月曜日はピアノで、火曜日と木曜日は塾。水曜日は家庭教師の先生が来る。放課後のスケジュールを話したとき、頬杖をついた春名くんは、みょうじちゃんって偉いよなあ、と言った。わたしからしたらお仕事をしている春名くんの方がよっぽど偉いのに。

「みょうじちゃん、今日カテキョじゃね?」
 いつもの水曜日ならば、ノートを捲り、ペンを走らせる音のみが響く静かな教室の隅に突然訪れた、厄災のような一言だ。単語帳を見るふりをしながら、古典のノートを写している春名くんの真剣な眼差しを向かい側から眺めていると、彼は不意に教室のカレンダーと時計を交互に確認してわたしに目線を寄越した。普段より焦った様子の、少し困ったような声音。お仕事でいない授業のノートを見せるのはいつしかわたしの役目になっていた。本当はコピーを渡してもいいけれど、一緒にいる時間が増えるのが嬉しいから、結局ずっとこのまま。春名くんが今より忙しくなったらやめなきゃいけないのかな、と考えながらわたしも時計を見た。普段ならもうそろそろ帰る支度をしなければ間に合わない時間だ。でも、今日は違う。
「ママにお願いしてやめさせてもらうことにしたの。今代わりの人探してるから、今日はまだ大丈夫」
「あ、そーなんだ。今回そんな変な奴だったっけ」
「……他人の卒アル見ながらクッキー食べるひと」
「みょうじちゃんって卒アルとか大事にするタイプ?」
「うん。寄せ書きあるから」
「なるほど」
 アルバイトの大学生である家庭教師は、屈託のない笑みを見せ、母親に気に入られていたようだった。そつなく授業をこなし、よく笑う、少々無神経な女子大生。白いローテーブルと、アルバムに零れ落ちたクッキーの欠片。その光景を見たとき、間違いなく私の中でなにかが冷めていくのを感じた。
 帰りたくないな、という呟きは、わたしたち以外の人がいない放課後の教室に、思っていたよりもずっと寂しげに響いてしまった。なんとなく気まずさを覚え机に額をつけると、大きな手で頭を撫でてくれる。しとしとと降る霧雨のような、優しさに満ちた甘やかしを素直に受け入れることができるのは、相手が春名くんだからなのだろう。
 他人なのに、手放しで甘えてもいいと思えるのは何故なのか。春名くんはわたしが願ったことを全部叶えてくれる。わたしはそれが嬉しくて、でもほんの少しだけ苦しい。春名くんだけは、彼が彼である限り好きだと言える自信があるのに、どうして苦しいんだろう。理由の見つからない問いが次々と浮かぶのはいつものことで、最後に出る答えは、わたしが彼のことをどうしようもなく好きだから、という事実のみであるということもまた、いつものことだった。
 机から額を離して顔を上げると、春名くんが丁寧な手つきで乱れた髪を直してくれる。一瞬、唇の端に親指が触れた。少しだけ期待している自分がいる。
「……春名くんが先生だったらよかったのになあ」
「オレ、みょうじちゃんに教えられる教科ないけど……」
「え、あるよ」
「嘘、何?」
「保健体育」
 わたしたちの間に不自然な沈黙が満ちた。春名くんがいつも保っている、年上の余裕みたいなものが崩れる瞬間は、好き。
「……みょうじちゃんさ、どこで覚えてくんの? そーいうの」
「えへへ」
「褒めてねえし……」

QandA   210330



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