※SSS


 何をするのも億劫だった。特に食べることは一番面倒くさいと思った。作るのはもってのほか、コンビニで買うのだって、それを口へ入れて咀嚼する行為にでさえ労力を割きたくないと思った。
 それもこれも、3年付き合っていた彼氏に心を抉られるような浮気をされたことが原因だ。

「名字、ちょっと行きたいところあるんやけど」

 北くんは私の顔を見た瞬間そう言った。
 小さい頃、親にそうされていたように北くんは私の手を引く。決して道をそらすなと、迷子にだけはなるなと繋いだ手が物語っている気がした。
 洗車したばかりの白い軽トラは燦燦とした太陽の日差しを受けて輝く。助手席に乗り込みシートベルトを締めると私はそこでようやく、北くんが私をどこへ連れてゆくつもりなのかという疑問が湧いた。
 同級生ひいては祖母同士が仲が良いという関係から、直接お米を買ったり頂いた野菜をお裾分けすることはあった。だけどこうして北くんの所有する車に乗り込んで、一緒にどこかへ行こうとするのはこれが初めてだったのだ。

「着いたで」

 疑問を口に出来ぬまま、車に揺られて20分。辿り着いたのは「おにぎり宮」と呼ばれる個人経営のおにぎり屋さんだった。
 ああ、そういえば高校の部活の後輩がお店を開いてるって前に言っていた気がする。
 食べることを放棄した私の体重は4キロほど減っていて、時折顔を合わせる北くんはそんな私の変化にすぐ気がついたのだろう。だからきっとここへ連れてきたのだ。
 丁寧にドアを開け目線だけで入店を促す北くんに従い、おずおずと中に入る。久しく感じることのなかった「食」の空気が肌を優しく刺激した。

「治、なんでもええからこの子に握ってくれへん?」

 治と呼ばれた人の視線が私に向けられる。この人が北くんの後輩。確かに昔、校舎で彼の顔を見た気がすると、遠い過去に思いを馳せた。

「お客さん、苦手なもんとかアレルギーで食べられへんもんありますか?」
「いえ、ないです。……けど」

 けど、食欲はないので。
 それを言えなかったのは多分、北くんが私をじっと見つめていたからだと思う。そして私も心のどこかで食べることを拒否している自分に罪悪感を感じていたのだ。
 噤むように口を閉ざして、私はおにぎりが差し出されるのを待つ。

「おまちどうさまです」

 数分の後、小さな音を立てて楕円の和食器に乗せられた2つのおにぎりが目の前に並んだ。
 優しくなだらかな形と抱きしめるように巻かれた海苔が、人の手によって握られたものだということを主張していた。

「炊き立てなんで口ん中、火傷せんよう気を付けてくださいね」

 その言葉の通り、触れたおにぎりの表面は熱い。
 見守る北くんの視線。店内を満たすまろやかな生活音。炊き立てのご飯の甘い香りと塩の香りが混ざり合って、哀愁に似た切なさを呼び寄せる。
 熱いだろうな。そう思いながらも私は一口、おにぎりの頂点を齧った。閉じ込められた空気がやんわりと私を押し返し、ほろりと崩れる米粒。香りを裏切らない味は口の中で所狭しと広がる。食べた瞬間、北くんの育てたお米だとわかって私はまた切なさを覚えた。
 熱い。
 はふはふ、と噛みたくても噛めない葛藤を抱きながらこの叫びだしたくなるような熱さを甘受する。
 熱い。でも、美味しい。
 それは確かに私が失くした熱だった。

「美味いやろ、ここのおにぎり」

 北くんが言う。優しい声に私はいよいよ泣きそうになる。だけどグッと堪えて「うん」と言った。
 そう言うのが精一杯だった。