父がどこから見つけてきたのかわからないが、彼はとても優秀な秘書だった。作家を目指しているという彼は、大きな賞を取ったわけでもなく、書店の隅で誰かの手に取られるのを大人しく待つ作品ばかりの、流行りとは遠い作家の父の元にいるのがもったいないぐらい、優秀だった。



例えば父が小説の題材になる資料をいついつまでにまとめてきなさい、と仕事を与えれば必ず期日の前日には仕上げ、更に父が求める情報以上を調べあげる。母が無くしてしまった指輪だって必ず見つけ出してくれるし、私がだらしなく脱いだパンプスだって綺麗に玄関に揃えてくれる。彼が水遣りをしてくれるおかげで庭に咲くチューリップはいつでもみずみずしく鮮やかに輝き、蝶を呼び寄せるのだ。



そんな彼なものだから、父も母も大層気に入っていた。父はどこへ行くにも彼を傍らに連れて歩いた。近所の喫茶店へ行く時も、編集者との打ち合わせの時も、散髪へ行く時も。彼は父に言われるがままにどこまでも着いて行った。そして、彼に我が家の部屋を一つ与えた。更に私も母も入ることを滅多なことでは許されない父の書斎に自由に出入りすることを許されていた。もっとも秘書なのだから当たり前なのかもしれないが、父の不在時でも出入りが自由で、書斎の書物も自由に読むことを許されていたのだから、父は本当に彼のことを気に入っていたのだろう。


祖父が残した古い家には、使われていない取り残された部屋がいくつかあった。なので我が家にとってはなんてこともないことだったが、彼はとても喜んでいた。瞳を輝かせ、ありがとうございます。と何度も頭を下げていた。彼は兄弟が沢山いるようで、彼1人の部屋を与えられたことがとても嬉しかったようだ。



母に彼の部屋までコーヒーを持って行くよう、頼まれることがある。彼の部屋は皺一つないベッドと、隙間なく本が詰め込まれた背の高い本棚と、控えめな書き物机だけが置いてある、とてもこじんまりとした小さな部屋だ。まず彼の部屋の扉を開けると、目の前に飛び込んでくるのが部屋の中央に置かれた木製の書き物机だ。彼が来る前までは忘れられたかのように埃を被り沈黙していた書き物机が、今は綺麗に手入れをされ彼が椅子に腰をかけ仕事をしている。父が使っている立派な書き物机と比べるととても控えめなものだったけれど、彼がそこに座っているだけでとても立派なものに思えるのだ。彼の部屋は小説の中に閉じ込めた挿絵のように、いつも同じ姿で私を待っている。



まず、扉をゆっくりと二回ノックする。木製の古い扉を叩く音が長い廊下に響き渡ると、廊下の終わりの壁に嵌め込まれたステンドグラスの窓が小さく揺れる。すると部屋の中から、どうぞ。とすぐに彼の慎ましい声が聞こえて、私の胸は高まりる。そして古い扉が軋まないようゆっくりと開けるのだ。するとすぐにあの書き物机が目の前に広がり、その机で作業をする彼が見えてくる。資料を作っているのであろうか銀色の無機質なノートパソコンのキーボードに目線を落としていた彼の目が、すっと私に向けられ、彼の手元の動きが止まる。私はそのときの彼の瞳がとても大好きだった。いつも何かしらの書物に瞳を向けているあの目が、私にだけに向けれるのだ。彼の瞳はまるでビスクドールに埋め込んだ眼球のように濁りが無く、しんとした深い森のように吸い込まれそうで。それでいて刺すように鋭かった。そして私は机の隅に邪魔にならなぬようにコーヒーカップを置く。彼は規律にありがとう。と言うのだけれど、その時にはあの扉を開けた時のような瞳ではなくなっている。どういたしまして。とだけ残し静かに部屋を出ると、そこはいつもの我が家の長い廊下で、しんと静まり帰っていた。夕陽がステンドグラスの窓を照らし、庭のチューリップのように鮮やかに廊下を染めていた。そして扉の前でそっと目を閉じ、深い森の奥のような瞳を思い出すのだ。



彼の部屋にコーヒーを運ぶとき、父に与えられた仕事をこなしている時もあれば、大学ノートに書き物をしていることもある。この時の彼の瞳はより一層深い色をしていて、私の胸を高鳴らせた。貝殻のような爪が嵌め込まれた長い指先で万年筆を握り、思い詰めたかのように眉間に皺を寄せ、滑らかに何かを記している。けれどそれは机に辿り着くまでの間にそっと閉じられ机の隅に除けられてしまうので、一体何を記しているのかはわからなかった。



机の隅にコーヒーカップを置くと、眉間の皺はほどける。万年筆が握られていたあの指先に触れてみたいといつも思うのだけど、触れてしまうとこの世界のどこかが一つ欠け、バランスを崩してしまいそうで怖かった。彼の部屋はいつでも完璧に揃っていなければいけない。それがだめなのなら彼から触れて欲しいと願うのだけど、彼の指先にはインクが小さく滲み、淹れたばかりのコーヒーの湯気がひっそりと影を落とすだけで、私に近づくことはなかった。








「一体、そのノートには何を記しているのでしょうか」

「対したことは書いてないですよ」


一度だけ、彼に尋ねたことがある。開けられたままの窓から風に乗って厳やかなメロディーの歌声が聞こえていた。きっと近所の教会からだ。一体何を言うのだと、むっとした顔をされるのだろうと思っていたのに、彼はいつもと変わらず優しく笑いそうに言った。そして私が運んだばかりのコーヒーに口をつけた。私はその答えに納得した訳ではないけれど、きっと何を聞いてものらりくらりかわされるのだろうと思った。だからそれ以上は問わず、静かに部屋を出た。扉を閉めるとあの歌声と彼の気配は背中からすっと消えていく。そして読み途中の小説を急に閉じてしまったかのように、私の心の中に引っかかる。気を紛らわすかのように、私は歌声のメロディーは一体なんの曲なのだろうかと考えることしかできなかった。




