仮想


可哀想な神様


何かの間違いだった。

私は君と出会う事を望んでなんか無かった。
そう。ほんの、手違い。
世界の何がしかの歯車の故障だ。
何度もそう言った。
だけどそう言う度に跳ね除けられた。
そうやってまた、彼は私の前に現れた。


「…俺を、覚えているか?」

伏せた視界に、地面についた膝が見えた。
私の目の前に屈んで、彼がいるのだ。
華奢な体躯に似合わない落ち着いた低い声は、いつ聞いても違和感がある。
でも、その声を知っている。

「…薬研、藤四郎」

絞り出すような呟きでも満足したらしい。
皮の手袋に覆われた黒い指先が壊れ物を扱うみたいに私の輪郭をなぞって、両の頬を包んで顔を上げる。
人では無いもの故の美しさなのか、人間離れした整った顔が目と鼻の先にある。
見る分には眼福だが、こんな状況ではそれも腹立たしい。
アメジストを嵌め込んだ様な綺麗な瞳が宝物を見つけた様にゆるり、と満足気に細められる。宝石の中に、ひたすら戸惑う自分が映っている。
存在を確かめる様に頬や顎を何度も撫でられるのは何だか居心地が悪い。

「…やめて」
「断る」

にべもなく跳ね除けられる。
この人はいつだってそうだ。
私の言うことなんて聞きやしない。
私達のしている事は子どもの鬼ごっこと大差ない。
私が逃げて、彼が追う。
私が逃げるのは偏に彼が追ってくるからだ。
いっそ殺しに来てくれたなら良かったのに。
なのに。

「…やっと捕まえた」

するりと細い腕が背中と後頭部に回され、抱き寄せられる。
とん、と軽い衝撃と、ぴたりと合わさる体温。
彼が顔を埋めた私の肩と首筋の間に当たる息が思いの外熱くて、思わずびくり、と体を縮こませる。
この熱に、触れられるのは嫌いだ。
彼の温かい声は、苦手。
まるで私が必要みたいに、優しく囁いて、まるで宝物みたいに大切に、柔らかく触れる。
これが物としての性から来るものなのだとしたら、可哀想な人だ。
こんな私に所有されたいと、それだけが唯一の願いの様にこうして追って来るなんて。

「俺の大将…」

なんて可哀想な神様…。

そう思って、泣きそうになったのはきっと彼が昔の私に似ているからだ。
誰かに必要とされたくて、必死に足掻けば、その願いはきっと叶うと信じて疑わなかった。
疑えなかった。

「…私の、刀なら、…」

その願いだけが、私を生かしていたから。

肩越しに、遠ざかる幾つかの背中の幻を見遣る。
世界で一番大切で、幸せになって欲しかった人達。
愛して欲しくて、でも、死ぬまで私を愛してはくれなかった人達。
私が、不幸にした人達。

「…、どうか、私を…消して…」

気付いたんだ。
どんなに流れ星に願いをかけても、願っても、その願いは、叶わない。
だからどうか、私のせいで不幸になったあの人達に、私が存在しない世界をあげたい。

「…悪いな。それは叶えてやれない」

私を大将と呼び縋る癖に、この可哀想な神様は私の願いを叶えてはくれない。
このやり取りももう何度目になるのか。
私達の願いは何処までも平行線で、何処までも交わらない。
不毛だ。

「…私は、消えたいの…、っ」
「大将…」
「消してっ、…!、私を、産まれる前に、殺して…っ」

彼は聞き分けのない子供を宥めるように困った顔をする。
距離を取ろうと怒りのまま握り締めた拳を振り下ろせば簡単に止められる。
キッと睨みつけても痛くも痒くも無いとばかりに表情は変わらない。

「…あんたに一生恨まれる事になっても、あんたは消させない」
何度存在を消そうと、その度に俺が大将の歴史を戻す。

そう静かに告げる声は揺るがなくて、困惑ばかりが増していく。
それが嘘でないのは既に証明済みだ。
私が私自身の歴史修正を試みる度に、この刀が邪魔をした。
私が何度も自分を消そうとする度に、この刀が私を消させなかった。

「…」

そろり、と白い頬に手を伸ばす。
視線だけで私の手を追っていた薬研は、一度瞼を伏せてからまた私を見た。
水面が月光を浴びた時の様に、静かな瞳が淡く煌めいた。
眩しいくらいに、綺麗だと思った。
でもそれは私にはいらない宝石だ。

「、…可哀想な神様…」

独り言のようにぽつりと零せば、ふるり、と睫毛が微かに震えた。
薬研の頬に触れていた私の手に、薬研の手が重ねられる。
そういえば初めてこの刀に手を掴まれた時に、妙に感動したのを思い出した。
刀の神が顕現した姿だと言うから、その身も刀身のように冷たいと思っていたからかもしれない。
薬研はつ、と静かに瞼を伏せると、猫のように私の手に頬を擦り付ける。

「…」
「…あんたが俺を憎んでも、必要としなくても、俺の大将はあんただけだ」
「…」

私を取り巻く何もかもが、苦しいものであればいい。
優しくて、温かくて、綺麗なものは、全部あの人達に返してあげなくては…。


どうか私に、温かさを教えないで…。

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