「名前って俺のこと好きでしょ」

 言われた瞬間、頭の中が真っ白になった。
 見つめ合う瞳。止まる足取り。振り返った及川が私を見据える。その視線を受け、地面に縫い付けられたみたいに動かなくなった足は感覚さえもなくなっていくような気がした。
 夏の夕方の生温い風に吹かれ、息が詰まる。及川を鮮やかに照らす夕陽。眩しさに目を細めながら、それでも私は平然を装った。

「な、なん……なんなの、急に?」
「あれ、違った? よく目が合うからそうなのかなって思ってたんだけど」

 違わない。大正解。私は及川に恋をしている。文化祭の買い出しで二人きりになれた今だって内心かなり舞い上がっている。
 なんて、そんなことは言えるわけもない。

「及川ってば自意識過剰」
「ちぇ、残念。俺が自惚れてただけかー」

 悔しそうな言い回しを、全然悔しくなさそうな顔つきで言う。
 仮面のように取り繕った私の笑顔は、上手に及川を誤魔化せたということだろうか。重たい1歩を踏み出して及川の隣に並ぶと、ようやくその瞳から解放されて心が少し軽くなるような気がした。

「ほんと、そう。自惚れだよ」

 歩みを進めながら、でももし「うん、好きだよ」って言ったら及川はどんな反応を見せたんだろう、なんて陳腐な疑問が思い浮かぶ。それでも今みたいに動揺なんかせず「やっぱり」とかなんとか言うのかもしれない。
 重なる影法師を見つめる。
 及川の彼女になりたい。手を繋いだり、キスをしてみたい。休みの日に私服で待ち合わせしたいし、おそろいのスニーカーを履いて花巻にからかわれるのも悪くない。そんな欲求の中をいつも揺蕩っているくせに、振られた時のことも考える。友達より遠い距離になるくらいならこのままでいい。でも及川と他の女の子が付き合うのは嫌だ。私の我儘な気持ちを知って、それこそ及川が私の事を嫌いになってしまったらどうしよう。この気持ちの全部じゃなくていいから、10パーセントくらいでいいから、私の想いに気付いて少しくらい意識してくれないかな。
 なんて都合の良い事ばかりが頭を巡って、私はまた及川への想いを募らせてしまうのだ。

「それに、残念ってそんな、私からの好意が嬉しいみたいな言い方しないでよ。及川からそんな風に言われたら期待しちゃう子、絶対いるよ」
「名前は期待しないの?」
「し、しないよ」

 少し。ほんの少し、及川の歩調が遅くなる。

「してよ」

 今度は及川が私より後ろで立ち止まった。振り向いて、もう一度対峙する。夕陽はまた、及川を鮮やかに照らしている。頭の中で懸命に及川の言葉の意味を理解しようと瞬きを繰り返す。

「よく目が合うってことはさ、俺だっていつも名前の事見てたってことなんだけど、気付いてる?」

 届いた及川の言葉に身体の奥が熱を帯びた。えりあしを撫でる風に心までくすぐったくなる。
 だって、そんなのは全部偶然だって思ってた。私があまりにも熱心に見つめすぎたから、その熱量に及川が気づいてしまったんだって。

「及川、私の事、す、好きなの?」

 出来るだけ普段通りを意識したのに声が裏返ってしまった。ああ、もう、かっこ悪い。
 でも今はそんな事を気にする余裕すらなかった。だって期待ばかりが膨らんでいる。

「うん、好きだよ」

 及川が言う。
 私が言いたかった言葉。私が聞きたかった言葉。
 絡み合う視線はもう誤魔化せない事を知っていた。
 私は及川の彼女になりたい。手を繋いだり、キスをしてみたい。

「ねぇ」

 柔らかくて優しい及川の声。

「やっぱり名前も俺のこと好きでしょ」

 紡ぐべき言葉はもう、ひとつしかなかった。