私は彼が大学ノートに何かを記す時に使われているあの万年筆も羨ましかったし、そっと口をつける真っ白なコーヒーカップも羨ましかった。綺麗な弧を描いた薄い唇は、つややかで神秘的だった。その唇で、私の知らない言葉をどれだけ発して、触れてきたのだろうか。その唇で私に触れてほしい。貝殻のような爪が嵌め込まれた人差し指で、私の唇や耳の淵をなぞり、まぶたを撫でてほしい。ビスクドールに嵌め込まれたような深い森のような瞳で、私だけを見て欲しい。




いつしか私は、彼の大学ノートの中身を知りたい。そう強く思いはじめた。そしてそのチャンスはすぐに訪れた。母が友人たちとスイス旅行へ旅立つ日と、彼が父と出版社のパーティーへと出かける日が重なり、この古い家に私一人だけになる晩が訪れたのだ。



ひっそりとした廊下の奥で、月明かりに照らされたステンドグラスの影が頼りなく廊下を染めていた。誰もいないのだから音を立ててもかまわないのに、私はいつもの癖でゆっくりと扉を開けた。そこには彼がいないだけで弱々しくうずくまる書き物机が、ひっそりと月明かりに照らされていた。薄暗くてもベッドには皺一つないのがわかったし、本棚もきっちり並べられなんの狂いもないこともすぐにわかった。カーテンは開けられたままで、部屋の中には充分すぎるほどの月あかりが注ぎ込まれている。礼拝がすんだあとの教会のようにひっそりと静まりかえっていた。




そっと書き物机まで歩み寄ると、迷わずに引き出しを開ける。なんとなく、そこにあるような気がしたのだ。するとそこにはあのノートがしんと眠っていた。ずっと昔からその場に置き去りにされたかのように大人しく待っているのだ。手に取り、そっとノート開く。思いのほか指先は震えずにスムーズに開くことができた。いつか見た彼の乱れのない繊細な字がいっぱいに広がっていた。充分に注がれた満月のあかりだけでノートを読むことができそうだった。




「"満月の夜。彼女は静かに僕の部屋へと入る。誰もいないというのにいつもの癖で古い扉が音を鳴らさないよう、ゆっくりと開けるのだ。部屋は満月の明かりだけで充分で、彼女も照らしだす。彼女は整頓された書き物机にそっと歩みより、導かれるように引き出しを開けると、そこにはいつも目にしていた大学ノートが眠っていた。そして彼女は夢中でそれを手に取るのだ…。"」



読み上げながら、私ははっとした。なぜなら今さっきまでの現状がノートの一ページに記されているからだ。私の体は何かに命令されたかのように、夢中で読み進めた。読まなければいけないのだ。遠くであのとき聴いた教会から流れる歌声が聴こえてくるような気がしたけれど、きっとデジャヴなのだろう。




「"彼女は夢中でページを捲り、声に出してそれを読み始める。何かがおかしいと思いつつも金縛りにあったかのように止まらないのだ。閉めたはずの扉が開くのも気づかずに。…」



「"彼女はそこまで読み上げると、静かに扉に目線を移す。そこでやっと、僕がいることに気づくのだ。"」




私の声ではない。別の誰かが読み上げる。いつか聞いた思慮深く慎ましい声。



「あっ…」



いつのまにか開けられた扉の前には、彼がいたのだ。家を出たときと同じ皺一つないスーツを着て、今私の目の前にいるのだ。何か言わなければ。違うの、これは…。それなのにやっぱり私の唇が、体は、金縛りにあったかのように動かなかった。何も言葉もできずにいると、そっと彼が歩みよってくる。窓の向こうで風のざわめきが聞こえた。







気がつくと、私は彼のベットに横になっていた。彼の部屋に勝手に入り、ノートを勝手に読んだことよりも、シーツに皺を作って怒られやしないかと怖くて仕方がなかった。彼の部屋の完璧なバランスを私が崩してしまったから。もう風のざわめきも、歌声も聞こえてはこなかった。



初めて近くでみる彼の顔の輪郭や瞳、滑らかな首筋に肩まで流れる彫刻のようなライン、あの万年筆でなぞられたかのようにはっきりと形を持ち影を作っていた。彼が動く度に柔らかい毛先が揺れていた。



「"僕は夢中で彼女の両手首を押さえつける。彼女は糸が切れたマリオネットのように、僕に押さえつけられ何もできないでいるのだ。月明かりに照らされた彼女の肌はまるで陶器のようになめらかで、私が言葉を発する度に紅く蒸気した"」



そう彼が言葉を発する度に、彼の暖かい吐息が耳や首元や鎖骨をくすぐり、全身を駆け巡った。それは暖かくて心地が良く、身体を溶かしていった。彼の唇が皮膚に触れるたびに身体が熱くなり、身がよじりそうになるのを我慢した。覆いかぶさる彼の体重は思っていたより重みがあり、私はそこから熱を感じた。額、目蓋、くちびる、首筋。それらを這う彼の舌や指先は虫のように感じられた。彼が世話を焼いていた庭のチューリップ達に這う虫ではないのかしら。本当に、貝殻のような爪先が埋め込まれた指先ではないのだろか。



私はそっとまぶたを閉じる。デジャヴなんかではない。教会から歌声が聴こえた。歌声が私たちを見ている。これから、彼のつややかな神秘的な唇で、私の知らない言葉を発してくれるのだろう。そして彼の深い森のような瞳に私は閉じ込められる。きっと、ノートの通りに。





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