※SSS


 自分は母が犯した不倫の後に出来た子供だったと知ったとき、私はこの世から消えたくなった。私を司る全てが汚らしく思えたのだ。毎晩ボディクリームを塗るふくらはぎも、ジェルネイルをした指先も、美容室でトリートメントをした髪の一本までも。
 人間が一生にする心拍は20億回であるという事実を聞いて、私はこれだと思った。これしかない、と。
 生まれてからどれほど動いたのかも知らないこの心臓が、少なくとも20億回動けば私は消えることができる。溺死も焼死も病死も全部嫌。痛みも辛さもなくこの世から消えたいと願っていた私にとって、その事実は神の啓示にも似ていた。
 それさえ達成できれば、スイッチを切ったときみたいに一瞬で居なくなることが出来ると、私は信じて疑わなかったのである。

「私と付き合って。それでこれでもかってくらいドキドキさせて」

 休日の昼下がり、後輩の赤葦をカフェに呼び出してそう言うと、大きく見開かれた瞳にまじまじと見つめられた。沈黙を織り交ぜ、悩まし気な吐息をその形の良い唇からこぼし、赤葦は言う。

「どうして俺なんですか?」

 公共の場で告白をしたのにも関わらず私に視線を向けるのは赤葦ただ一人。晴れ間の昼下がりに似つかわしくない理由を片手に告白した私を誰も不倫の末に出来た子供だと思うまい。

「ドキドキさせるのが上手そうだから」

 20億回分、私の心臓を動かしてほしい。
 時と場合によっては熱情的な言葉になりかねないそれを私はただ、私の為だけに発した。

「俺がドキドキさせたら、させた分だけ名字さんは死に近づくということですか」
「うん」

 どうせ心拍数を重ねるのなら赤葦が良い。そう思ったのは突発的だった。 
 繁忙期を過ぎ、ようやく丸一日休める日が出来たという赤葦は目の下に薄い隈を携えて待ち合わせ場所に来てくれた。そんな赤葦の優しさにつけ込むように私は懇願する。

「嫌になったらやめていいよ」
「……わかりました」

 こうして私は20億回の心拍数を赤葦と共に過してゆくことになった。

 デートをするようになってわかったことは、赤葦は案外ロマンチストだということ。映画を観て、水族館に行って、夜景が見えるレストランで食事をして。いつもとは違う雰囲気の服に身を包んで、手を繋いで、キスをして、そして体を重ねた。

「愛してる」
「うん」

 そう囁く度に、赤葦は私を見下ろして微笑む。その表情があまりにも優しくて、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
 この人はきっと、私が望むものを全て与えてくれる。

「名字さん、大丈夫ですか?」

 ぼんやりとした視界の中に映ったのは心配そうな顔の赤葦。ベッドの中、薄いタオルケットに包まれたまま動かずにいる私のそばに腰を下ろし、優しく頭を撫でてくれる。

「ごめん。ちょっと寝不足かも」
「無理しないでくださいね」
「うん」

 今日も私は赤葦と一緒にいた。平日は仕事があるから会うことは出来ないけれど、週末は必ずどちらかの家で過ごすようにしている。
 赤葦と付き合ってから、少しずつ私の心臓は死へと向かっている。優しく、時には激しく、何かを主張するように心臓は動き、赤葦を求めた。このまま心臓の動きを止めてしまえば、何も考えずに済むだろうか。与えられる熱に泣きたくなるなんて思わないで済むだろうか。

「眠いなら寝てください。俺は隣にいますから」
「うん……」
「おやすみなさい、名字さん」

 そうして私はその声を聞きながら赤葦の腕の中で眠るのだ。2人分の心音が混ざり合って優しく私を抱きしめる。赤葦と付き合ってから何回心臓は動いただろう。私はあとどれくらい赤葦にドキドキしたら死んでしまうのだろう。答えが導けないまま私の意識はゆっくりと深く沈んでゆく。
 ああ、でも赤葦が一緒ならまだ消えなくてもいいかなと思ったのは、指先から髪の毛の1本まで慈しむように触れてくれる愛がここにあるからなのかもしれない。