※SSS


 いくらなんでもそろそろ学校を去らなくちゃいけないのはわかっていた。この後クラスのみんなで行くって決めたカラオケにも間に合わなくなってしまうし、先生が見回りにくるかもしれない。でも、私は教室から動けなかった。
 ただ一人、夕日が差し込む教室で自分の椅子に座ってじっと黒板を見つめる。実感はないのに卒業式の余韻がまだ身体の中に残っている。明日からはもうこの景色を見ることが出来ないなんて嘘みたい。

「あれ、まだ残っていたんですか?」
「あ……武田先生……」

 ドアが開く音と共に武田先生が顔を出す。同時に心臓がはやった。ゆっくりと優しい足音で教室に入ってきた先生は、窓辺に近づいて外へ視線を向けた。私はそんな先生の背中を見つめる。決して大きくはないけれど、頼もしくいつだって私達を導いてくれた背中。
 呼吸をする。ゆっくりと。
 私達の存在と、無機質な音と、まだ散らばっている思い出が教室を満たしている。私にとっては心地良くも切なさを帯びた沈黙。破ったのは先生だった。

「卒業おめでとうございます」

 先生のその言葉に私は泣きそうになった。とても穏やかな声色が鼓膜を撫でて私の心を包む。ぎゅっとスカートの裾を握って先生を見つめた。いつもと変わらない微笑み。
 そんな風に笑う武田先生のことが、私は、とても好きだった。

「私……先生の授業好きでした。わかりやすくて、丁寧で。武田先生じゃなかったら現国好きになれなかったです」
「それは嬉しいです」
「体育の後はちょっと眠くなっちゃって、まあ、実は時々寝ちゃうこともあったんですけど……」
「実は気付いてましたよ」
「そうなんですか!?」
「教壇からは皆さんの顔がしっかり見えますから」

 恥ずかしい。教壇に立つ先生から見える景色は、私は、どんなものだったのだろう。たくさんいる生徒の中で少しでも記憶に刻まれる瞬間はあったのかな。
 もう先生の授業は受けられない。静かな湖畔みたいな声色で紡がれる小説。人となりが滲み出てる黒板の文字。全部好きだった。テスト返却の時に一瞬だけ触れた指先も、廊下ですれ違ったときに香る匂いも、全部、全部、私の高校生活を彩ってくれた。

「先生、私が卒業しても私の事忘れないでくださいね」

 出来るだけに事も無げに言ってはみたものの、そんな事を言われるとは思っていなかったのか武田先生は目を見張った。見つめ合って、そして先生はやっぱり優しく笑うのだ。

「勿論です。勿論、忘れません」

 呼吸をする。ゆっくりと。
 今見える景色、感じる空気、香りも、音も、何もかも全部身体に刻みつけたかった。大人になってもこの瞬間を忘れたくないから。
 
「武田先生」
「はい」

 好きでした、と心の中で呟いた。
 口に出すことも叶うこともない恋だったけど、私は先生が好きでした。

「たくさんのご指導、ありがとうございました。私も先生みたいな素敵な大人になります」

 だからいつか素敵な大人になった私で、また再会出来たら。3月の夕暮れは、それでも確かに私を大人に近づけたのだった。