Happy Valentine…?
朝起きて一番に、するべきことはなんであろうか。少なくともいつの間にか我が物顔で家に居座っている傲慢な自称神にお茶を出すことではないことだけはルチアは知っている。
目が見えないながらに耳や肌で世界を見ているルチアにとって、本当の意味で1人になれる自宅に自分以外の人間がいるというのはおちおち眠っていられないほどに違和感のあることだった。まあそんなことはロキには関係のないことで、ルチアが起きてくるなり「この家は客人に茶のひとつも出さないのか」と不満げな声をあげた。
ポットに水を入れ数秒待つとカチッと子気味いい音がして空気がほんのり暖かくなるのを感じる。それこそ数年前まではこんな道具は存在しなかった。
便利な世の中になったものだなと考えながらルチアはインスタントコーヒーをセットしたマグカップにお湯を注ぎながら「そういえば」と思い出したように言葉を紡ぐ。
「ロキ、バレンタインって知ってる?」
「バレンタイン?なんだそれは」
「やっぱりそうだよなあ」
予想通り、と言うように呟くとロキは気分を害したのか眉間に皺を寄せルチアを睨んだ。そんなロキの表情など知る由もないルチアは入れたばかりで湯気の立つコーヒーをふたつ、テーブルの上に置きロキの座っているソファと向かい合うようにして床に腰を下ろす。
「だってほら、神様ってチョコレートとか食べなさそう」
「チョコレート?」
「甘いお菓子。地球のね」
「甘い物ならアスガルドにもある」
「へぇ例えば?葡萄とナッツ以外でね」
「………」
先手を取られて黙り込むロキにルチアは「ほら、知らない」とイタズラの成功した子供のように楽しそうに笑う。それがまた気に食わないので、出されたコーヒーを一口飲んでわざとらしく音を立ててテーブルにマグカップを置いた。
「そもそも、そのバレンタインとやらとチョコレートになんの関係がある。私の知らない知識を披露して楽しいか?」
「披露した訳じゃない、知ってるかどうか聞いただけ」
ロキに続くようにコーヒーを一口飲んでルチアがふ、と息を吐く。
「それっぽく甘いココアでも出せたら良かったんだけどね。家にあるのはS.H.I.E.L.D.が用意してくれる物だけだから、そんな物なくて」
その一言で充分、彼女の世界がどれだけ狭い物なのか想像がつくだろう。ロキは心の中でルチアを憐れむと同時に、自分の口角が上がっていることに気付き彼女の目が見えないことに感謝した。
「それで、結局バレンタインとはどういう日なんだ」
「ええと…好きな相手とか、お世話になってる人にチョコレートを渡したり渡されたりするイベント?」
「まあ、感謝を伝える日って言った方がわかりやすいかな」とルチアが付け加えるとロキはくだらないとでも言うように小さく鼻で笑った。
「それで、お前は誰かに渡す予定でもあるのか?」
「ないけどさ」
そこで会話は途切れた。ルチアは何をするわけでもなくただぼんやりと窓の外を向いていて、ロキはその様子に何かを言いかけて、そのまま言葉を飲み込み同じように窓の外を見た。
「…道理で、街中カラフルなバルーンがあちこち浮いているわけだな」
「そうなんだ」
無言の時間を切り裂くようにロキが言うと、少し驚いたように肩を揺らしたルチアがロキを一瞥し、また窓に視線を移す。
「なんだ知らないのか?」
「だって、見えないし」
当たり前だという顔でそう呟いたルチアに、ロキは顔を顰める。見えない、と言うよりも見る気がない、と言った感じだ。
バレンタインという概念をたった今ロキに教えたはずのルチアがそのイベントに心躍らせる街並みに興味を示さないとは何事か。
ロキは面白くないと言わんばかりに更に眉間のシワを深め、先程飲み込んだ言葉を吐き出すように続けた。
「アスガルドではこの時期になると、街全体がピンクに染まる」
「嘘じゃん」
「赤や黄色、緑なんかもあって見ていて飽きないぞ」
「…本当に?」
「本当な訳ないだろう」
予想していなかったロキの冗談に唖然した表情を浮かべるルチアを見て、悪戯が成功した子供のように声を出してロキが笑う。
それに釣られてルチアも小さく笑った。
「ねぇロキ、街中を散策しようよ」
「散策だと?」
「そう、雰囲気を楽しむの」
「浮き足立ってる街のね」と笑うルチアにロキは小さくため息をついた。先程までは外の景色の変化には興味のない素振りを見せていたのに、今ではロキを急かすように立っている。
ちっぽけな人間ひとりに心を割くのも時間を費やすのも、全てがバカバカしい。ロキはこれでは兄上と同じではないかと心の中で呟く。
それでもなんとなく、差し出された手を拒むことをしなかったのは、少しだけ心が休まる気がしたからだ。