第一印象は確か、「ああ。イケメンだ」だっただろうか。
一週間たっぷりと働いて、心も体もくたくたに萎れたタイミングで開いた喫茶店の扉の先に甘いマスクの男性がいたなら、更にそんな人から優しく店内へと導かれたなら、誰だってそんな印象を持つだろう。
心身共に疲弊した体に染み渡る美味しい料理。丁寧に入れられたコーヒー。労わりの言葉を掛けてくれるイケメンに美女。
まさに、心のオアシス。
そんな癒しの空間に通うなという方が無理な話だった。というわけで今日も私は疲れきった体を引っさげて、喫茶店ポアロの扉を開くのだ。
「いらっしゃ…ああ、名前さんでしたか。華の金曜日だというのに、今日もお一人様で?」
そう、当初あんなに愛想よくにこにこ笑いかけてきてくれるだけだったイケメンから手馴れたようにあしらわれるようになろうとも。お一人様、という言葉がゴッ、と石のように頭の上に落ちてきても。懲りずに私は今日もこのポアロへ通うのだ。
通うったら通うのだ。
「はい、見ての通りお一人様です。安心しました?安室さん」
「そうですね。店員の立場としては、お金を落としていってくださるお客様が変わらず足を運んでくださって安心します」
「うっ、この減らず口!ナポリタンひとつ!」
「畏まりました」
むっとした表情を隠しもせずに肩を怒らせるついでにオーダーを叫ぶと、安室さんはいつもと変わらない笑みをひとつ落としてカウンターの裏へと下がっていった。
席へ案内もせずに奥へ引っ込むのは職務怠慢でもなんでもなく、単に私の座る席が毎度決まっているからだろう。
カウンター席の一番左。ここに座るのが当たり前と認識されてしまう程には、通うようになって随分と経ったことが嫌でも分かってしまう。
金曜日の仕事終わり。
初めてここを訪れた時は、それはもうへろへろに疲れきっていた。家に帰ったところでご飯を作る気力なんてないし、かと言ってコンビニ弁当なんて味気ないし。という理由でたまたま開いた喫茶店の扉をまさか、毎週末開くようになるなんて。その時の私は思いもしなかった。
「ナポリタンお待たせしました。サラダもどうぞ」
「わあ…おいしそ。頂きます」
たちあがる匂いに、ほかほかな湯気が彩りを添える。
目の前のこれがおいしいことは口に入れる前からもう分かっている。何度目になるか分からないという程食べたのだから。
ちなみに安室さんのお手製で評判なハムサンドについては、未だに注文したことがない。夕食にパンというのは自分の中でなんとなく違和感があるし、それを注文するときは目の前のこの人のポーカーフェイスを崩した時だと自分の中で勝手に決めているからだ。
ポアロの店員安室透さんとは、私が此処へ通いだしてからの付き合いになる。当初はひたすらに紳士なイケメンだとしか思っていなかった安室さんが気付けば随分気安い様子で話しかけてくるようになっていて、何だか少しだけ心を許されたような気がして嬉しくなってしまったのはまだ記憶に新しい。
しかしながら、最近返ってくる言葉が中々辛辣な時があったりするのはきっと気のせいではない。
最初は此方の冗談に面白おかしく返してくれていただけだったのが、なんだかエスカレートしていってるような。
いやきっと、此方の発言もまた気安くなっていったからに違いないのだけど。
「毎週末飽きもせずによく来てくださいますね。有り難いです」
「でしょう?もっと有り難がってもらって構いませんよ」
「ありがとうございます」
「はい、今の言葉ぜんっぜん心が篭ってませんでした!」
こんな会話も珍しくなくて、その度に梓さんから面白そうにされていることにも気付いている。「名前さんと安室さんって仲良いですよね」なんてこっそり耳打ちされた時には、馬鹿みたいに慌ててしまって余計に笑いを誘ったのも恥ずかしい思い出だ。
