海だプールだ祭りだ花火だ。夏の楽しいことなんて幾らだって思い浮かぶのに、太陽の煌びやかな日差しとは裏腹に私の心は深いどん底の海へと落ちてしまったかのようだった。
今年の夏期休暇、実家へ帰らなければならなくなった。元々一日二日くらいは里帰りするつもりでいたものの、昨日掛かってきた一本の電話によってそれはあっという間に憂鬱な物へと変わってしまったのだ。
この時期の親からの電話なんてせいぜい近況報告か、連休は帰ってくるのかとか、そんな当たり障りのないものだとばかり思って何も考えずに通話ボタンを押した。内容は概ねそんなものだったけれど、今回はひとつだけ大きな番狂わせがあったのだ。
いつも通りに電話に出て、休暇は帰ってくるのかと想像したのと同じように聞かれて。帰るよ、と返した途端に空気が変わったことに最初は気付かなかった。
「ところであんた今彼氏いるの」
「近所の方の紹介で良い人とのお話があってね」
「いないなら会うだけ会いなさい、いいわね」
此方の静止の声も反論も聞こえないふり。矢継ぎ早に言葉を浴びせられ言いたいことだけ言ってぷつりと途切れた声とその後の機械的な電子音に、最新のスマートフォンを力の限り投げつけたくなったのは言うまでもない。
勿論母に告げたように今現在お付き合いしている人はいない。だけどもそんなに切羽詰ってお見合いをするような歳じゃないし、お付き合いしている人はいなくても気になってる人くらいはいる。いるのだ。
斜め前のデスクで何気ない顔をして書類に目を通しているその人の姿を、偶然を装ってちらりと視界に入れた。瞬間ぱちりと目が合って、凛々しい眉毛が持ち上がる。
「苗字さん、忙しない時の中齎された希望のひとときを共に過ごさないか?」
「はあ、ランチですね。いいですよ行きましょう」
ちょうどお昼開始の合図が鳴って、視線が合ったついでとばかりにランチに誘われた。こんな回りくどい誘われ方をしてどうして分かるかって?松野さん語は深く考えたら負けである。
言われたことをそのまま感じ取れば大体分かるよって言った後に同僚から変なものを見るような顔をされたのはまだ記憶に新しい。彼とお昼を共にするのはこれが初めてでもなかったのでふたつ返事で了承すると、キザったらしい笑顔が緩やかに屈託なく綻んで。ああ、この瞬間のこの顔がたまらなく好きなんだなあと柄にもなくトクリと心臓が脈打った。
「夏もすっかり本番だな。サンシャインが眩しいぜ…」
「本当に…蝉の鳴き声を聞くと余計に暑くなっちゃいますね」
むわりと熱気を含んだ風が肌を撫でてくる。涼しいお店でランチといきたい所だったけど、生憎お昼の時間帯はどこもかしこも混んでいるので近場のコーヒーショップでテイクアウトをして会社の共用スペースで昼食を取ることにした。中味のない会話をしながらちらりと隣を歩く松野さんの姿を盗み見する。クールビスで取り払われたネクタイの代わりにいやらしくなり過ぎない程度に開いたシャツから覗く喉元と、腕まくりによって曝け出された程よく引き締まった腕に暑さ関係なくくらくらしそうになりながら涼しいコーヒーショップの中へと足を踏み入れた。
「苗字さんは夏期休暇何か予定はあるのか?」
「あー…いろいろ行きたいなあとは思ってるんですけど。取りあえず数日実家に帰らないとで」
「帰省か。ファミリーと共に過ごす時間も大切だな」
無事お昼を購入して人もまばらな共有スペースのテーブルに腰を落ち着かせた。フレッシュなレタスが挟まったサンドイッチをもくもくと食べながら渋い顔をしていると「そんなに眉間に皺を寄せると可愛い顔が台無しだぜ」とんっと厚い皮の指が私の眉間に置かれる。いきなりの出来事に何をしてくれるんだと、羞恥が顔に出ないように取り繕いながら今できる精一杯で顔を引き締めた。するとかっこつけのキメ顔がまた崩れて「何かあったのか?」と眉を下げて聞いてくるものだから、食べかけのサンドイッチが喉に詰まりそうになった。
「今日は朝から暗い顔をしていたな」
