ブラジルはリオデジャネイロ。日本からアメリカを経由してやって来くるまでにかかった時間は約25時間。到着したばかりだというのに長時間のフライトのおかげで私の身体は悲鳴をあげていて、やつれた顔でイミグレーションを通過することになった。まずはホテルにチェックインしてシャワーを浴びなくちゃ⋯⋯そんなことを考えながら最低限必要のお金を両替して、大きなスーツケースを転がしながら市内へ向かう空港バスへ乗り込む。
 決して快適とは言えないバスだけど、窓から見える景色に心は躍る。日本の裏側まで来てしまった。その事実が、長かったフライト地獄の疲れを吹っ飛ばした。現地人と観光客が混ざり会う車内。アジアの顔立ちは私だけで、その事実は緊張を運んできたけれどこれから始まる数日間を思えば些細なものだった。
 1時間ほどするとバスはフラメンゴの海岸部へと着いた。降りる観光客に続いて、リオの地へ足を踏み出す。

「ついにきた⋯⋯!」

 いつか行きたかった場所に私は立っている。はやる気持ちを抑え、スーツケースを引きながらホテルへと向かった。
 選んだホテルは海岸沿いにあるコンドミニアムタイプのホテルで屋上に行けば海を見渡せるらしい。事前にしっかりと確認していたこともあってホテルへは難なくたどり着いた。チェックインを済ませ部屋に案内されるとすぐにシャワーを浴びる。ようやくリセットされた身体に新しい好奇心がチャージされる。
 時刻は夕方。外はまだ暗くはないけれど、観光するには遅い時間だ。リオといえばカーニバルが有名だけどやはり海だ。そのために海岸沿いにホテルをとったんだし、と私はフラメンゴ海岸へと繰り出した。

「うわあ⋯⋯!」

 広がる海とどこまでも続くような砂浜。モザイクの遊歩道を歩きながら海を見つめる。ビーチバレーで有名な国と言うこともあって、砂浜ではおじさんや若者がネットを挟んで試合を行っているのが目についた。それだけじゃない。たくさんいる観光客に出店、ビーチパラソル、売り子。全てが異国情緒を溢れさせる要素だった。
 ホテルのオーナーは、夜もライトアップはされるけどアジアの女の子1人だし危ないから早く帰っておいでとホテルを出る前に私に忠告してくれた。確かに、見た目だけでは私には到底敵わなさそうな人たちがたくさんいる。夕日が沈むのを見届けるまでここら辺で散歩をしようと歩き続けた。
 そんな時だった。
 たまたま目に入ったのはビーチバレーの試合。なんの変哲もない、別の場所で行われているものと同じ。なのに私は1人の男性に目が行った。砂も風も、太陽の光さえも味方にしたようなジャンプでその人は打ち上げられたボールを打ち切った。周りにいる人達と比べると小さな体格。無意識に私の足はそのほうへ向いていた。
 砂を蹴る。風に煽られるボール。陽射しは彼の髪の毛を透かした。現地の言葉と英語が混ざりあう試合。近くに行ってわかった。彼もアジア人だ。だけどそれが理由じゃない。私の無意識の出所はもっと、奥の方で目覚めるもの。

「⋯⋯Excuse me. Do you know who he is?」
「He? ninja shoyo?」
「what? you said "ninja"?」
「yes」

 ビーチに座りながら試合を観ている女性に話しかけた。躊躇いもなく忍者と言う彼女に、私は思わず耳を疑ったけれど事実らしい。NINJA SHOYOと呼ばれた彼を見つめる。
 目を奪われる理由を、追ってしまう理由を、見続けたいと思う理由を、知りたいと思う理由を、人は言葉に出来るのだろうか。

「Where are you from?」
「From JAPAN」
「it's the same as him!」

 女性は喜ばしげに言った。
 日本の裏側で見つけた日本人。多分、年齢だって近いはず。話をしたい。そう思ったのはきっと、何かを感じ取ったからだ。一目見て気持ちを奪われたこの人に芽生えた感情の名は好奇心と言うよりはもっと、俗っぽいやつ。それを自分で口にするには如何せん、恥ずかしすぎた。

「Do you wanna talk to him?」
「Can I talk to him?」
「Off course」

 彼女は彼とは知り合いなのと言い私に隣に座ってと促した。彼とペアを組んでいるのは私の恋人、と嬉しそうに話す。試合が終わるまで彼女と言葉を交わしながら彼を見つめる。得点したときの喜んだ顔。ボールが上がったときの高揚する表情。流れる汗が筋肉を伝う。観れば観るほど、募るばかりは私の心。

「win〜! て、あれ? アジアの女の子? あーえっと⋯⋯Hello!」

 試合を終えて嬉しそうに二人はこちらへ走ってきた。この瞬間を待ち望んでいたはずなのに緊張が私を襲う。近くでみるともっとかっこいい。素直にそんなことを思った私は彼の挨拶に返事をすることすら忘れていた。

「shoyo,She from Japan」
「えっまじで! 俺、日向翔陽!」
「ひなた、しょうよう⋯⋯」

 噛みしめるようにその名前を口にした。

「名前は?」
「あ⋯⋯えっと、名字名前です」

 彼の名前を頭の中で何度も繰り返す。

「旅行? ひとり?」
「うん。大学の長期休暇で、思いきって」
「なんでリオ? 日本人の女の子ひとりでいるの初めて見た! あっシュラスコもう食べた?」

 絶対私の方が聞きたいことたくさんあるはずなのに、彼は矢継ぎ早に質問を溢れさせる。

「まだ、全然。実はさっき到着したばっかりなんだ」
「そーなの? じゃあこれから楽しいことたくさんだ!」
「もうすでに楽しいよ。だってビーチバレー凄かった」
「まじ?」
「うん。初めて見たけどかっこいいね! 翔陽はビーチバレーの選手なの?」
「高校まではインドアやってて、卒業して一年経ってからこっちきてビーチバレーしてる!」
「すごい⋯⋯」
「あ⋯⋯ごめん俺めっちゃ喋っちゃった。時間、大丈夫?」

 言われてようやく水面が色を変えようとしていることに気がついた。太陽の位置は低くなって、空に茜色が差す。オーナーの言葉が脳裏に浮かぶ。もうそろそろ戻らなくちゃいけない。

「暗くなる前には戻った方がいいって聞いてて」

 でも、ここで手離してしまっては。結ばれそうになった縁を切ってしまっては。きっと私、後悔する。

「いつもここでビーチバレーしてるの?」
「バイトないときは大体してる!」
「明日は?」
「明日もやってるよ」
「明日も観に来ていい?」
「もちろん! ダメなわけないじゃん」
「コルコバードの丘に行った後ここに来る。また見たい、翔陽のビーチバレー」

 夕日に彼の笑顔が映える。汗が頬を伝って焼けた肌を撫でる。日向翔陽。もう一度その名前を心の中で繰り返した。
 日本の裏側でひっそりと落ちたのは私の心だった。

(20.06.14)