切り札を君に

ウタさんと呑んでる話/夢主人間

下り電車を眺めていたら、魔が差して飛び込んでさよなら。
昔、そんな歌詞の歌が好きだったし、そうなってもいいと思ってた。

でも時間に厳しい日本では、出勤も登校もそのほか諸々の待ち合わせも、滞りなく行われなければならない。
電車だって遅れちゃいけないし、遅延対応や事後処理を含めた駅員さんの心労も計り知れない。
そして、後始末と損害金をあわせた、とんでもない額の請求書が家族の元へ届いてしまうなんて、電車への飛び込みはどう考えても全方位に向かって迷惑だ。

いつか思い描いてた感情にも満たないぼんやりした想いは、年を重ねるにつれて大人になってしまった自分に片っ端から否定されていく。

「なに難しい顔してるの」
「うわああああああ」

突然、顔を覗き込んできたウタさんに驚いて、つい大声をあげる。タトゥーだという真っ黒な目にも慣れたし、個性的で格好良いとも思う。

けれど、なんの前触れもなく視界にカットインされると、ほとんどホラーに近い。これは不可抗力というやつだ。キュッとなった心臓がまだバクバクしている。

「ちょっと驚きすぎ。ショックだなあ」

彼は微塵も残念そうではないトーンでそう言って、ドリンクをオーダーしつつ私の隣のカウンター席に座った。

ここは14区にあるバー、Helter Skelter。最初は入りにくそうな店構えに躊躇したけれど、入ってみればなんてことはなくて、週末たまに顔を出す店のひとつになった。

いったい何をやっている人たちなのかは知らないが奇抜なファッションのお客さんも多く、人間観察をしているだけでも楽しい。

その中でも、私の隣に座ったウタさんは目立つ存在でもあった。何度か顔を合わせているうちに挨拶を交わすようになり、今では会うとこうやって話をする仲だ。

「で。何かあったの?」
「いや、なんだか大人になっちゃったな、と」
「唐突だね。大人になるの、嫌なの?」
「お金とか時間とか自由になる面もあるけど、精神的には逆に自由がない、というか」

前に置かれたグラスの氷がゆっくり溶けて、カランと小気味よい音を立てる。

私はそのグラスに少し口を付け、さっきまで考えていた、とりとめのない思考をぽつりぽつりとウタさんに語った。ウタさんは頬杖をついて、うん、とか、ああ、とか、短い相槌で静かに聞いてくれる。

「こういうのって実際にやるかやらないかじゃなくて、ふらりと死んじゃってもいいって心境、ってところが大事じゃない?」

現実と向き合うのは悪いことじゃないけど、大人はやたら現実を見せてマウントポジションを気取りたがるから困る。

ひとつひとつ論理的に潰して、世間的に正しい方向へと誘導して。そして、誰でもなく自分で自分を雁字搦めにしていく。

「自分の頭の中くらい、ルールも規制も法律も、全部取っ払ったっていいはずなのに」
「……そうだね」
「あ、なんかよくわかんない話しちゃってゴメン」
「全然。寝子ちゃんってあんまりそういう話しないから、逆に面白いよ」

空になったグラスを弄ぶのをやめて、こちらに視線をよこしたウタさんが続ける。

「でも、難しいこと考えてるときの、眉間の皺だけは嫌、かな」

そう言って人差し指と中指で私の眉間に触れ、くいっと広げるような仕草をする。

「ん。そっちのほうがかわいい」
「いきなり目と目を合わせて、かわいいとか言わない!」
「言われ慣れてないの?」
「ないよ!」

そんな応酬を繰り広げながら、私はさっきとは違う理由で早くなる鼓動を静めようと必死になっていた。

触れられたからなのか、かわいいと言われたからなのか。でも、これくらいボディタッチともいえないし、お世辞でかわいいと言われるのだって、ごく普通に有り得ることだ。この焦りようは、我ながら変。早く取り繕って、流してしまおう。平常心平常心……。

「今日だって、上司に『可愛くない奴だな』って、散々……」
「ぼくは、寝子ちゃんかわいいと思うけどな。くるくる表情が変わるのも、かわいい」
「ヒイッ!」

不意打ち、そして追い打ち。若干首を傾げながら発する言葉の破壊力が高い。なんだこれは。これ以上は耐えられない。
どうしてこんなに動揺しているのか分からないけれど、焦れば焦るほどどんどん顔が火照ってしまうのが自分でも分かる。

