それまで感じていた暑さを一瞬にして忘れた。
「ご、ごめん」
翔陽を見下ろしながら辛うじて口から出てきた掠れた声。扇風機の音と外で奏でられているつんざくような蝉の声が部屋を埋め尽くしている。だから多分、私の心臓の鼓動は翔陽には届いていないはず。
夏休みのある日、彼氏の部屋で勉強をしている最中、席を立とうと腰を上げたらテーブルに足をぶつけて相手を押し倒す形になってしまった。なんて、さすがにちょっと、自分でもどうかと思う。
慌てて身体を退かせると「ケガしてない?」と翔陽が言う。顔も見れないまま「うん」と返すと、また部屋は扇風機と蝉の声で満たされた。
同時に、幼少期の翔陽の事を思い出す。一緒に木登りをした事や、遅くまで公園で遊んで二人並びながら親に怒られた事。小学校に入学する前は一緒にお風呂に入った事だってあった。
私にとって翔陽は、そういう存在だった。
「……あのさ、名前」
双眸が私を捉える。
幼い頃、純真無垢な声で私の名前を呼んでいた翔陽がこんな風に雄々しい瞳を携える日が来るなんて夢にも思わなかった。幼なじみ――いや、むしろ家族とも言えるような関係の中で私達が辿り着いた先はとてもありきたりな関係で、まるで少女漫画や恋愛ドラマをなぞったかのように自然と辿り着いた場所は、だけど、私にとってはとても心地よく刺激的なものだった。
ゆっくりと伸びてきた手のひらが優しく私の頰に触れる。普段の翔陽からは想像がつかない程に丁寧で恭しいその手つきはあまりにも甘美で、一瞬呼吸の仕方さえも忘れそうになった。心臓が高鳴る。鼓動が速まる。まだ何もしていないというのにとても悪い事をしているみたいだ。
「しょ、翔陽」
私たちはまだ高校生で大人の庇護の下にあるけれど、木登りをして怒られるような子供ではない。だから、翔陽がこれから何をしようとしているのかくらい想像することは出来る。
瞼を下したら想像が現実になるだろうか。翔陽の服の裾を握ればより距離は近づくだろうか。なんでも知っていると思っていたはずの翔陽の、知らない部分。口にした翔陽の名前は急かす様な形になってしまったかもしれない。
「その……キ、キスして、いい?」
視線を緩く泳がせながら翔陽が尋ねる。言葉にされるとますます心臓が速まる気がした。
今日、こうなる事を期待しなかったわけではない。気恥ずかしさはあるけれどお互いの柔らかい部分が触れ合ったらどんな感じなんだろうって好奇心はずっとあった。普段はバレーで埋め尽くされているだろう翔陽の頭の中が今、私でいっぱいになっていたらいいな、なんて狡い事を考えながら小さく頷く。
「いいよ」
その一言で私たちの距離はなくなって、唇と唇が微かに触れ合った。想像していたよりも短くて、離れても余韻を残す感覚。
照れくささを隠すように、好奇心を宥めるように私は出来るだけいつも通りの私でいようとする。
「翔陽、キスする時、ぎゅって目つむってたね」
「見てたのかよ!」
「どんな顔してるのかなってちょっと目開けただけだよ」
「ウッ……恥ずかし……つーか何で名前はそんなヨユーなんですか!」
「うーん……まあ、幼馴染だし?」
「今はコイビト同士だろ」
翔陽の口からそう言われて、ああそうか私たちはもうただの幼馴染じゃないんだなって改めて思った。良かった。辿り着いた関係がこれで。翔陽の一番深い場所に触れられるのはいつだって私がいい。わがままかもしれないけれど、狡いかもしれないけれど、翔陽の隣にいるのはずっとずっと私がいい。
「もう一回! 次は目ェ開ける!」
そんなバレーじゃないんだから。それに、そういうのって宣言するものじゃないと思うんだけど。だけどそんなことは口にしないで瞼を下した。もう一度触れ合いたいと私も願ったから。
扇風機の風と、蝉の鳴き声と、翔陽の香りがとても鮮やかに色濃く私の夏を縁どる。高校2年生のある夏休みの事だった。