言いながら松野さんは自分が買ったお昼の袋からコーヒーショップで売られていた焼き菓子を取り出して私のほうへと差し出した。暫く行動の意図が掴めなくて呆然としていたら「ほら」言いながら私の手のひらに焼き菓子を乗せて表情を柔らかくさせた。甘いものでも食べて元気を出せと、ようやく伝わってきた彼の行動の意味や優しさにまた私の心臓は跳ね上がってしまう。それでなくても朝会った時から自分のことを気に掛けてくれていたのだと自惚れても仕方のないような言葉を浴びせられて、トクトクと規則正しく動いていた脈はあからさまに早くなっていった。
「俺に話したところで何の解決にもならないだろうが、良ければ何故そんな顔をしていたのか話してくれないか」
躊躇なく私の手に触れた長い指はお菓子を渡した今も何故か離れていくことはなく、そのまま松野さんは言葉を続けていった。普段からフレンドリーに声を掛けてくれる人ではあったけど、こんなにスキンシップをとってこられたのは初めてでいろいろと回らなくなってきた頭は何の考えもなしにぽろりと昨晩あった出来事を口から漏らしてしまった。
「実は…昨日親から電話があって。お見合いしろってうるさく言われて」
勢いに負けて断れなかったんですよね、と続けたところで。密かに思いを寄せている相手に対して何を馬鹿正直に話しているんだと。そう気付いた時には遅かった。こんな話題をふられても困るだろうし、第一好きな相手にそんなことを話したところで一ミリの得にもならない。「そうなのか、大変だな」と心配されたところで虚しくなるだけというやつだ。
どんな反応を返されるのか怖くて、反射的に顔を俯けてしまった。私が言葉を伝えた後、何故だか松野さんは口を開くこともぴくりと動くこともなくなって周囲にいる人たちの身動ぎの音や話し声しか聞こえなくなってしまった。何だか様子が変だなあと少しだけ顔を上げようとしたら、その瞬間。添えられたままだった指が痛いくらいに私の手を握り締めてきて、予想していなかった出来事に反射的に顔を上げてしまう。思ったよりも近いところに松野さんの顔があったのには驚いた。ばちりと勢いよく視線が交わる。
「お見合い、するのか」
「は、はい。」
「お見合いして、その相手と結婚するのか」
「そんなの、わかりません」
「じゃあするかもしれないんだな?」
「だ、だからわかりませんって!」
強く手を握り締められ、普段じゃ考えられないような近さで話しているという事実に目を回しそうになっていた。少しでも平静を保ちたくて握られている手から逃れようと腕を引いたら、逃がさないとばかりに松野さんの手には更に力が込められた。
「ま、まつのさん、あの、て、はなして」
「苗字さん」
「はいっ…?」
「苗字さんの実家に俺が着いていけば」
「…はい?」
「俺が苗字さんの恋人になって、実家に着いていけば。お見合いはしなくて済むんじゃないか?」
言われた言葉の意味がすぐには理解できなかった。こんがらがる頭の中で必死に言われた言葉を繋ぎ合わせて、顔を真っ赤にさせながらも全く嘘のない瞳で真っ直ぐと此方に視線をつきつけてくる松野さんと視線を絡ませて。ようやく言葉の意味を理解した時には、目頭が熱くなっていた。
「回りくどい言い方をしたな」
「好きだ。まだ会ったこともない男を選ぶくらいなら、俺を選んで欲しい」
▼
本当はもっと、スマートに伝えるつもりだったんだけどなあ。
ぽつりと取りこぼすように呟いた松野さんに首を傾げながら言葉の意味を問うように視線を送ると、「いや」バツが悪そうに頬をかいて目を逸らされた。なんでもないさ、と笑顔を向けられたら何も言えなくなってしまったので、納得いかないながらもそれ以上の追求はやめることにする。
大きなボストンバッグを手に取るとひょいと横から攫われていく。当然だとでも言いたげな顔でそれを担ぎあげると、松野さんは空いた私の手を取って忘れ物はないかと首を傾けて確認をとった。
着替えは持った。お化粧品もお土産もお財布も貴重品類も。
そして今回は、2人分の電車切符。頂いたお見合い話をあっさり蹴って恋人を連れていくと告げた時の両親の驚きようと小言を思い出しては気が重たくなるけれど、隣に松野さんが居てくれるなら、まあ何とかなるかと気持ちを入れ替えた。
今年の夏の帰郷は、特別な物になりそうだ。