でも利吉ならいいよ。適当でいい?」

立ち上がって大きく伸びをして、わたしは調理場に立つ。利吉は彼のお父さんと同じかもしくはそれ以上の仕事人間だから、食事を平気で抜いてしまう。しょうがないんだけど、悪い癖だ。

「ああ、ありがとう。でも、私が言いたいのはそうじゃなくて」
「なに?」
「着物。似合ってるじゃないか」

わたしがお鍋に火をかけるのをカウンターにもたれて眺める利吉は、はじめて見るやつだ、と言って笑う。きっと全部お見通しで、からかってるのだ。わたしは悲しいやら腹立たしいやら情けないやらでどういう顔をすればいいか分からなくなる。半助くんはきっとわたしが今日お休みだってことも、ましてや着物があたらしいものだなんて、気にしていないのだろう。期待なんかしてないつもりでも、わたしは結局どこかで「もしも」を願ってしまってる。

「…なまえ、せっかくだから昼から町にでも行こう」
「えー、利吉と…」
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか」
「嫌じゃないけど…利吉と町歩くと、おんなのひとの視線がこわいんだもん。勘違いだしさぁ」
「…そうしてもらったほうが私はありがたいんだけど」

ああはいはい、モテて面倒、つまり女避けとかいういつものやつだ。突っ込むのももう面倒なので、わたしは適当にヒラヒラと手を振って流すことにする。

「それより利吉、伝蔵さんに会いに来たんでしょ。もう多分逃げちゃってるよ」
「父上のことはいいんだ」

なんだろう、利吉が少し変だ。焦ってるような、苛立ってるような顔でそんなことを言うのははじめてだ。伝蔵さんと何かあったのだろうか。不思議に思ってお鍋の火を消して視線をあげると、利吉はさっきまでいたカウンターじゃなくてすぐそばにいた。思っていたより近くて、わたしは思わずたじろいでしまう。プロ忍こわい。

「…なまえ、今日はわたしと出掛けよう」
「それはダメだ」

間髪入れず利吉に答えたのは、わたしじゃなかった。声がしたはずの食堂の入口のほうを振り返ったのに誰もいない。、と思っていたら今度は肩にそっと置かれる手。プロ忍もこわいけど、教師はもっと怖いということをわたしは思い知る。ぼそっと呟かれた声の低さにわたしは身じろぎする。間に合った。くぐもっていてはっきりとは分からなかったけれど、そう聞こえたような気がしてわたしは半助くんを振り返る。

「は、んすけくん?」
「なまえは午後からわたしと出掛けるから」

そんなの聞いてない。けれどなんでもないような顔で半助くんは言い切って、そうだろうなんてわたしに問いかける。わたしがどんな理由だって断れるはずないの、知ってるみたいに。いつもの半助くんじゃない。そう思うのに、わたしは結局促されるまま頷いてしまう。

利吉がなんて言って出て行ったのか、あんまり覚えていない。気付いたら調理場にふたりきりで立っていて、わたしはどうしていいかわからずお鍋に視線を落とす。利吉は結局食べていかなった。

「おいしそうだなぁ。私がもらってもいいかい」
「う、うん…そういえば、授業はどうしたの」
「授業をしていれば利吉くんに絡まれずに済むから、山田先生が変わってくれって」
「そうだったの」

どうにも拭えないぎこちなさを感じながら、もう冷えてしまったお鍋の中身を温めるために、もういちど火をつける。しっかり薪に火が移ったのを確認して、腰をあげようとしたときだった。

「なまえ、あんまりふらふらしないでくれよ」
「ど、土井先生?」
「半助くん、だろう?」
「だ、だって」
「だってじゃない。…まぁ私も、反省しているんだ。全然伝わっていなかったんだな」
「な、にが、」

半助くんに抱きしめられてるのだと頭が理解するのに数秒かかった。だって、想像もしていない。わたしの肩に半助くんの顔が乗せられる。長い溜息が耳や髪に触れて、ようやくわたしの心臓は動き始めた。痛いくらいだった。

「…わたしも、なまえが好きだってこと」

先に火のついたはずのお鍋よりも急速に、顔全体が熱くなる。瞳からは勝手に涙がこぼれてくるから困った。けれど、溢れてくるすぐそばから拭ってくれる半助くん指先の熱でこれが現実なんだとなんとか飲む込みことができた。わたしの大好きなくしゃっとしたあの笑顔は、すぐ目の前にある。

「ん、待って……な、なに!?わたし『も』って!」
「?そうだろう?」
「そうだけど!!え、いやだ!いつから知ってたの!?」
「いつって…6年前、かな」
「はぁ?!」

「なまえが自分でちゃーんと言ってたぞ。私のお嫁さんになるんだって」

爽やかな笑顔で、半助くんはなんでもないことみたいに言って笑う。なにそれ、聞いてない!!恥ずかしさに言葉も出すことが出来ずわたしが心の中で悲鳴をあげるのとお鍋が噴きこぼれたのは、同じタイミングだった。

-meteo-