※SSS


 頬に落ちた水滴が雨粒だとわかるのに時間はかからなかった。それまでの天気が嘘のように空は表情を変え、晴れは一転し雨となる。
 動かない夏の空気が湿気を纏っているとは思っていたけれどまさかこんなタイミングで夕立にあうとは。バイト先の「おにぎり宮」まではあと100メートル弱だと言うのに。

――走ろう。

 蛇口を勢いよく捻ったときのように大粒の雨が頭上から降り注ぐので、私は悩むことなくそう決した。
 雨のしみ込んだコンクリートを強く蹴り、右往左往と人が過ぎ去る道をパニック映画さながら走る。白く染まりゆく視界はまるで世界を一変させる啓示のよう。さほど遠くはない場所で空が唸ったからきっともうすぐ雷光が人々の視線を独占するだろう。

「お、つかれさまです!」

 私が扉を開いたのと空に光が走ったのはほぼ同時だった。カウンターの中でこちらに視線を向けた治さんが目を見開いて瞬きを繰り返している。

「名前、むっちゃ濡れとるやん。まさかこの雨の中傘さしてこなかったん?」
「折り畳み傘、大学のロッカーに忘れちゃってて」

 開店準備をしていた治さんは手を止めて私のほうに歩み寄る。真っ白なタオルを差し出されて、優しく漂う柔軟剤の香りは私を安心感で満たした。
 強く打ち付けるような雨の音も、今となっては別世界のもののようにさえ思える。

「風邪ひかんようにはよ着替えんと。鞄の中も濡れてるんとちゃうの?」
「鞄は死守したので着替えは大丈夫だと思うんです……けど……」

 そこには昨日洗濯したばかりのおにぎり宮Tシャツが入っているはずだった。すくなくとも昨日の夜確認したときは入っていたのだ。

「あ、あれ……?」
「やっぱ濡れとった?」
「いえ、濡れてたっていうか……すみません。Tシャツもロッカーに忘れてきたみたいです……」

 タオルを頭に乗せ、覇気を無くした声で言う。ただでさえ雨に降られて迷惑かけているのに仕事着のTシャツまで忘れるなんて失態もいいところだ。
 項垂れる私に、治さんは腰を屈めて視線を合わせた。そっとタオルに触れる治さんの手のひらは温かく、大きい。
 店長に、家主に、治さんにタオルドライしてもらえる日がくるなんて、誰が想像出来ただろうか。

「あ、あの、治さん」
「俺のTシャツ貸したるからそんな顔せんでええよ」
「そんな、顔?」
「親に怒られた子供みたいな顔」
「え、私そんな顔してました?」
「しとった」

 タオルで視界がよく見えない。私がそんな顔しているんだとしたら、治さんは一体どんな顔をしているんだろう。

 疑問は疑問のまま、答えを知ることもなく私は治さんから渡されたXLのTシャツに袖を通す。いつものサイズよりもずっとずっとゆとりのあるサイズ。
 タオルとは違う優しい香りが動く度、くすぐるように私の鼻孔に届く。時折やけに私の心を刺激するけれど、安心感と似て非なる感情の答えを考える余裕もなく、私はXLのTシャツを着ておにぎりを運ぶのだ。

 今日も今日とておにぎり宮で。