聖臣くんが遊びに来る日は2時間前くらいからそわそわし始める。床に髪の毛は落ちていないか、戸棚に埃は残っていないか、私の化粧と服装はちゃんと可愛いか。決して広くはないワンルームの部屋で落ち着かない気持ちを抱えて2時間を過ごせば、約束の5分前にインターホンが鳴った。
マンションの解除ボタンを押し、すぐに部屋まで辿り着いた聖臣くんは玄関のドアを開けると靴棚に置いてあるアルコールジェルを手に塗り込んでから部屋の中に足を踏み入れた。
「聖臣くん!」
「ん。あと、これ」
「いつもありがとう」
今回は会うのがちょっと久しぶりで、顔をみた瞬間抱き付きたい衝動に駆られたけれどグッと我慢する。
大抵何かしらの手土産を持って遊びに来てくれる聖臣くんから、今日手渡された紙袋の中身は近くの美味しいと評判のケーキだった。
「ここのケーキ美味しから嬉しい。紅茶とコーヒーどっちがいい? 淹れるから一緒に食べよ」
「じゃあ紅茶で」
大学進学をきっかけに始めた一人暮し。聖臣くんは来る度に狭いなと思ってるかもしれない。でもワンルームのこの部屋は私の城だ。
いつも綺麗であるように意識的に掃除しているおかげか、聖臣くんがこの部屋に関して顔をしかめたことはまだ1度もない。
「聖臣くん寒くない? 暖房入れる?」
「ちょうどいい」
この前買ったちょっといい茶葉があったなと戸棚を漁ってケトルのスイッチを入れた。自分の好きなものが溢れた空間に、自分の好きな人が存在する。色も香りも雰囲気も突然、ぐんとランクアップしたような錯覚にさえ陥る。
「そう言えばこの前聖臣くんが観たいって行ってた映画地上波で入ってたから録画しておいたよ。まだ観てなかったら一緒に観ない?」
「観る」
テレビをつけて録画していた映画を再生させると、ベッド枠に背中を預けながらテレビを見つめる聖臣くんが1度だけこちらを見つめた。
ケーキと紅茶が乗ったトレーをテーブルに置いて「大丈夫そう?」と念のためざっくりと尋ねる。少し間を開けて、言いあぐねるような控え目な声で聖臣くんが言った。
「⋯⋯やっぱり少し寒い」
「あ、それなら暖房入れようか」
「違う。待て。名前がここにきて」
「え」
そう言った聖臣くんが指定したのは自身の身体の前、足の間だった。そこに私が行くってことは、後ろからすっぽり抱き締められるってことだよね、と一瞬にして想像すれば沸々と羞恥心が込み上がってくる。
「寒いから早く」
「⋯⋯う、うん」
聖臣くんはゆるく腕を広げている。向けられる視線から逃れる方法を私は知らない。魔法にかけられたように私は聖臣くんの言葉に素直に従った。
心拍数が徐々に上昇していくのを感じながら足の間におさまると回された腕がお腹の前で組まれる。心臓の鼓動が自分でもハッキリわかるくらいに高鳴っていて、身体が固まるのを感じながらゆっくりと呼吸を繰り返した。
「暖かい」
「それなら良かった⋯⋯です」
聖臣くんは私の気持ちを知ってか知らずか右肩に顎を乗せてきて、耳元で小さな声を発する。聖臣くんは大声で話す人じゃないし饒舌ってわけでもないし外にいるときはマスクだから、耳元で聞こえる落ち着いた声に混ざる吐息は余計に私の思考を鈍らせる。
こんなに意識しているのは私だけなんだろうか。恥ずかしがっているのは私だけなんだろうか。
「き、聖臣くん、もしかしてお疲れ気味?」
「ん? ん〜⋯⋯疲れ気味って言うか」
別に恋人同士という視点で考えれば特におかしくない行動だ。キスをしたこともない関係でもないし、抱き締められるのが初めてでもないし。でもやっぱり私は突然される聖臣くんからの行為に今でも胸をきつく、甘く、締め付けられる。
「名前といるの久しぶりだから落ち着く」
「⋯⋯最近練習大変だったもんね。遠征も立て込んでたし」
「うん」
「お疲れさま」
聖臣くんが何事にも手を抜かないのは分かっている。最善を尽くすための努力を怠らない人だということも。もっと上手いことやればいいのにとか、融通を利かせればいいのにと思う人はきっと多くいるだろうけれど、聖臣くんの努力の仕方は私にとって心地が良かった。
「映画観てケーキ食べて紅茶飲んで、あと聖臣くんの遠征どんなのだったか教えて。会ってなかった時の事、聞きたい」
「わかった」
そう聖臣くんが返事をすると同時に、肩にあった重みが消えて襟足に暖かい何かが触れる。何をされたのか理解するには時間を要した。
(え、いま⋯⋯え?)
確かに触れたそれは、聖臣くんの唇だと思う。だって吸い付くようなリップ音が耳に届いた。お腹に回された腕をより一層意識して、私は後ろを振り向くことさえ出来なかった。
「名前」
「は、はい」
もう一度、落ち着いたトーンで名前を呼ばれる。待ってよ。そんな風に私の名前を呼ばないでよ。苦しくって泣きたくなっちゃうよ。
「こっち向いて。やっぱり普通のキスがしたい」
再生している映画の内容なんてひとつも頭に入ってこない。どうしてこの2人が出会ったのか理解する前に話が進んでしまってるし、紅茶だってもう蒸らす時間を過ぎている。わかっているのに、私はもう聖臣くんにしか集中出来なかった。心を奪われる。こうやっていつも簡単に。
「⋯⋯聖臣くんはずるいよね」
「は? どこが。なんで」
身体をずらして聖臣くんのほうを向く。唇と唇が触れ合う寸前、私はせめてもの反抗だとそうこぼした。
「内緒」
言葉はすぐに飲み込まれたけれど。
(20.11.28 / 60万打企画リクエスト)