「じゃあこの証明問題を、名字と月島。前に出て解答してくれ」

 授業中の眠気は先生のそんな一言でどこかへ飛んで行った。やば、と慌てて席を立ち黒板の前に立てば遅れて隣に月島がやってくる。
 チョークって粉っぽいし字が上手に書けないからあんまり好きじゃない。それに背を向けた時に感じる後ろからの見えない視線も苦手だ。
 せめて答えだけは間違わないようにと細心の注意を払いながら問題を解いてゆく。

「……ちょっと」
「え?」

 QEDまであと少し。そんなタイミングで月島に声をかけられた。それは先生にも他のクラスメイトにも聞こえないような小さな声だった。
 思わず手を止めて月島の顔を見たけれど月島は私のことを見ようとしない。
 
「そこ計算間違ってる」
「あ……」

 月島が視線で指した『そこ』を確認するとちょっとした計算ミスを見つける。
 慌てて計算し直すと同時に、頭の片隅で『月島と話したのっていつ以来だっけ』なんてことを考える。最後に同じクラスだったのが中学3年生の時だからそれ以来かな。
 ああそっか、あれ以来か。

「ありがと」
「……別に」

 話したって言うのも憚れるくらいの会話。でも私の心を揺らすには十分すぎる会話。
 答えを書き終え、席に戻りながら浮かぶのは去年のこと。腐れ縁みたいに3年間ずっと同じクラスだった月島。高1になっても同じクラスになるなんてさすがに想像してなかったな。
 あの出来事さえなければもっと違う今になっていたんだろうか。なんて、今更すぎるか。




「月島って名字と付き合ってんの?」
「付き合ってないけど」

 理科室に忘れ物を取りに向かうとそんな会話が聞こえた。中には同じクラスの男子が数人。

「でも仲良いじゃん。名字のことどう思ってんの? まさか月島の片思い?」

  扉にかけていた手を慌てて引っ込めて見つからないように体を小さくした。息を押し殺して気付かれませんようにと願う。
 その場から立ち去らなかったのは月島の答えを知りたいと願ってしまったから。

「俺も気になる。名字も月島のこと好きなんじゃね?」

 だって私はそれなりの自負があった。月島と1番仲が良い女子は私だろうという自負が。
 だから私も知りたかった。月島が私のことをどう思っているのか。できることなら同じ気持ちでありますように、とすら思っていた。
 聞かなければ良かったと後から悔やむことを知らずに、そんな淡い願望だけが私を満たしていたのだ。

「はあ? やめて。名字とはそんなんじゃないから。ただ小学校が一緒ってだけ」
「なんだよ、つまんねぇ」
「月島、まじで名字のこと好きじゃねぇの?」
「ない。絶対にない」
「名字かわいそー」

 ケラケラと笑う声よりも力強い否定の言葉に心臓が酷く痛んだことを今でも覚えている。
 溝ができたのはそれから。一方的に気まずさを感じるようになった私はやんわりと月島を避け始めるようになった。突然態度を一変させた私を月島は不可解に思ったかもしれない。でも月島はそういう相手に対して無理に踏み込むような人ではないから、生まれた溝はゆっくりと深くなり、気がつけば会話なんてほとんどない距離にまで達していたのだ。




 どうしようもない。聞かなかったことには出来ない。月島は私を好きじゃない。なのに私は月島の事が好き。そんな気持ちが今もまだ身体中を巡っている。
 無視をしようとすればするほど心は私に訴えかけてくるから、意を決する事にした。だって今を逃せば次にいつ好機がやってくるのかわからない。

「月島」

 放課後、部活に行こうとする背中を追いかけて絞り出すようにその名前を呼ぶ。振り向いた月島は驚いた顔をして、だけど淡々とした口調で返事をした。

「なに?」
「さっきのことだけど」
「さっき?」
「数学の時。その……間違ってたところ指摘してくれてありがとう」
「……別に。お礼言われるような事じゃないし」
「それはそうかもなんだけど」

 でも、私にとっては重要な事だったから。
 勝算のない恋。分かっているのに気持ちは消えないまま今に至った。今更どうこうなりたいなんて望まないけどせめて前みたいに話せるようになりたい。
 そう願ってしまったんだから、僅かなチャンスは逃したくない。

「……あれくらい」
「え?」
「あれくらい自分で気付けないなんてヤバいんじゃない? もうすぐ中間だけど」

 ギュッと握ったこぶしで緊張を隠す私に、月島らしい一言が飛んでくる。ちょっと気まずそうに。でもニヒルに。

「こ、今回はたまたまだし」
「へえ?」
「テスト対策はちゃんとしてるし」
「そう」
「だから、大丈夫だし」

 言葉が紡がれて会話が成立する。可愛さの欠けらも無い会話が。でも、そう、こんな感じ。たどたどしさがあるけど、私たちこんな感じだったよね。

「月島」
「今度は何」
「部活、頑張ってね」
「……言われなくても」
「そうだよね、言われなくてもだよね。えっと……じゃあ、また、明日」

 弱々しく手を振る。これだけの会話で明日から何かが変わるのだろうか。わかんないけど、変わればいいな。大きな変化じゃなくてもいい。ちょっとだけでも前に進んでいたらいい。

「名字」
「なに?」
「…………また、明日」

 ギリギリ聞き取れるくらいの小さな声。

「う、うん! うん!」
「声でかすぎ」

 そしていつかは月島に好きだよって言えたらいい。そんな事を願いながら月島に大きく手を振った。

(24.08.24)