あのさ、大事な話があるんだけど。

 そう言った時の徹の顔は今までに見たことのない顔で、それが逆にどれだけ重要な話であるかを物語っていた。私はただ一言うんと言うのが精一杯でそれ以上のことは言葉にできなかった。高校三年、秋と冬の狭間のこと。

「ここ最近、なんだか毎日寒いね。もう冬になっちゃうんだねえ」

 隣に並ぶ徹の耳が赤くなっているのを見つめながら言った。徹はうんともすんとも言わずただ私の手を強く握って導くように近くの公園に進む。
 こんな時間とこんな気温だから辺りに人はおらず、ぽつんと寂しそうに存在しているベンチへ私たちはまるでそうするのが当然かのように座った。まるで何かの前触れのように、吸い込んだ空気は肺をより一層冷たくさせた。

「⋯⋯あのさ、大事な話があるんだけど」
「うん」

 真剣な眼差し。だけど切羽詰まったような苦しそうな表情。徹のそんな顔は今まで見たことがない。本当に、本当にとてつもなく大事な話なんだろうと、私はしっかりとその瞳を見つめ返す。

「別れよう」

 凛とした声が少し震えて、言葉は真冬のような色味を帯びて、私の元へと届いた。
 そういった類いの話であるだろうと予測はついていたとしても、いざその口から直接的な言葉が出てくると胸を抉られる。じわりと体の中に言い様のない感情が広がって、それでも平然を装うように努めた。

「⋯⋯理由を、聞いてもいい?」

 握った手をそのままに、徹は一度大きく息を吸い込んだ。その手に力が入ったのがわかる。

「進路。卒業したら、アルゼンチンに行く」

 一瞬、頭の中が真っ白になって、すぐにアルゼンチンってどこだっけ? と頭の中で世界地図を広げた。南米? 南米って飛行機でどれくらいだっけ。治安って良いんだっけ。食べ物って美味しいんだっけ。暑いんだっけ。物価は安いんだっけ。
 そんなことを考えて答えは何一つわからないまま、それでも徹は遠くの場所へ行こうとしていることだけは理解できた。ここではない遠くで夢を掴もうとしているのだと。
 けれどそれはこれまでの徹を見ていたら至極当然の行動で、ありえない話なんかでは全くないのだ。だからそれを考えると、今の徹の行動は納得がいくと冷えた心が少し冷静さを取り戻した。

「⋯⋯アルゼンチンは、まあ、確かに遠いね」
「うん⋯⋯」
「ほぼ反対だしね」
「うん、だから」

 そうして徹は濁すように、繋がれた手を離しながら別れた方がいいと思うんだよね、と消えてしまいそうな声で言った。体の奥底から混み上がる言い様のないこの感覚は、何度経験しても慣れない。喉が、鼻が、目の奥が、妙に痛くてそれでも絶対に泣いてやるもんかと私は意地を張るように、自分の細やかなプライドと戦っていた。

「でも、私だって行けない場所じゃない」

 お金も時間もたくさん必要だし、一人で海外なんて行ったこともないし、まともに英語は話せないけど。それでもそこは、徹が一人旅立とうとしているその場所は、私が絶対に行けない場所ではない。
 奥歯を強く噛んで、握り拳に力を入れて、反らすもんかとまっすぐに徹を見る。驚きと戸惑いを混ぜ合わせたような顔で私を見つめ返した徹はまたすぐに視線を地面へと向けた。

「⋯⋯名前が会いたいって言っても会いに行けないし、泣いてても涙を拭ってやれないし、寒い日に抱き締めることも、誕生日とかクリスマスに一緒に過ごすことも出来ないんだよ」
「うん」
「何一つ彼氏らしいことしてあげられないのに、付き合うなんて酷いことできない」

 この瞬間、徹のことを嫌いになってしまえたらどれだけ楽だっただろうか。そうだね徹は酷い人だと頷いて去ってしまえたら良いのに、どこまで食い下がって良いのかもわからないまま、私は徹を嫌いになれないのだと確信する。

「いいよ。彼氏らしいことしてくれなくてもいい。そんなの嫌だなって思わないくらい、私は私の人生を楽しく生きるから。私は徹といたら楽しい毎日がさらに楽しくなるけれど、徹がいなくなって楽しい毎日が消えるわけじゃない。でも徹の夢が叶うその瞬間、一番近くにいるのは私がいい。他の人なのは、絶対に嫌だ」

 沈黙が訪れる。肌寒い風が容赦なく吹いて、肌を乾燥させる。いなくなる。こうやって近くにいる徹が次の春にはもう、この日本にはいない。桜の花弁が散る中に徹は絶対にいない。そんなの今は想像つかないのに、徹が世界で活躍することはとても納得がいく。
 その沈黙の終わりを告げるように、大きく深呼吸をした徹の身体がこちらへ傾いた。私の両手が大きなその手に包まれると、自然と同じように身体が徹の方へ向く。

「⋯⋯本当にいいの? 会えない彼氏だし、生活だってしばらくは不安定だし、連絡だって繋がるかわからないし」
「いいよ。アルゼンチンで浮気さえしなければそれでいい」

 緊張で鼓動が速まる。私を見つめるその瞳を絶対に反らしてはいけないと本能みたいなものが告げていた。

「いやいやいや、それはさすがにしないよ」
「私だって徹が驚くくらい良い女になるから楽しみにしててよ」 

 それらしい前触れもなく、乾燥して冷たくなった唇が重なる。何をされたか理解した瞬間にはもう離れていたそれは、薄く開いて言葉を紡いだ。

「ごめん。好き」

 ほんの少しだけ熱を帯びたような瞳で徹は続けた。

「泣かせちゃうなって思ってたのに、たくまし過ぎじゃない? 俺がいなくても平気って言うのはちょっと不満だけど、安心できる。……俺の方が寂しくなっちゃいそうなんだけど」
「うん。その時は私が会いに行くよ。泣いてたら涙を拭ってあげる。寒かったら私が抱き締める。だから私のことなんか心配しないで好きなだけ、納得するまでアルゼンチンにいればいい」

 徹のいない春はまだ、想像できない。時差がある生活。違う言語を話すことや私は大学生で、徹はそうじゃないこと。どんどん異なっていく生活を私はまだ理解しきれていないんだろう。こんな大口を叩いているのに悲しくなったり寂しくなったりする日がたくさんあるかもしれない。もう無理だって思う日が来るかもしれない。
 それでも、それでも。

「名前」
「うん」
「俺と遠距離恋愛してください」
「うん。喜んで」

 珍しく痛いくらいに強く抱き締められる。秋と冬の狭間の香りに混ざって、徹の匂いが鼻を掠めた。体の奥底から混み上がる、先程とは違う感覚がまた私の身体を駆け巡る。
 いつか。それは遠い未来かもしれない。夢を叶えるために努力をし続けるこの人のそばで、呆れちゃうくらい笑っていられる日を想って、さあ始めようか。とりあえず遠距離恋愛でも。

(20.02.29)