※SSS
「名前、帰ろうぜ」
エナメルバッグを肩にかけた夜久が言う。部活終わり、なんとことのない夏の日。
家が近所だからといつも帰路を付き添ってくれる夜久の優しさに私は今日も甘えている。丁字路で黒尾たちと別れて、私たちはバス停へ向かった。
枝垂れてしまうような蒸した暑さと首筋を纏わり伝う汗。太陽の様子を伺いながら月は朧げに姿を見せる。前方を歩く夜久の背中を見つめ、生唾を飲み込むと嚥下音が私の身体に響いた。
夜久には聞こえない、私だけの音。私が緊張している証。立ち止まり、深呼吸をした私に気が付いた夜久が振り返る。
「どうした?」
隣に並ばない私を衛輔は心配した。
好きだなと思う。ただただ単純に彼女になりたいなって。もうすぐバス停についてしまうから、言うならもうこのタイミングしかない。夏の暑さが私の背中を押す。気持ちを留めておけなかったのは、絶対、この夏が暑すぎたせい。
「あのさ」
「おう」
「あのさ、私、夜久のこと、好きなんだよね」
もっとスマートに言いたいと思っていたのにうわずった、なんとも情けない声。羞恥心と幾何かの後悔で消えてしまいたくなったけど、言い終わると同時に大きく見開かれた夜久の瞳が私をここに立たせてくれた。ビー玉みたいに丸くて、それがたまらなく綺麗だと思ったのだ。
やっぱり彼女になりたい。手をつないで帰りたいし、一緒に夏祭りにも行きたい。二人で写真を撮りたいし、夜におやすみって連絡しあいたい。叶うことなら、朝におはようって連絡も欲しい。
「え、まじ?」
夜久は一歩、私へ近づく。眼前に迫った双眸でこの曖昧な夜を一思いに切り裂いてくれれば良いのに。
「ごめん。急に」
「いや、それは全然……良いんだけどさ」
夜久が困っているのかどうか、私にはわからない。だけどほんの少しでも希望があるなら、どうか私を好きになってほしい。激しく動く心臓の流れを感じながら願う。
ままならない思いを攫うように夏の風が間を通り抜けた。湿気のある、温い風。それは短く切りそろえられている夜久の毛先を躍らせて、玉響のようにいなくなった。
とても深い沈黙。人生でもっとも意味のある時間のような気がする。ただじっと夜久を見つめて、見つめて、見つめて、そして夜久が唇を動かしたのを目に入れて、私はようやく息をゆっくり吸い込めた。
「まずはありがとな」
「こちらこそ急に言ったのに聞いてくれてありがとうございました……!」
「なんでそんな他人行儀に言うんだよ」
「だ、だって」
「付き合おうぜ俺たち」
「え、良いの?」
「良いも何も名前がそう言ったんだろ」
「そうだけど夢みたいで……」
夜久は軽やかに笑って、また一歩分、距離を縮める。
夏風に乗り、香る制汗剤。真横を通り過ぎたバスに、乗ろうとしていた時間には間に合わないことをやんわりと悟った。でも、いい。たとえ次のバスが何分後だろうと、今はいい。バスに揺られるよりも夜久と向き合っていたい。
「つーか、俺も名前のことずっと良いなって思ってたから嬉しい」
はにかみながら夜久は言う。言葉が全身に行き渡って、私の心を震わせた。
私の夏はきっとここから始まる。