※SSS


 衛輔がロシアのチームに移籍して半年が経つ。この期間が短かいのか長いのか正直わからなくなるくらい私にとって国際遠距離恋愛は不思議なものだった。
 ロシアの天気をいつでも見られるようにしたこと。ロシア料理をよく食べに行くようになったこと。暇な時間、航空券の値段を調べるようになったこと。衛輔がロシアに行ってから増える、私の初体験。
 エカチェリンブルクと言う、それまで聞いたこともない都市の名前をgoogleマップで調べるなんて1年前の私は夢にも思わなかった。

『で、今度はロシア語教室?』
「そ! たまたま最寄り駅の近くに教室あったんだ。奥さんがロシアの人なんだって。週1だけど仕事帰りに寄れるし」
『そのうち俺より名前のほうがロシア語話せるようになったりしてな』

 機械越しに聞こえる柔らかい衛輔の声。小さなため息も聞き逃すまいと強くスマホを耳に押し付ける。
 駅から家までの数100メートル。文明の利器が繋いでくれる穏やかな時間。「もう部屋に着くから切るね」って言葉を出来るだけ未来へ寄せるため、私はゆっくり歩く。ゆっくり。ゆっくり。夜の空気を身体で感じるように。踏みしめるアスファルトの感覚を覚えるように。

『そういや仕事は順調そうか? 前に言ってただろ。社内コンペ通ったから忙しいって』
「そうなんだよね。今日はいつもより早いけど明日は多分終電かなぁ」
『終電ならなおさら俺に電話しながら帰ること』
「あはは。衛輔優しー」
『彼氏なんだから当然だろ、それくらい』

 仰ぐ空の濃紺。一欠けもない月。散りばめられた星は今日も輝く。目線の先にある景色が違っても、耳へ届く声は私の心に寄り添ってくれる。

「会いたいね」
『会いたいな』

 成田空港で衛輔を見送って半年、初めてその言葉を口にした。転がるように口から出てきた感情を衛輔は繰り返す。
 会いたいね。会ってぎゅっと抱きしめて、キスをして、時差も距離も来し方行く末も考えずに一緒に居たいね。
 なんてそれはちょっと子供っぽいか。

「でも忙しいの終わったら有給取れるから、そしたら行こうかな」
『まじ?』
「うん。ロシア初めてだからちょっとドキドキするけど」

 無機質な機械の向こう側、衛輔が口角を上げて小さく微笑んだ気がした。

『名前のロシア語聞けんの楽しみにしてる』
「しっかり勉強して衛輔を驚かせないと」
『今の言葉しっかり覚えておかねぇとな』

 本当は夜がいつまでも終わらなければ良いと願っているけれど。真っすぐな一本道がぐねぐね曲がっていれば良いと願っているけれど。
 それでも歩く私の足はちゃんと前へ進むから。
 目と鼻の先にそびえ立つのは私が暮らすマンション。緩く交わされた口約束を胸に残し、私は言う。

「もう部屋に着くから切るね」

 遠く離れた地にいる好きな人の明日が、喜びで溢れますようにと願いながら。