もし青春とはなにかと問われたら、私はきっと『及川徹』だと答えるだろう。
 初めての恋。初めての彼氏。手を繋ぐことも、唇を重ねることも、素肌に優しく触れられることも、全部この人が教えてくれた。私の青春の至る所にところに及川徹がいて、大人になった今でも悪戯に私の心を揺さぶるくらい、あの人は私を青く染めた。

「待って。帰るなら送る」

 夏の、とても暑い日。大人になった徹が言う。
 今日の主役が途中で帰ろうとしてどうするんだ、という言葉が言えないのは酔いが回っているからだと思いたい。
 東京オリンピックが終わってすぐ、東京近辺で集まれる人たちで飲もうということになって開催された飲み会。結局のところは夏の話題を搔っ攫っていった徹への祝賀会のようなものだったけれど、久しぶりに会った懐かしいメンツにいつもよりも羽目が外れてしまったことは否めなかった。

「いや、いいよ。一人でバス停まで行ける」
「でももう名前のこと送るって岩ちゃんたちにも言ってきたし」

 3次会へ参加することなく会を抜けた私を追ってきたのは徹だった。
 徹と対面しながらバス停までの距離を考える。そんなに遠くないし、私を送った後でも岩泉達に合流は出来るだろう。それにオリンピアンに送ってもらうなんてこの先一生ないかもしれない。もしかしたら徹と二人きりで話すのだってこれが最後になるかもしれない。
 お酒は邪な考えをも運んでくるらしい。そう思うとこれ以上断る言葉が浮かばなくて、私は素直に頷くことにした。

「じゃあ、お言葉に甘えて」
「バス停どっち?」
「あっち」

 歓楽街を後にして住宅地の方へ進む。私の歩幅に合わせて徹はゆっくりと歩いてくれた。
 私達の間を抜ける、生温い夏の風。バス停まではゆっくり歩いても10分程。今の私にとっては世界一長くて、世界一短い距離だ。

「さっきも言ったけど、メダルおめでと。応援出来てよかった。楽しかった」
「ありがと」
「メダリストと知り合いなんだって職場の人に自慢しちゃおうかな」

 二人きりで話していると昔の記憶が蘇る。この道を一緒に歩いたのは初めてなのに、どうしてこんなにも懐かしい気持ちになるんだろう。
 だけど、徹は遠い国の人なのだ。もうあの頃みたいに肩を並べることは出来ない。

「バス停、あの角曲がったところ」

 会話らしい会話もないままこの時間の終わりが近づこうとしていた。せめてもの抵抗として歩調を少しだけ緩める。それすらもお酒のせいにしようとしているのだから私はずいぶん狡い大人になってしまった。思考はずっと前からはっきりとしているのに。

「あのさ、名前」
「うん?」

 角を曲がる手前、徹が私を呼び止める。じっとその顔を見つめたけれど徹は何も言わないままだった。
 見つめ合った時間はどれほどだったのか。言葉を発するよりも、何かを考えるよりも先に、近くを走る電車の音に被せて唇が塞がれた。それはお酒の香りがするキスだった。

「……酔ってる?」

 時が止まったかのような一瞬。唇を重ねる行為に慌てふためくような年齢でもない。残り香を感じながら、それでも頭の中は忙しなくこのキスの意味を考えていた。

「そうかも。勢いはあったけど、気まぐれじゃないよ。したいと思ったからした」

 海外だとよくあることなんだろうか。したいと思ったら誰にでもするんだろうか。そんな私の心を見透かすように徹は言葉を続ける。

「名前だからしたいと思ったんだけど、意味わかる?」

 身体が火照る。アルコール度数の強いお酒を飲んだ時のように。おかしい。酔いは覚めていたはずなのに全然徹の顔が見れない。
 本気で避けようと思えば避けられるにも関わらずそうしなかったのはどこかでそうなることを望んでいたからなのだろうか。

「……私より、狡い」
「私より?」
「お酒のせいにしてゆっくり歩こうとした私より、ずっとずっと狡い」

 か細い声でどうにか紡ぐと徹は笑った。子供みたいな無邪気な顔で。

「そういうこと言われると俺、期待しちゃうけど」
「き、期待って」
「まだ一緒にいたいんだけど、いい?」

 優しい眼差し。その手を取るのは少しだけ不安だ。でも冒険がはじまるみたいでワクワクする。この夜が未来へ続きますようにと願いながら、意を決して差し出された手のひらをとるのだった。

(23.1.15)