「…あれ。私、デザートなんて頼みましたっけ?」
ナポリタンを美味しく完食して、食後のコーヒーに舌鼓をうっている所にことりと目の前に置かれた皿に目を丸くさせた。
反射でその皿を置いた褐色の手を視線で辿っていくと、こそりと唇に指を添えた安室さんが私の表情を見ておかしそうに笑ってた。
「これはまだメニューに載っていない試作なんです。他のお客様には用意してないので、後でこっそり感想を聞かせてくださいね」
さらりとなんでもない風に耳打ちしてカウンター裏へと戻っていく安室さんのなんと、ずるいこと。
思わぬところで近づいてきた距離に、まるで特別ですよ、と言われているような言葉に、悔しくもドキドキさせられてしまった。
そう、ずるい。安室さんは平気でこんな風に飴と鞭を使い分けては、私を翻弄してくるのだ。
無意識なのか、意識的にそんなことをしているのかは分からないけれど(後者だったらかなり性質が悪い)今日もこうして私は彼に、心を持っていかれてしまう。
良くしてくれるのは嬉しい。気安い態度も心を許されているようで、ぶっちゃけかなり幸せだ。
でもこれではあまりにも、私ばかり翻弄され過ぎなのではないか。
「で、なんで俺が当て馬になってやらなきゃならないか説明してもらえるか?」
「当て馬なんて人聞きの悪い!いつもお一人様って言われるから悔しかっただけです!」
というわけで、次の週掻い摘んで事情を説明した腐れ縁の同僚にポアロに付き合ってもらうことにした。
どうせ行くなら居酒屋がいい、酒を飲ませろと駄々を捏ねる同僚を無理やり引っ張って、今現在ポアロの扉の前へと佇んでいる。
いつもお一人様とからかってくる安室さんがどんな顔で出迎えてくれるのか、少しだけわくわくしながら変な期待を持って目の前のドアに手を掛けた。
チリンチリンと耳に心地よい呼び鈴の音。扉を開いた先にちょうど現れた安室さんと、視線が交わる。
「――ああ、今日はお連れ様とご一緒なんですね。いらっしゃいませ」
安室さんは普段となんら変わらない笑顔で、私達を迎え入れた。
「はー…」
休日明けの月曜日。ただでさえ週初めの憂鬱なこの日に、私は更に別の理由で深い溜息をついていた。
デスクについてぐでんと頭を擡げては、金曜日の夜のことを思い出す。
安室さん、目を丸めるどころか驚きもしなかった。私の後ろに佇む同僚の存在に気付いても、表情ひとつ変えずに。いつもなら放置していく筈なのにわざわざテーブル席まで案内してくれて、極め付けにはごゆっくりときたもんだ。
普通に考えれば店員として当たり前のことしかされていないのだけど、驚かれるどころか普段と一ミリも表情が変わらなかったのはさすがに心が折れそうになる。
あんなにいつも通りの顔で対応されてしまうと、まるで相手にされていないのだということが嫌でも分かってしまう。仲がいいですね、なんて言われて浮かれていた自分が心底恥ずかしくて堪らない。
「よう」
「あ、おはよ。…この間はごめんね、付き合わせちゃって」
あからさまにデスクで愕然としているのが分かるだろう私に躊躇なく声を掛けて隣のデスクに腰を落ち着けたのは、この間ポアロへ行くのに付き合ってもらった同僚だった。
私の言葉にさっ、と顔色を悪くした同僚の様子に少し違和感を持ったものの、唯一話を聞いてもらえそうなカモがやってきたのをみすみす見逃す手はあるまい。
休日の間もついに最後まで発散できなかった燻った思いをつらつらと暗いトーンで連ねては、更に気分が沈んでいった。
同僚は相槌を打つでも頷くでもなく、私の言葉を黙ってじっと聞いている。
「別にね、そこまでの期待はしてなかったんだけどさ。まさかあそこまで無関心貫かれるとは思ってなくてね?」
