高校の同級生がアルゼンチンに帰化したと聞いたのは、去年の12月、忘年会と称して皆で集まった時だった。

「そういえば及川くん、卒業後アルゼンチン行ったけどそのまま帰化したらしいよ」

 昔からの知り合いが数人集まれば話題は自然と一日の大半を共有していた、あの青い時代へと移行する。その子の口から出てきた「及川くん」という名前に、忘れかけていた懐かしい感情が顔を覗かせた。

「名前はもう連絡とってないんだっけ?」
「うん。卒業してからは全然」
「2人、仲良かったのにね」

 寒さの厳しい一日になるでしょうとテレビの向こうでアナウンサーが言ったその日、宮城に初雪が降った。例年より一週間も早い観測だったそうだ。そんな11月17日を私は多分、これからも忘れられない。
 受験勉強で学校に残っていた夕方、たまたま玄関で及川と会った私は、そういえば及川とは進路の話していなかったと、何の気なしに聞いたのだ。

 ――及川って推薦で大学進学するんだっけ?

 質問というよりは確認の意味合いのほうが強かった。そうだろうと私は確信していたから。だけど及川はゆるく首を左右に振り、言った。

 ――俺、大学にはいかないんだよね。南米のアルゼンチンに行く予定。

 その後の会話はもう思い出せない。だけどそう言われた瞬間の体の奥が冷える感じを私は今でもよく覚えている。はらりと落ちてくる雪の結晶を彷彿させるひんやりとした感覚が、胸に滲んだのだ。

「まあ、あの時はね」
「付き合えばいいのにって思ってたけど、アルゼンチン行っちゃうんなら付き合わなくて正解だったよね。日本とアルゼンチンの遠距離恋愛とか考えただけで滅入っちゃうよ」
「あはは……」

 自惚れではなく、私と及川は付き合っていても何ら不思議はなかった。どこが、と明確には言えないけれど他の人とは一線を画すようなものを私たちは互いに感覚で感じていたと思う。だけどそうならなかったのは多分、及川のそういう事情もあったのかもしれないと、奥底にしまい込んだ青春の一片をお酒と共に飲みこんだ。






 今日は一段と日差しが強くなるでしょうとテレビの向こうでアナウンサーが言った日、日本対アルゼンチンの試合が放送された。
 及川の存在は今回のオリンピック特番で度々注目されていたから、アルゼンチンの代表に選ばれたことも今日その試合が放送されることも私はよく知っていた。
 その顔を見るのはもう何年ぶりだろうと、会わなかった年月を数えることすら出来なかったのは、卒業してから今日に至るまでの数年間の果てしなさを感じてしまったからだと思う。
 アルゼンチンに行くと告げられた、あの初冬を思い出す。国旗の中央にある太陽は「五月の太陽」と呼ばれ、スペインへの反抗を記念した大切なシンボルである、とあの日ひっそりと調べたアルゼンチンについての知識を私はまだすらすらと言える。

(及川、大人になったなあ……)

 あの太陽は、及川の行く末を照らしてくれたんだろうか。
 今及川は日本にいて、こうして日本代表と試合をしているけれど、私が及川と会うことはもう二度とないかもしれない。そう考えると、古傷が痛むように私の胸の奥は締め付けるられるのだった。
 やっぱり、一言好きだったと言っておけば良かったかな。と数年越しの後悔が今になって思い浮かんだ。





 だからオリンピック閉会まで残り数日という時に家の近くで及川と偶然会った瞬間、私はまず自分の目を疑った。

「え……お、及川?」

 帽子を目深に被りサングラスで瞳が見えずとも、その風貌は私の知る及川のそのものだった。まじまじと確かめるように見つめて、その名前を呼ぶ。

「どうしてここにいるの……?」

 バレーボールの競技日程も終わり閉会式まであと数日。アルゼンチンへ戻る前に実家へとなるのはおかしくないことなのに、私は何も考えることも出来ず思いのままに訊ねた。考えてもみれば及川の実家と私の実家は比較的近くだし、道端で鉢合わせることなんて高校時代も稀にあったことなのだから、今だっておかしい展開ではないはずだ。
 それでもやっぱり普段はアルゼンチンにいる及川がこうして偶然帰省した時に、同じように偶然実家に帰省した私と出会うのは奇跡なんじゃないかなと思ってしまった。

「名字に会いに、って言ったら驚く?」
「え?」

 及川の言葉に今度は自分の耳をも疑う。二の句を継げない私に、サングラスを外した及川は続けた。

「ごめん、半分本当で半分嘘。一応岩ちゃんから名字が宮城で一人暮らししてるとは聞いてたんだけど、まさかここで会えるとは思ってなかったから俺も驚いてる」

 及川の声と、表情と、目線の先に存在するこの感覚に、果てしないほど遠い日のように思える青春が私の記憶の扉を叩いた。

「……ずっと言いたいことがあって、それを言いに会いに来たっていうか」
「言いたいこと……?」

 瞬きを繰り返す。ついこの間、もう二度と会うことはないかもしれないと思っていた相手とこうして言葉を交わしているんだから、やっぱり奇跡はあるんじゃないだろうか。

「アルゼンチン代表になって日本に戻れたとき、名字が誰といても、どこにいても、これだけは言おうってずっと決めてて」

 その笑顔はやっぱりあの頃と変わらなくて、今度はきゅっと甘い痛みが私の胸を突いた。そう、私は及川がこんな風に笑ってくれるのがすごく好きだった。

「あの時は言えなかったけど、俺、名字のこと好きだったんだ」

 長く、果てしない青の最果てに辿り着いたような。
 抑えていた感情が春の嵐のように私の心を吹き抜ける。
 及川は苦笑して、私を見ていた。

「ごめん今更。驚かせたね」

 それはもう過ぎ去った過去なんだろうか。それともまだ、行く末に続く道があるんだろうか。

「……今は」
「え?」
「今は、もう、好きじゃない?」

 泣きたくなる衝動を抑えて、及川に言う。忘れずに持っていてくれたなら、どうかこれからも持ち続けてほしい。

「私はずっと及川と付き合いたいって思ってたんだよ!」

 及川は驚いたように私を見つめた。これが奇跡なら、こぼすようなことはしたくない。

「あれから数年だけど、ちょっとは修羅場も、酸いも甘いも、挫折も苦労も経験したからさ、だから多分、あの時は付き合うに至らなかったけど、でも今なら結構いい線いけると思うんだよね」
「いい線」
「より良い雰囲気、みたいな。いや、なんか大人の付き合い? お互いを尊重する、的な……?」

 私の勢いに及川は呆然と目を丸くさせた後、耐えきれないと言うようにお腹を抱えて笑い出した。極力声は抑えているものの、こらえ切れなかった笑い声が私の耳に届く。

「ちょっと、及川! 私は真剣に話をしてるんだけど!」
「ああ、うん。ごめん。いや、名字ってこんな感じだったなって。変わってないなって」

 包み込むような柔らかく優しい笑みが私だけに向けられる。

「……これからも名字のこと好きでいていい?」

 青春の全てを背負って、私は強く頷いた。
 
(21.06.07 / 80万打リクエスト企画)