長い廊下のちょうど真ん中あたりの扉の前。端末にカードキーを差し込む彼の指先を目で追う。柔らかなカーペットに沈み込んでゆく真新しい靴の底。靴擦れするかと思い絆創膏をポーチに入れておいたが、その心配は杞憂に終わった。緑色の光が点灯したのを見届け、ドアノブを回して扉を開ける。
 部屋に足を踏み入れ、まず目に飛び込んできたのは、キングサイズの天蓋付きベッドだった。思わず感嘆の声をあげる。ほとんど手ぶらで来たので、進む足取りは軽快だ。室内の装飾はどこも華やかで可愛らしい。そのままバスルームの扉の奥を覗き見る。豪奢なフレームの鏡に、ジルスチュアートのアメニティ。床はマーブル模様の大理石で、バスタブはずっと憧れだった猫足付き。知らないにおいを吸い込む。
 フロントでやけに愛想の良い店員にグレードアップの有無を問われ、じゃあお願いします、と答えたのは四季だった。狭いエレベーターに乗り込んだ途端、内緒話のように声を潜めて「グレードアップっていう概念、ラブホにもあるんすね……」と神妙に呟いたのがなんだか可笑しくて、つい思い出してしまう。
 ローテーブルの上にはシャンパンやお菓子、ハニートーストの引き換え券が置かれていた。女子会プランがキャンセルになったらしい。わたしの着ていたコートをハンガーに掛けている四季を横目に、ふたり分のスリッパを出す。お姫様が使うような真っ白いベッドの端に腰掛け、以前お気に入りだと言っていたマーチンを脱ぎながら四季は首を傾げた。
「みょうじちゃん、ラブホ初めて?」
「初めてじゃないよ? 三回目かなあ」
「えっ」
 脱いだブーツを揃えながらほぼ反射のように問いに答え、驚いたまま固まってしまった彼の隣に座る。ベッドの上は思った以上に柔らかく、不安定だ。スリッパに履き替えずに乗り上げて、力なく項垂れた様子の四季の顔を覗き込む。案の定、捨てられた子犬みたいな表情をしている。
「男と来たの……?」
「ううん、女の子とお泊まりしたの」
 にっこり笑って本当のことを伝えると、ぱちぱちと忙しなく瞬きを安堵した様子で息を吐く。以前年上の女性からは馬鹿っぽいと言われたわたしの話し方を、四季だけがかわいいと言ったことをふと思い出す。
「焦った? びっくりした?」
「……どっちも」
「ふふ、ごめんね」
 彼は良くも悪くも正直なので、揶揄うと面白い。あんまりやりすぎると拗ねてしまうけれど、大抵のことは笑って許してくれる。許されるわたしより、ずっと安心したような表情をして。
「四季は来たことある?」
「オレは初めて」
「そうなんだ。あのね、ネトフリ観れるよ」
「え、いいっすね」
 レンズの奥の瞳が輝いた。それだけでわたしの心は満ち足りてしまう。テレビの液晶を正面にして、ベッドの上で肩を寄せ合う。何観よっか、なんて相談していると、普段している家でのデートと何ら変わりない。
 液晶画面のトップページに出て来たのは幼い頃に再放送で見ていた女児向けのアニメだった。別のものを探そうと、使い慣れないリモコンのボタンと格闘する。彼が少し低いキーで口ずさんだオープニングのメロディを耳で追いかける。
「よく知ってるね」
「姉ちゃんが見てた」
 彼は画面を見たままでそう答えた。どんな表情をしているかは見なくてもなんとなくわかる。彼は口数が多いように見えるけど、必要じゃないと判断したことはあまり話そうとしない。
 結局、お互いよく知らない洋画を選んだ。一昔前のラブロマンス。ありきたりな物語は、単調な足取りで滞りなく進んでいった。先がなんとなくわかっていても、段々と魅せられていく。
 なんとなく口寂しさを感じて、鞄の中を探る。お目当てのものはすぐに見つかった。ピンク色のパッケージが可愛くて買ったチョコレート。手付かずのシャンパンとスナック菓子はテーブルの上で物悲しく佇んだまま。チョコレートを口に入れると、舌の温度で魔法のように溶けてゆく。0.8パーセントの洋酒とストロベリーの香りがほんのりと残る。
「あ、限定のやつ」
「うん。食べてみる? ちょっとお酒強めだけど」
「平気、だけど……」
 不自然に四季の言葉が途切れた。液晶画面を見るのをやめて、顔だけそちらに向ける。映画のBGMが遠のいていく。少し明度を落とした照明の下。普段はあまり見ることのない、少し緊張したような面持ちの四季がそこにいる。
「ね、みょうじちゃん。ちゅーしたい」
「いま……?」
「うん。だめっすか?」