はー、とここまで言って肩を落とす私はなんともまあ、傍から見たら惨めたらしいことこの上ないだろう。うんざりされても仕方がないとも思う。
でもいいんだ、後で何を言われても今だけは黙って聞いていてもらえれば。
そもそも少しでも心を開いてくれていると思っていたこと事態がおこがましいことのように思えてきた。何処までいっても私は客で彼は店員なのだと、今回の一件でよくわかった。
まだ溜息をつきたい気分ではあるものの、心の奥に溜まっていたものを吐き出すことができて幾分かすっきりした私は未だ顔色を悪くしてじっと押し黙っている同僚にお礼を言おうと口を開きかけた。
「いや、あれは何処をどう見たって脈ありだろうよ」
「…へ?」
その口は予想外の同僚の言葉によって間の抜けた一文字を生み出した。先ほどの私よりもだいぶ憂鬱な顔をして溜息をついた同僚は、更に言葉を続ける。
「あのな、ぶっちゃけお前の見えていない所で俺めちゃくちゃ睨まれてたからな?」
おっかねーよ、とひとつぼやいて、同僚はパソコンの電源をつけた。
「他人の恋愛にとやかく口を挟む趣味はないがお前、覚悟しとけよ」
釘を刺す様に言われた最後の一言を悶々と抱えるも、一度打ち砕かれた期待を更に打ち砕かれる末路は辿りたくなくて。結局まったく仕事に身が入らないまま、一日を終えることになった。
「おや、今日はまたお一人様なんですね」
いらっしゃいませ、そう続けて私を店に通した安室さんはこの前と変わらない笑顔を浮かべている。
その様子に曖昧に笑って返すも、私はまたいつもの場所へと腰を下ろした。
結局懲りずにまたこのポアロの扉を開いてしまった。
にっこりと笑ってオーダーを待っている安室さんはどう見たって私のことなんて気にかけているようには見えなくて、継ぎはぎ直してきたメンタルが再び崩れそうになる。
「はい。今日は一人で来たんですけど。彼もまた来たいって言ってましたよ」
眉一つぴくりとも動かさない。お冷を出したお盆を持って、終始にこにこと私の席の隣に立ったままだった。
「そうですか。それは、お客様が増えて何よりですよ」
そう言って首を動かした安室さんの色素の薄い髪がふわりと揺れ動くのを見つめながら、次の言葉を選ぶ。
まるで、一人で駆け引きをしているかのようだ。しかも相手は何の非の打ち所もなさそうなイケメン喫茶店員。
これが一人相撲で終わるなら、それだっていい。それでも諦めきれないところまできているのなら、今後気にかけてもらえるように努力していくだけの話だ。
「今度は、彼女と来たいって言ってました」
「――は?」
あ、と思った時には。たぶん私の目は見開かれていたに違いない。
そのまるっと晒されているだろう瞳に、初めて見たことのない顔をした安室さんの姿を写して。
「彼、可愛い彼女ちゃんがいるんです。ポアロのメニューは美味しかったから、きっと気に入るだろうって」
ぽかん、と口を開いた安室さんの表情に、じわじわと頬の強張りが緩んでいくのが自分でも分かった。
未だ間の抜けた、いつもの完璧な笑顔を崩した安室さんの顔をずっとその目に写しておきたくて、なんで自分の目には録画機能がないんだろう、なんて。馬鹿げたことを考えてしまう。
「あれ、安心しちゃいました?」
いよいよ顔を綻ばせて笑ってしまった私に、安室さんはぎゅっと一瞬顔を顰めた後。罰の悪そうに眉を下げながらも優しい顔で、こつんと私の額を軽く小突いた。
「なんですか、その顔は。――あまり、調子に乗らないこと」
いやいやそんな顔をされながら言われたって。調子に乗るなってほうが無理でしょうって、優しい痛みを残された額を押さえて、破顔した。
「今日は、ハムサンドをひとつくださいな」