「ちょっとふたりとも、イチャつくなら場所変えてよねー?」

ウタさんが追加で頼んだドリンクを運んできたのは、店主のイトリさんだ。ウタさんとは古くからの知り合いで、半ば腐れ縁だと聞いた。

「イチャついてないですよ!全然!」
「ぼくも、まだなんにもしてないよ」
「まだ、ねぇ……ウーさんの“まだ”は、信用できないな……」

私たちの様子を眺めてからかいながら、イトリさんは可笑しそうに笑う。

「寝子ちゃんも、ムキになっちゃうところがアヤシイわ」
「じゃあ、なんかしたことにしとこうかな。これって既成事実かな?」
「違うッ!」

お酒の席での冗談だと頭では分かっていても、ついつい必死に弁解してしまう。それが余計にふたりの笑いのツボにハマって、悪循環だ。

しばらくそんなやりとりを楽しんで(楽しまれて?)いたけれど、帰りの電車の時間が迫ってもいた。これに乗り遅れると乗り継ぎが面倒なので、できれば避けたい。

そろそろ帰ると告げると、イトリさんがハンガーに掛けていた私のコートを手渡してくれる。

「女の子だし、あんまり遅くなると物騒だしね」
「ウタさんに夜道でばったり出会ったら、思わずダッシュで逃げる自信あります」
「さっきもビックリされたけど、こう何度も言われると地味に傷ついちゃうな」

イトリさんは、ウーさん報われないわね、と笑いながら、ありがとうまたね、と言い残して店の奥へ。
いつもポーカーフェイスな表情が、心なしか曇っている気がするウタさんとともに残されてしまって、なんだかきまりが悪い。

「やだな、今のは冗談ですよ。散々イジられたお返し。また来週、呑みましょ!」

そう笑いかけた私の顔を、じっと見つめてくる黒い眼。いつものようにヒラヒラ手を振って挨拶してくれることもなく、しばらく無言のまま時間が過ぎる。

私がその沈黙に耐えかねて、声を発しようとした寸前。ウタさんは上着のポケットから一枚のカードを取り出して、私に差し出した。私も、なんとなくそれを受け取って眺める。ショップカード、かな。

「週末じゃなくても、大抵そこに居るから遊びにおいでよ」
「え、と。ここは?」
「ぼくのお店。寝子ちゃんはあんまり大人になりたくなさそうだけど、ぼくは大人だから切り札を出してみました」
「ん?」
「なんでもないよ。取って食ったりはしないから、来たくなったらおいで」

そう言って、ふふ、と笑うウタさん。これは……またからかわれている。

いつも、ウタさんはあまり自分のことを喋らない。場当たり的な会話は弾むけれど、何をしてるとか、どこに住んでるとか、そういう話になったことはない。

お店の名前はなんて読むのか、とか、聞きたいことはあったけれど、早くしないと電車遅れちゃうよ、と急かされて店を出た。

帰り際の彼は普段の飄々とした雰囲気に戻っていて、その表情から真意を汲みとることも私にはできなかった。

駅へ向かう道すがら、ちらりと手の中にあるカードに目をやる。ウタさんのお店って、どんなところなんだろう。アートマスクって何だろう。気になる。どうしようもなく気になる。これも彼の作戦なんだろうか。そして、私はまんまと術中にハマっているのだろうか。

ぐるぐる考えてしまうのは私の悪い癖でもある。きっと、また眉間に皺が寄っているに違いない。そして、片っ端から否定していくのも大人の悪い癖だ。きっと、大切なのは最初の衝動。まだ言葉で整理できない、感情。

気になるなら、行ってみるだけじゃない。このカードがKingでもJokerでも、私が決めて、選んだことだし。

いつ決行しようかな。明日……はさすがに急かな。来週の仕事のスケジュール、どうなってたっけ。

帰り道を急ぎながら、頭の中はすっかり未来の計画でいっぱいだった。
わくわくしているのは好奇心。でも、本当はそうじゃなかったことに気づいたのは、もう少し後のお話。



「ウーさんが堂々とナンパするの珍しくない?」
「んー、ルールも規制も法律も、全部取っ払ってくれるかどうか、賭けてみたいんだよ」
「一応忠告しとくけど、たぶんそれ本気になるやつだわ」
「……そうだったら楽しい、ね?」