 言葉の響きが幼くて、思わず気が抜けてしまう。でも、四季はちゃんと男の子の顔をしていた。眼が熱っぽく潤んでいる。誘うの下手だよね、って言ったら拗ねるかな。淡いクリーム色のフロアライトに照らされた四季を正面から見据えつつ、そんなことを考えた。リモコンでテレビの音を少し小さくする。正直ストーリーの結末が気になっていたけれど、それはまた今度。
 手を重ねたのを、彼は肯定と受け取った。くちびるが奪われて、触れた部分から甘い痺れが走る。酸素を求めているはずなのに、もっとして欲しいと願ってしまう。肩のあたりに添えられた手の力が少しずつ強くなり、そのままベッドの上に押し倒される。案外質の良いマットが、沈んでゆく身体を優しく包み込む。気持ちよく眠れそうだが、このまま寝てしまうのは些か勿体無い。心置きなく眠れるのは、お楽しみの後、微睡みのそのまた先。
 唇が離れていくのを名残惜しく思う。あまいね、と言った彼の瞳はうっすらと欲が滲み、熱を帯びて光っていて、わたしはつい見惚れてしまう。わたしの首元を確かめるように、四季の指先が触れた。ネックレスのチェーンが素肌に触れて擽ったい。ペアのアクセサリーが欲しいと言ったのは四季だったけど、ヴィヴィアンがいいと駄々をこねたのはわたし。少女漫画に出てくるお似合いのカップルに憧れていたから。わたしが南京錠で、四季が鍵。所有されている証みたいだと思ったあの日のことを、遠い夢のように思い出す。みょうじちゃん、オレのになりたいの? そう問いかけた四季の甘ったるい瞳にぞくぞくして、わたしは彼のためなら全てを投げ出したっていいと思った。ずっと前からわたしは四季のもの。所有されることの喜びを教えてくれた男の子。
 改めて彼をじっくりと眺めて、触れる。男の子にしては華奢な身体だ。ふたつボタンが開いたシャツからほんの少しだけ覗いた鎖骨が色っぽい。艶々とした黒い髪と眼鏡、それらには少々アンバランスだと思われるピアス。頬を包むと、たくさん開いたホールを塞ぐシルバーのピアスが小指に触れて、息を詰める。細かい針で心臓を刺されているような感覚に襲われ、もう片方の手で彼の着ているシャツの裾を掴んだ。
「四季、ピアス取って」
「うん?」
「……冷たいの、ちょっと怖い」
 四季は返事の代わりにわたしの頬にままごとみたいなキスをした。触れた部分に鮮明に残ったはずの温度は、部屋の空気に同化するように消えてしまう。四季はまず腕時計と眼鏡を外し、ピアスのキャッチを片手で器用に外していく。眼鏡をしていない時はさほど幼く見えないな、と、今まで何度も思ったことをまたしみじみと考える。彼はひとつひとつの動作を目で追っているわたしに気が付くと微笑み、最後に指輪を外した。その手でそっとわたしの耳朶に触れる。
「みょうじちゃんは開けないの? ピアス」
「うん、痛いの好きじゃないし」
「多分病院だとそんなに……って、オレが言っても気休めにしかならないっすかね?」
「よくわかってるね?」
「みょうじちゃん、すぐオレのことからかう……」
 拗ねたような表情が可愛くて、もう一度頬に触れた。目線がぶつかり、どちらともなく笑う。瞼に唇を寄せると、睫毛の震えや、擽ったそうに小さく笑ったことまで鮮明にわかる。
「……四季が開けてくれるなら、開けようかな」
「ピアスっすか?」
「うん」
「ほんとに?」
 顔を覗き込まれて、自然と頷く。彼に問われて初めて、本当はずっとそうして欲しかったのだ、と思う。今日の答えがいつの日か証明になるかもしれない。わたしが、わたしのぜんぶが彼のものであるという証。四季はわたしの耳に唇を寄せて囁いた。見えない印を刻むみたいに。
「じゃあ優しくしなきゃ、ね」
 純粋な好意で満ちている、と思わせる声音は甘さと柔らかな湿り気を帯びて、部屋の隅々まで侵食していくようだった。一緒にいることができるなら傷付いたって不幸になったって構わないのに、彼はわたしを幸福から逃してくれない。嘘がない、と心から信じることができる男の子はわたしにとって四季だけだ。彼が心を許している人間がわたしだけじゃなくても、その事実は揺るがない。一抹の寂しさは、世界で一番の愛され上手に恋をしてしまった者が背負う宿命なのだ。わたしはいつだって、自分の持っていない何かに焦がれている。
 再び距離が縮まるのと同時に、つめたい指が皮膚をなぞる。愛を語るには拙いわたしたちのくちびるが触れ合って、境目が曖昧になっていく。 


20210412  くちづけの底



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