そもそもわたしはこれまで仲互いができるようなまともな人間関係なんて、築いてこなかったのだ。周りにはわたしのことなんてどうでもいい人かもしくは顔色を必要以上に気にする人かのどちらかしかいなかった。だからこういうとき、どうすればいいか分からない。そしてこの数か月、分からないことを教えてくれたのは全部トーシローさんだった。

「トーシローさん」
「うおっ?!」
「おかえりなさい」

後ろから声を掛けると、飛び退かんばかりにトーシローさんは驚いた。遠目で姿を見つけてからずっと家の前に突っ立っているから、本当はわたしのほう驚いていたのに。

「出掛けてたのか」
「…うん。探しものをしていたの」

あの後、わたしは万事屋銀ちゃんに行っていた。この街にトーシローさんを抜きにすれば知り合いと言えるのは彼しかいなかったし、それにちょうどわたしの悩みは銀さんの商売である「依頼」になると思ったのだ。そう思って訪ねたまでは良かったけれど、話をするのには骨が折れた。誰と喧嘩をしたか問われて、言葉に詰まってしまったのだ。「夫」も「家族」も、傍から見れば間違いのない事実で、けれどわたしたちにとってほとんど嘘に近い言葉だった。

「…大切なひとなの。とっても」

かろうじて言えたのはぼんやりとした掴みどころのない表現だった。本当のことはいつもとても曖昧だ。

けど、必死の思いで振り絞った「依頼」はすぐに笑い飛ばされてしまった。そんなん依頼じゃねえよ。言葉とは裏腹に、銀さんの声は優しかった。

「仲直りすりゃいいだけじゃねぇか」

仲直り。それ以上銀さんは何も教えてくれなかったけれど、代わりに彼の好物だといういちご牛乳とたくさんの他愛のない話を日が暮れるまでしてくれた。


「…何か落としたのか?」

靴の裏でタバコの火をもみ消すトーシローさんを眺めていて気付いた。見合いの席では確かに絶えず吸っていたのに、そういえば家の中ではほとんど見たことがなかった。

トーシローはやさしい。わたしは胸が苦しくなった。尋ねる声の穏やかさもタバコのこともお昼に買ってきてくれたお団子のことも。あげればきりがない。

「なまえ?」
「…仲直りがしたいの」

万事屋を出てから言おう言おうと決めていたのに、いざ口にするとなんて頼りのない言葉なんだろうと怖くなった。わたしは慌てきって返事を聞く前にトーシローさんの手首を掴んで歩きだしてしまう。

振りほどかれるかもしれないと思ったけれど、トーシローさんは大人しくついてきてくれた。盗み見た横顔はなんだか楽しそうにも見える。

「どこに行くんだ?」
「お夕飯。今日は外で食べようと思って」
「なんか食いてぇモンでもあんのか」
「マヨネーズの丼を出すお店があるって教えてもらったの。信じられなかったけれど、メニューになっているんだったらわたしも食べれるかもしれないと思って」
トーシローさん、好きでしょう?わたしは種明かしをするようなつもりで自信満々で言ったのに、トーシローさんは切れ長の瞳を少し目を見開いただけだった。
「……それ、メニューの名前は聞いてねえの」
「名前?聞いてない…あ、犬のエサって言ってたかも…」
「それは今すぐ忘れとけ」

その答えはお店に入ってすぐに分かった。入店するなり店主とその奥さんと思われるふたりが口々に言っていたから。

「いらっしゃい!いつもの土方スペシャルかい?」
「頼む」
「あら土方さん!そちら…」

興味深げな4つの瞳に視線を向けられて、トーシローさんの手を咄嗟に離して身をこわばらせた。けど、今度はトーシローさんがわたしの手を掴む。

「ああ、前に言ったろ。嫁さんだ」

わたしの頬はどんどん熱気を帯びてゆくのに、トーシローさんのほうはごく自然な、涼しいとさえ言える顔でカウンターの向こうのふたりと話している。トーシローさんのこと、はじめてずるいと思った。今度はわたしもおんなじこと、言ってやりたいとも。



結局土方スペシャルをわたしが食べられるわけもなく普通の定食を食べた。胃袋にすっと馴染む、やさしくてどこか懐かしい味。たくさん話をしたしお酒も少し飲んだので、帰り道の夜風が気持ちいい。

「あの、わたしたち仲直り、できました?」
「……仕方ねぇから、今回はコレで許してやる」

トーシローさんが手のひらを差し出して、わたしたちは手を繋ぐ。来たときとは違ってちゃんと手のひら同士が重なっているやつだ。繋ぐというよりは包まれているみたいだと思った。トーシローさんの手はわたしよりずっと大きい。

なにかが解決したわけじゃない。いつか、このままじゃいられない日が来てしまう。ふいに母の咎めるような声を思い出した。結婚ってなんなんだろう。繋がれた手にそっと力を込める。わたしにはまだ、胸を張って言えるような答えは見つからないけれど。

「どうした?」
「帰ったら、一緒にお団子食べましょう」
「まだ食ってなかったのか?つーか腹一杯ってさっき言ってたじゃねぇか」
「…だって、トーシローさんと食べたかったの」
「……仕方ねぇな。マヨネーズかけりゃなんとかいけるだろ」

見つかるとしたらきっと、この人といる時でしかないのだ。マヨネーズと職場が大好きで、少しぶっきらぼうでとてもやさしい、わたしの夫と。

-meteo-