「あれ、今日はもう仕事終わり?」

 勤めているカフェの従業員出口を出ると、タイミングよく常連の角名さんと出会った。平日午後4時。角名さんはいつもお店のピークを過ぎた頃にやってくるから、今日、こんな形で会うとは思ってもいなかった。

「角名さん、こんにちは」
「ちょうど練習終わったからコーヒー飲みに来たんだけど、名字さんいないなら出直そうかな」

 西日が角名さんの頬を照らすのを見つめながら、どこまで本気なのかわからない台詞を出来るだけ軽く受け取る。
 ともすれば誤解を生みかねないセリフも、スポーツ選手の角名さんが言うと社交辞令とも思えるから不思議だ。偏見かもしれないけれど角名さんは世渡りが上手そうだし、こういう台詞も言いなれてるんじゃないかなって。

「でも角名さんが来たら店長も喜ぶと思いますよ」
「まあそれはそれで嬉しいけど。せっかくだしこの後一緒にご飯でも食べない?」

 角名さんとは何度か一緒にご飯を食べに行ったことがある。一駅先の中華料理とすぐ近くのタイ料理。あと、駅に入ってるお洒落なイタリアン。いつもは店長も一緒に行くけれど、今一緒に行くということは二人きりでご飯を食べるという事だ。嫌ではないけれど、正直、緊張する。
 だけど、緊張を抜きにして私には角名さんの誘いを了承出来ない理由があった。

「実はリンタローを迎えに行かなくちゃいけなくて」
「リンタロー?」

 その名前に角名さんは首を傾げる。
 つい口から出てしまったけれど角名さんはリンタローのことを知らないんだから通じるはずがないと慌てて言い加えた。

「実家で飼ってる猫なんですけど家族が旅行に行くんで数日預かる予定なんです」
「ああ、そっか。そういうこと。俺のことかと思っちゃった」
「え? あ! そうですよね、角名さんの下の名前倫太郎ですもんね」

 本人に言われて私はようやくその事実を思い出す。
 すると、角名さんはどこか楽しそうに私に問いかけてきた。

「飼ってる猫、リンタローって言うんだ。可愛い?」
「可愛いです、とっても! 私が高校生の時に道端で捨てられてるのを見かけて保護したんですけど、結局そのまま飼うことになって。一人暮らし始める時の唯一の心残りがリンタローってくらいに愛しくて、食べちゃいたいくらい可愛いってこういうこと言うんだなーって」
「そっか。名字さんはリンタローの事が大好きってことか」
「そうですね。大好きです」
「名字さんがリンタローの事をどれくらい好きなのか聞けて良かったよ」

 語りすぎちゃったと思ったけれど、言葉に含みを感じて私は角名さんの意図に気付く。

「念の為ですけど、私が大好きなのは猫のリンタローですからね!?」
「わかってるわかってる。でも俺も倫太郎だからさ」
「そうですけど! でも! 角名さんは角名さんですから!」
「なんなら倫太郎って呼んでくれても構わないけど」

 涼しい顔。私の抗議なんて全然届いてないみたいに。もし本当に私が角名さんのことを倫太郎って呼んだら、角名さんはそれでもそんな風に冷静でいるのだろうか。いや、でもそんな日は来ないのだから考えるだけ無駄か。私たちはこれから先も「従業員と常連さん」なんだから。

「と、とにかくリンタロ……実家の猫を迎えに行かなくちゃいけないので今日はこれで失礼します!」
「気を付けて」
「じゃあ、失礼します」
「名字さん」

 去り際、名前を呼ばれる。

「やっぱり今度一緒にご飯行こ。ふたりで」

 夕暮れの滲んだ色彩。夜を迎えようと、角名さんの背後で陽はゆっくりと沈もうとしていた。このまま飲み込まれるのは、少しだけ悔しい。

「……考えておきます」

 私の子供みたいな反抗に角名さんの口角が上がる。いつか角名さんのことを下の名前で呼ぶ日がくるのだろうかと想像しながら、夕焼けに染まるコンクリートを歩き出した。

(23.02.05)