(23.11.10)
「ご、ごめん」
翔陽を見下ろしながら辛うじて口から出てきた掠れた声。扇風機の音と外で奏でられているつんざくような蝉の声が部屋を埋め尽くしている。だから多分、私の心臓の鼓動は翔陽には届いていないはず。
夏休みのある日、彼氏の部屋で勉強をしている最中、席を立とうと腰を上げたらテーブルに足をぶつけて相手を押し倒す形になってしまった。なんて、さすがにちょっと、自分でもどうかと思う。
慌てて身体を退かせると「ケガしてない?」と翔陽が言う。顔も見れないまま「うん」と返すと、また部屋は扇風機と蝉の声で満たされた。
同時に、幼少期の翔陽の事を思い出す。一緒に木登りをした事や、遅くまで公園で遊んで二人並びながら親に怒られた事。小学校に入学する前は一緒にお風呂に入った事だってあった。
私にとって翔陽は、そういう存在だった。
「……あのさ、名前」
双眸が私を捉える。
幼い頃、純真無垢な声で私の名前を呼んでいた翔陽がこんな風に雄々しい瞳を携える日が来るなんて夢にも思わなかった。幼なじみ――いや、むしろ家族とも言えるような関係の中で私達が辿り着いた先はとてもありきたりな関係で、まるで少女漫画や恋愛ドラマをなぞったかのように自然と辿り着いた場所は、だけど、私にとってはとても心地よく刺激的なものだった。
ゆっくりと伸びてきた手のひらが優しく私の頰に触れる。普段の翔陽からは想像がつかない程に丁寧で恭しいその手つきはあまりにも甘美で、一瞬呼吸の仕方さえも忘れそうになった。心臓が高鳴る。鼓動が速まる。まだ何もしていないというのにとても悪い事をしているみたいだ。
「しょ、翔陽」
私たちはまだ高校生で大人の庇護の下にあるけれど、木登りをして怒られるような子供ではない。だから、翔陽がこれから何をしようとしているのかくらい想像することは出来る。
瞼を下したら想像が現実になるだろうか。翔陽の服の裾を握ればより距離は近づくだろうか。なんでも知っていると思っていたはずの翔陽の、知らない部分。口にした翔陽の名前は急かす様な形になってしまったかもしれない。
「その……キ、キスして、いい?」
視線を緩く泳がせながら翔陽が尋ねる。言葉にされるとますます心臓が速まる気がした。
今日、こうなる事を期待しなかったわけではない。気恥ずかしさはあるけれどお互いの柔らかい部分が触れ合ったらどんな感じなんだろうって好奇心はずっとあった。普段はバレーで埋め尽くされているだろう翔陽の頭の中が今、私でいっぱいになっていたらいいな、なんて狡い事を考えながら小さく頷く。
「いいよ」
その一言で私たちの距離はなくなって、唇と唇が微かに触れ合った。想像していたよりも短くて、離れても余韻を残す感覚。
照れくささを隠すように、好奇心を宥めるように私は出来るだけいつも通りの私でいようとする。
「翔陽、キスする時、ぎゅって目つむってたね」
「見てたのかよ!」
「どんな顔してるのかなってちょっと目開けただけだよ」
「ウッ……恥ずかし……つーか何で名前はそんなヨユーなんですか!」
「うーん……まあ、幼馴染だし?」
「今はコイビト同士だろ」
翔陽の口からそう言われて、ああそうか私たちはもうただの幼馴染じゃないんだなって改めて思った。良かった。辿り着いた関係がこれで。翔陽の一番深い場所に触れられるのはいつだって私がいい。わがままかもしれないけれど、狡いかもしれないけれど、翔陽の隣にいるのはずっとずっと私がいい。
「もう一回! 次は目ェ開ける!」
そんなバレーじゃないんだから。それに、そういうのって宣言するものじゃないと思うんだけど。だけどそんなことは口にしないで瞼を下した。もう一度触れ合いたいと私も願ったから。
扇風機の風と、蝉の鳴き声と、翔陽の香りがとても鮮やかに色濃く私の夏を縁どる。高校2年生のある夏休みの事だった。
(23.11.10)