※SSS


「脱いでほしい」

 蝉の鳴き声を聞きながら私は懇願する。
 及川は一瞬だけ目を見張り、いつもの調子で言った。

「も〜、名前ちゃんてば大胆! え、そんなに俺の鍛え上げられた身体見たいの? えっち〜」

 きっと一緒に日直をやらなかったらそんなこと言わなかった。西日が教室に差して、及川の瞳を縁取る長いまつ毛は影を落とす。瞬きのひとつさえ美しくて、私はただ、こんな人がこの世に存在するのが奇跡とさえ思えた。
 今すぐにでも部活へ行きたいだろうに、なかなか日誌を書き終えることが出来ない私を及川は甲斐甲斐しく待ってくれている。シャープペンシルの先が折れて、私はもう一度懇願した。

「脱いでほしい。及川の身体、描きたい」

 及川は何も言わなかった。美しい瞬きを繰り返して、私の言葉を味わうように咀嚼する。
 今になって心臓がドクドクと動いた。なんで心のままに言ってしまったんだろう。取り消せない言葉を後悔したって仕方がないのに、私は自分の言葉を悔いた。
 でもどうしても描きたかった。描くことでしか、私は及川に触れることが出来ないのだから。

「名前ちゃん、美大志望なんだっけ?」
「うん」

 及川の瞳に映ることが出来る今ですら、切り取ってどこかに閉じ込めておきたかった。

「いいよ」
「え?」

 聞き返す。眉を寄せてまじまじと及川を見つめた。優しく、けれどどこか遠い場所にあるような笑みで及川は言う。 

「いいよ、脱いでも」



 翌週の月曜日、誰もいない美術室で私は及川とまた二人きりになった。年季の入った木製の椅子に腰を下ろした及川は、躊躇うことなくYシャツのボタンを外す。
 ドアというドア、窓という窓を全て塞いで、この教室だけ綺麗に切り取ることが出来たら良いのに。

「上半身だけでいいからね」
「え、そうなの?」
「いや、だってさすがに全裸はいろいろと」
「俺全裸だと思ってめっちゃ覚悟決めてきたんだけど」
「その気持ちだけ受け取っておく」

 床の上に落ちた真っ白なYシャツ。上半身をさらけ出した及川は、それでも、いつもと変わることなく私を見つめた。規則正しく動く身体の真ん中にこの人の心臓がある。そう意識すると、私はそれまで知りえなかった「愛」という感情に手が届くような気がするのだ。
 今日だけは、今だけは、私が鉛筆を滑らせる間だけは、この人は私のもの。
 
「……及川、筋肉キレーだね」
「まあね」
「じゃあ、描くから動かないでね」

 この一瞬をもって、私がイニシアチブを握る。
 及川の頭、肩、腕、指先、胸部、臍。何一つ逃すまいと視線を向けた。丁寧に、愛撫するように、私は眼球を動かす。肉感的な及川の姿形。首筋を伝う艶めいた汗。私の色欲を昂らせるのに十分だった。
 この画用紙の中に及川の魂が宿れば良い。そう願いながら鉛筆を動かす私のことを、及川はこれから先、一生好きにならないだろう。及川の視線の先に私はいないのだから。言葉に従って可能な限り動くまいとする及川に、これからも私だけが心を奪われる。

「及川」
「なに?」
「……気持ち良い?」
「え?」

 私は気持ち良いよ。
 言わず、曖昧に笑った。

「暑いし、制服脱いでたらやっぱり少しでも気持ち良いのかなって」
「ああ、まあ、うん。学校で、しかも美術室でって言うのは変な感じだけど」

 胸部は変わらず、ゆっくりと一定に動く。視線で触れて慈しむように愛でる。私はこの一瞬をこの紙と筆で永遠にするのだ。
 及川は思い出すだろうか。大人になって過去を振り返るとき、この一瞬のことを思い出してくれるだろうか。

 肉体は紙に乗せた。あとは魂があれば良い。
 あなたの牢獄は、白い。