「ナツは、見たことあるアルか?」
「なにを?わたし家政婦じゃないから、あんまり凄いのは見てないと思うけど」
「モチロン、あのイボ痔忍者の目玉のことヨ」

スーパーでばったり出くわした神楽ちゃんと公園のベンチに座って酢昆布(出資者はもちろんわたしだ)を仲良くしゃぶっていたら、唐突にそう切り出された。目玉って。この口の悪さは、坂田さんから貰ってきたのだろうかと苦笑していると余程気になるのかどうなんだともう一度質問を繰り返された。

「全蔵くんの、目ねぇ・・・」


もちろん見たことがある、けれどその記憶はおぼろげだ。もう少し懐かしい。あれははじめて出会ってちょっと経っていたから、確か秋と冬の間。


そのときのわたしは、大人になってからの風邪はヤバイという定説を身を持って体感しているところだった。若いといったって、とっくに風の子は卒業してズブズブの火の子なのだということをすっかり忘れていたわたしは、季節の変わり目とかいう風邪の大量発生地帯に無謀にも半袖半ズボンと薄っぺらい布団で足を踏み入れていたらしい。風邪かもしれない、と思ったときにはもう遅かった。恐ろしく体が怠く、頭は簡単に寝られないほど痛み、延々と背筋を走る寒気に襲われた。引っ越してから病気とは無縁であり、また常備薬なんてものを買う思考も持ち合わせていなかった。一言でいうとまぁ、最悪、しかない。

そのまま風邪は心までも蝕んでゆき、ついにわたしは常にセンチメンタルな、ドラマの登場人物と大差ない思考に頭を支配されてしまっていた。己の不幸を嘆き、都会の世知辛さをいっちょまえに憂いた。少し前に見た、深夜のスポーツ番組の後にはじまる社会派のドキュメンタリーが脳裏をよぎる。「増える都会の孤独死」、と銘打ったやつだ。わたしも、新聞にかぶき町在住の独身女性、孤独死とか載るのだろうか。ニュースを読むのは草野仁義だろうか、それとも花野アナだろうか。もしかしたら、お天気に切り替わったときに結野アナが悲しい事件ですねと言及してくれるかもしれない。いやいやそんなことじゃなくて、

「・・・うう、ポ、カリ飲み、たい」

こんなアホみたいな今際の言葉も、誰にも届かないんだと思ったら、どうしてか涙が溢れて止まらなくなってしまった。電話の置いてあるリビングまで歩けたとても、どこに電話すればいいかわからない。この江戸で知り合いと呼べるひとなんて越してきたばかりのわたしにはいるはずもなかった。それでも救急車って何番だっけていうか風邪で来てくれんのかなと考えながら、ガンガンと痛む頭と戦いどうにか立ち上がろうとしていたときだった。

ガンガン、と音がする。それは自分の熱い熱い頭からじゃなかった。最後の力を振り絞ってリビングによろよろと向かうと、ベランダには少し前に、一緒に胃が破裂するほどピザを食べてくれたバイトのお兄さんがいた。確か、名前は。

「はっとり、さん?」
「よう。ピザ買い取りになっちまって、って・・・オイ確か、ナツだったよな?」

なんとか鍵を開けると、わたしが手を掛ける前に窓は開いた。ついに立っていることもできずに前方へ倒れこむ。

「熱ッ!!お前、すげぇ熱じゃねぇ!?病院は?薬は?」

口を開く気力は残っていない。力なく頭を振ると、「つかまってろよ」という低い声がしてふわりと体が浮いた。身体に感じる風とその音、薄目を開くと景色がヒュンヒュンと飛んでいくのが見えた。屋根から屋根へ飛び移っているらしい。ふいに一緒にピザを食べたときのことを思い出す。どうしてバイトの制服着てないの?と聞くと彼はニヤッと笑ってこう答えた。どうしてってそりゃ、俺が忍者だからだろ。そんなの、冗談だと思っていたのに。

「・・・ほんとに、忍者だったの、」
「え?信じてなかったのかよ」

低く笑う声が降ってくるのにつられて視線を上に向けた。涙と熱でぼやけた視界、揺れる長い前髪のその奥、初めて見る全蔵くんの目は優しく細められていた。




「ーーーねぇ、どんな目アルか?やっぱり数字の3アルか?それとも意外につぶらアルか?」
「・・・どうだったかな〜」
「分からないアルか。つまんないネ」
「ごめんごめん」

不満げに頬を膨らます神楽ちゃんにもうひとつ酢昆布の箱を握らせてあげる。途端にキャッホーイと声を上げて定春と何処かに走っていくのを見届けてからわたしも家に帰った。

タイミングがいいというかなんというか、エントランスの前にはちょうど今来たところだという全蔵くんがいた。ごく自然に買い物袋は奪われ、わたしは扉の鍵を開ける。一緒に買い物に行くと、全蔵くんはいつも荷物を持ってくれる。暗黙のルールみたいに。

「あ、このカレンダー先月のじゃねーか。めくるぞ」
「うん。ありがとう」
「あ、あとペン借りるぜ」

キュッキュッ、というマジックの擦れる音がしてカレンダーの余白に11ケタの数字が刻まれる。あれ以降全蔵くんは度々わたしの家に来るようになり、そして毎月律儀に自分の電話番号を書いていく。また倒れられたらかなわない、のだそうだ。
ほんとうは、すっかり覚えてしまったのでもう空で言えるんだけど、毎月ばかみたいに嬉しいのでそれは内緒だ。それに例え優しい瞳を思い描けなくたって、目の前の全蔵くんはこんなにも優しい。

「都会って意外とあったかいよねぇ」
「なんだそりゃ」
「ううんー、なんでもー」

この話を坂田さんが聞き、カレンダーにもうひとつ数字の羅列が加わるようになるのは、まぁ、また別の話ということにしておこう。


-meteo-