今日は来るだろうか。毎週金曜日の夜8時、私はいつもあの人の事を考える。

「名字さん、お先に失礼するね」
「はーい。お疲れ様でした」

 本当は週末にバイトなんて入れたくないけれど、あの人は金曜日の20時にやって来るから結局この時間にシフトを入れる日々が続いている。
 黒髪で高身長で時々眼鏡。よく買っているのは小説だけど、エッセイやマンガ、実用書なんかも手に取る時がある。
 今日はどの本を手にとるのだろうか。私は毎週金曜日、いつもそんなことを考えながらバイトをしている。

「お願いします」

 20時を過ぎてすぐ、その人はレジの前に立った。

「いらっしゃいませ」

 何食わぬ顔でいつものように本を手に取る。やっぱり今日も来た、なんて私が考えていることをこの人は知る由もないのだろう。
 バーコードを読み取りながら背表紙のタイトルを盗み見て、つい零れた。

「……あ、これ」

 慌てて口を噤む。だけど声は届いていたようで、彼はどこか不思議そうに首を傾げた。
 私の好きな作家さんの新刊。この人がそれを手に取っただけでこんなにも嬉しくなるなんて恋とは本当に厄介だ。

「何かありましたか?」
「いえ、その……。最近私もこれを読んで面白かったので、つい」

 鼓膜を撫でる、心地の良い声。この本のポップを書いたのは私だと言うのはさすがに厚かましいと思われてしまうかな。

「ポップに惹かれたんですけど、それを聞いてさらに読むのが楽しみになりました」

 ああ、これはもうダメだ。頭の中に最近よく聴くラブソングのサビが浮かんできて、自分が浮かれている事に気付く。

「わ、私なんです。そのポップ書いたの」

 目尻に柔らかい皺が刻まれる。
 微笑む顔を初めて見て、私の心臓が一気に跳ね上がる。

「そうなんですね」

 それが私と彼――赤葦さんとの初めての会話だった。





「赤葦さんって本読むの早いですよね」
「一応出版社希望してるし、幅広く読んでおきたいからね」

 それから数ヶ月。毎週金曜日、私は今もこの時間にシフトを入れ続けている。
 書店員とお客さんという関係性は変わらないものの、私は彼の名前を知り、他愛もない会話を出来るくらいにはなった。
 私より1つだけ年齢が上で、出版社に就職を希望している赤葦京治さん。

「この本、私も読んだことありますよ。面白いですよね」

 赤葦さんがレジに置いた本を手に取って、私も先月この本を読んだことを思い出す。

「名字さんも結構いろんな本読んでるよね」
「私は書店員だし、ポップを書くお仕事もあるので」

 眼鏡の奥の瞳に柔らかさが宿る。少し微笑まれただけでこうなんだから、満面の笑みを向けられた日には私はどうなってしまうんだろう。
 まあ、そんな日がやってくるのかはわからないけれど。

「じゃあ名字さんのおすすめも買いたいから教えてよ」
「私の、ですか?」
「うん」

 突然の提案に手が止まる。同時に好奇心と悪戯心が顔を出した。

「……数冊あるんですけど」
「何冊でもいいよ」
「じゃあ今、書いて渡しますね」

 一瞬迷ったけれど、意を決して紙に勧めたいタイトルを記す。赤葦さんにお勧めしたい本を4冊。『す』と『き』と『で』と『す』で始まるタイトルのものを。

「……これです。4冊もあるのでいろんなジャンルから選んでみました」

 この暗号にもし赤葦さんが気付いたら、少しは私の事を意識してくれるだろうか。ただの書店員から一歩前に進めるだろうか。
 なんて、狡い告白をしてしまった私が思ってはいけないのかもしれないけれど。

「……あの、読んだら感想聞かせてください」
「うん」

 心地の良い声色が今日も私の金曜日の夜を彩る。
 それでも頑張って絞り出した勇気だから、少しは期待したい。安っぽいミステリーの暗号みたいだけど、名探偵なんて必要ないくらいだけど、私は来週もまたこの人がやってくるのを待つのだ。
 私の気持ちは届いたかな、って考えながら。

(23.11.15)