※SSS

 名前さんと深い関係になるのに時間はかからなかった。文芸部に移動して一年目の夏、うちから久しぶりに書き下ろしの長編を出版することになった名前さんの担当編集についたのが俺だった。
 打ち合わせの為に待ち合わせをした喫茶店にやってきた彼女は一見するとどこにでもいるような普通の女性で、言われなければあの有名な女性作家だということは誰にもわからないだろうなと思ったことを今でも覚えている。シースルーのブラウスから伸びる白い腕。その頼りない細さは普段の生活習慣を物語っているようだった。

「私、京治くんとずっと一緒にいたい」
「うん、俺も」

 初めて体を重ねた日、彼女はそう言った。どちらからともなく自然とそうなった関係は酷く不安定で、しかしそれが故にどうしようもなく強固に結ばれているような気分へと俺を陥らせた。気だるげにしだれかかる身体。艶めかしい瞳。甘ったるい声。彼女にとって俺は何番目の男だったのだろうかという愚問すら思い浮かばない程、俺は彼女に溺れていた。彼女と、彼女が綴る文字に。

「名前さん」
「なあに、京治くん」

 そう言うと名前さんは振り返って俺を見つめた。シースルーのブラウスから伸びる腕は、今日も細くて白い。出会ってから一年。小説を書き上げると共に彼女は俺から離れようとしていた。行くな。そう願うのに俺は引き留める術さえ持っていない。
 脳裏に浮かんだのは名前さんが言った言葉だった。ずっと一緒にいたい。そんなのままごとみたいな台詞だって理解している。だけど、俺はきっと心のどこかでそれを純粋無垢な子供のように信じていたのだと思う。ずっと一緒にいたい。俺もこの人とずっと一緒に居たいと。

「名前さんは嘘つきですね」

 言うと、彼女は寂しそうに笑った。何がダメだったのか。最初から間違っていたのか。

「嘘つきだから小説家になったの」

 彼女の背中が遠ざかる。蜃気楼に消えるようにその姿は小さくなる。作家と編集者。もうそれ以外の役割を与えられることは二度とない。
 それでも俺はこれから先も、彼女の事を、彼女の書いた小説を愛してしまうのだろう。彼女が残した僅かばかりの愛をどこかに探しながら。

(22.12.07)