「なまえ、」

 わたしの名前を呼ぶ声がして、少しひんやりとした手に肩を揺さぶられた。本当はまだ眠いし、起きるには少し早い気がする。けれど、わたしがこの声に抗えたことなんて、今までに一度だってないのだ。目を開けて、三回瞬きをする。悠一と、ようやくきちんと目が合った。
「おはよ、なまえ」
「おはよう…」
 悠一がわたしよりも早く起きるのなんて、珍しいことだった。休日だし、何処へ行こうとか何をしようという話も特には出なかったから、お昼過ぎに起きて一日中のんびりするものだと思っていたのに。時計の短い針は、きっかり五時を指していた。
「なんで起きるのこんなに早いの…」
「寒くて目が覚めたからかな」
「お布団の中は暖かいじゃない」
「それはなまえが自分の方に布団を引っ張ってったからだろ。俺は寒かったの」
 苦笑いで悠一がそう答える。なるほど、わたしのせいだったのか。だからあんなに暖かかったんだ。ごめんね、と小さな声で謝ると、悠一はいつものように許してくれた。わたしが大好きな、まろやかな優しい声音で。
「全然気にしてないから」
「ほんとに?もう寒くない?」
「うん、平気」
 悠一はわたしのことを甘やかすのがとても上手だ。わたしはそのことをよくわかった上で、黙って悠一に甘えている。わたしたちの関係は、普通の恋人のそれよりもやわらかな甘みを帯びていて、ずっと親密なように思える。友達から恋人の話を聞くと、より一層そのように感じてしまう。そんな時、わたしは決まって少しだけ誇らしく思うのだ。
「なぁ、それよりさ」
「うん?」
「ほら、外凄いよ」
「外…?」
 そう言って窓の方に視線を移した悠一に倣いわたしもそちらを見る。ベッドの上からじゃ、外の景色はよく見えない。裸足のまま降りて、窓の側まで歩く。少し温度が低いからか、床がやけに冷たく感じた。
「わ、真っ白」
 窓の外を見ると、一面雪が積もっていた。昨日までは庭もいつも通りだったのに、今はまるでまっさらなノートみたいだ。まだ足跡が一つも無い。さっきまではあんなに眠たかったのに、もうすっかり目が覚めてしまった。恐らくその理由は、ひんやりとした床の温度だけのせいではない。
「一番最初に足跡付けたいね」
「それ、言うと思った」
「サイドエフェクト?」
「使わなくてもなまえのことならわかるよ」
 自分のダウンジャケットをわたしに着せて、悠一は自分が普段も着ているジャージを羽織った。その格好は見るからに寒そうだ。せめて首元くらいは、と思いソファに置いてあったマフラーを悠一の首に巻いてあげると、優しく笑ってわたしの頭を撫でてくれた。
「ありがと」
「悠一に風邪ひかれたら困るからね」
「はいはい」
 玄関でそんなやりとりをして一歩だけ踏み出すと、冷たい空気が頬を刺す。真っ白い絨毯みたいに足元が柔らかくて、寝起きの身体がおぼつかない。まるで夢の中を歩いているような感覚だった。冬だからと植えたクリスマスローズも雪化粧して、庭先に佇んでいた。
「綺麗だな」
「…足跡付けるのもったいなくなっちゃった」
「もう外に出てるのに?」
 そう言って悠一がからかうように笑う。玄関先で立ち止まったわたしの横で、悠一も真っ白い地面を見ていた。夜が明けたばかりの空に、悠一の横顔はよく似合う。二人して冷たい空気に溶け込んでしまいそうな明け方。わたしはその横顔を暫し見つめ、ゆっくりと瞬きをして心の中でシャッターを切る。まばゆいばかりに白くて、柔らかいこの景色を、うつくしい悠一の横顔をいつまでも覚えていられるように。

花冷えの微睡み
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20150116



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